会社をつくって一年で死んだ男の話

 前回のnoteで、「来年から社長になることだけ決めた(あとは全てが未定)」という話を書いた。これに対しても、応援のメッセージをいくつもいただけてとても嬉しかった。メッセージをくださったみなさま、ありがとうございました。頑張ります。他のことは何も決めていないけど。

 それで今日は、私の「会社設立」に対するイメージの原風景について書くことにする。私のこの30年の歴史のなかに、かなり明確な原点があるからだ。「これが原点です」というだけの思い出話で、オチというものも特にないが、まあ時間のある人は読んでいってください。


 その原点とは、「父の死」である。私にとって「会社をつくる、経営する」という言葉は、いつも父の死に顔を背負っている。


 父が「友人と株式会社をつくることにした」と言い出したのは、私が小学3年生のときだった。90年代半ば。まだ、「起業」がこんなにカジュアルじゃなかった時代の話である。

 父は当時50歳、母は35、子どもは8歳の私を筆頭に5歳・2歳。乳飲み子のいる状態で会社設立というのは、浮き草フリーライターの私でもさすがにどうよと思わないでもない(一応書いておくと、今みたいに資本金1円で起業できる時代じゃないのだ)。が、まあそういうことを理由にブレーキをふむような夫婦ではなかったため、話はそのまま進んだ。社長は父の友人であるT氏、副社長が父という形になるようだった。このT氏とは、何度か会ったことがあった。

 父らが作ったのは、ざっくり言うと輸入商品を扱う会社である。父はもともとH報堂あがりのプランナーで、T氏もそちら業界の人というわけではなかったはずだが、どういう経緯でそういう方向性に舵をきったのかはわからない。これから波がくるとふんだのかもしれない。
 ともあれ、会社は設立された。父は買い付けや商談で猛烈に忙しくなった。毎日、家を出るのは明け方で、帰ってくるのは深夜だった。おまけに月の半分は海外出張でいない。50代の体にはきつい毎日だっただろう。子どもから見ても、父が凄まじく働いているのは明らかだった。
 母はもちろん父を心配していた。凄まじい頭痛に苦しんでいる父を無理やり病院に行かせたこともある。しかしこの病院がまた地元でも有名なヤブ医者で(ということは後で知ったのだが)、ろくな診察をしなかったので何の手助けにもならなかった。

 私は子どもだったのでその辺の事情を知らされていなかったが、経営は最初からずっとうまくいっていなかったらしい。家計もかなり貧窮していたようだ。だからこそ、父は余計に頑張っていたのだろう。私たち三人を海外留学に行かせる、というのが父の望みだった。

 私は子どもの頃から父っ子だったが、この頃父と何を話したかはあまり思い出せない。たぶんそんなに顔を合わせていなかったのだと思う。ただ、折に触れてこう言われたのは覚えている。

「俺は長生きしない。ママと妹と弟を頼むぞ。みきはうちの長男なんだから」

 これを読んでいる人たちにくれぐれも言っておきたいが、言葉は呪術である。同じ言葉をあまり何度も言ったり思ったりすれば、現実はそれに沿っていくらでも変形する。というか、よく言われるように言葉こそが現実を作るのである。だから子どもが幼いのに「早死にする」などと言いまくってはいけないし、長女に対して「お前は長男だ」などと言うのもいささかよろしくない。実際に早死にするし、娘の自意識も歪む。我々父娘はそれを証明している。

 さて、そんなこんなで1996年。
 薬害エイズ裁判が世間を騒がせ、アトランタオリンピックで有森裕子が銅メダルを獲得し、コミックマーケットが晴海から今の国際展示場に移り、民主党が結成され、「たまごっち」が発売された1996年。

 10月某日の夜明けに、私たちは妹の声で目を覚ました。

「パパのいびきが変だよ」

 暗闇の中、父のウシガエルのごとき凄まじいいびきが轟いていた。布団が、大量の汗と失禁によってぐしゃぐしゃに濡れている。声をかけても起きない。
 ただちに救急車が呼ばれた。母が弟を連れて一緒に病院に向かい、私と妹のふたりが家に取り残された。
 通学の時間まで並んで部屋の壁にもたれていたこと、その日がちょうど運動会だったことを覚えている。

 父が意識を失った理由は、くも膜下溢血だった。
 くも膜下溢血のほとんどは、脳の動脈の枝分かれ部分にできた、脳動脈瘤というニキビのようなものが膨らみ、破裂することによって起こる。過労の毎日が父の血管を弱め、破裂させたことは明らかだった。

 くも膜下溢血の死亡率は50%と高い。父は、病院に運ばれてすぐの段階ではなんとか一命をとりとめたのだが、回復の見込みが立つ前に植物人間状態となり、倒れてちょうど一ヶ月後に心肺停止で死亡した。
 この一ヶ月の間、私はあまり学校には行かず、妹や弟と一緒にふわふわした、非現実的な日々を過ごしていた。時が止まったような一ヶ月だった。この時期が私の人格形成に与えた影響はとてつもなく大きいが、本題とはずれるので割愛する。

 父の葬式は、ド派手な浄土宗の式だった。会社関係の人間が100人以上もやってきて、まるでパーティのようであった。憔悴した母が、ひたすら色んな人に頭を下げていた。

 葬式は、共同経営者のT氏が手配してくれたものだという。
 しかし、私は子どもながらその内容にはおおいに不満があった。
 なんせ、父はクリスチャンだったのである。洗礼を受けたかどうかが定かでないため、正式な信者とはいえないのかもしれないが、もっとも心の拠り所にしていたのは聖書だ。私の名前だって、「ミカエル」に通じるから「ミキ」が選ばれたのだ。その父をどうして念仏と木魚で見送らねばならないのか。

 だから私はそのとき思ったのだ。

 T氏は父の友だちだという話だったけれど、父のことをちゃんとは知らないんじゃないかと。

 弔辞はそのT氏が読んだ。

「『Tさん、一緒に会社やろうよ』。小池さんはそう言ってくれましたね……」

 なかなか感動的な文章だった。でも私はその弔辞を聞いて、「この人は、父のことを好きじゃなかったんだ」という確信を深めたのである。
 私はまだ9歳だったが、毎日本を読み映画を観て、「本当に心の震えるもの」を探し求めていた。広告屋の父と元編集者の母から、「うわべだけは美しいが、中身は空っぽの言葉がこの世には溢れている」ということを嫌というほど教えられていた。だからわかったのだ。この弔辞の文章はよくできているが心は通っていない。誰かの死を本気で悼んでいる言葉ではないと。

 その悪印象が証明されたというべきか、それからしばらくたって、我が家に父の生命保険金がほとんど入らないことが判明した。何千万円だかわからないが、大半が会社に入るのだという。
 ここにはいろいろ複雑な、そして我が家にとっては不本意な経緯があったのだが、本来そうあるべきではなかった(三人の子持ちの男が、死亡保険の大半を家に入れないなんてことがあるわけない)というのはたしかだ。
 会社経営にほとんどの金を吸い取られていた我が家に、保険金も入らないとあっては生活が成り行かない。しかもこのとき母は専業主婦で、助けてくれる親戚等もゼロだったのだ。金の入るアテが皆無である。しかし、書面がそう変更されてしまったのではいくら抗議しても無駄だった。葬式が終わってしまえばT氏は一切の情を見せず、焼香を上げに来ることもなく、交流はブッツリと途絶えてしまったのである。

 それからの小池家が、主に母がいかに大変だったかという話もここでは割愛。とりあえず、私が18になるくらいまでは実に厳しかった。

 それを横目に(まあ見てなんていなかったと思うけど)、T氏と父の作った会社はぐんぐん成長した。なにせ父の生命保険金で懐はあたたかく、かなり強気の買い付けができたのだ。
 父の死後、その会社はとある商品で全国的大ヒットを飛ばし、数年後にはジャスダック市場に上場。一時期は年商数百億にまで業績を伸ばした。

 やがてある時、T氏の子どもたちが海外留学へと旅立った。
 そしてそれを聞いた頃、私は大学進学資金を貯めるため、本屋で時給800円のアルバイトをしていたのである。


 というわけで、全体的に暗い話で恐縮だが、これが、私にとって「会社をつくる、経営する」の原風景だ。

 私が最初に触れ合った「会社経営者」は、だから父なのである。
 そして二番目がT氏である。

 父は、会社を起こして一年で過労死し、金もろくに遺せず、女房子どもを路頭に迷わせる寸前になった。
 T氏は、会社を起こして一年目に共同経営者の死によって大金を手にし、数年で億万長者になって、子どもたちを海外にやった。

 その後も多くの起業家・経営者に会ったが、父のような悲惨な末路は目にしていないし(これからも目にしたくないですね)、T氏ほど数字的に成功した人は、直接会ったことのある人(取材とかで)の中だとたぶん堀江さんくらいしかいない(堀江さんはまた桁が違うけど)。
 考えうる限り最低な方のケースと相当成功したケース。あまりに両極端な二人の経営者の姿を、私は子どものときに克明に目に焼き付けてしまったといえる。

 ものの本にはよく「ほとんどの会社は三年でつぶれる」などと書いてあり、だから甘くないとか慎重になれなどと助言が添えてあるが、私からすると「だからどーした」という感じである。一年で本体の方が死ぬ奴もいるのだ。株式会社が一つ消えるくらいどうってことない。私が来年会社をつくって、再来年つぶしたとしても、別にそれで世間様に対して申し訳ない気持ちにはならないつもりである。

 ……と書いたが、こう考えるようになるまでには長い時間がかかった。前回書いたように、私は父の死以来、「会社経営」自体に対して凄まじくネガティブな気持ちを抱いていたようなのである。父やT氏のような例を見てなにくそと奮起する人もいるのだろうが、私は根がセンシティブなので(ギャグです)、真っ向から凹んで萎縮し、いじけてしまったのだ。

 そのわかりやすいあらわれが、ビジネス書との付き合い方だろう。
 18歳の頃、アルバイト先の書店でビジネス書担当にされたことがきっかけで私はいろんな経営者のエッセイや自己啓発本を読むようになるのだが、どうもいつも「気に入らない、でも読みたい」という気持ちで読んでいたのだ。どいつもこいつも共感できない、偉そうなことを言っていてむかつく、だけど気になる、と。
 それについて考えたくない、でも見たい。
 あくまで31歳の今、あとづけ的に分析すればだが、たぶん私は全ての経営者に、「父のなれなかった姿」と「T氏が今まさに体現しているに違いない栄光」を見ていたのだ。惨めさとかやっかみとか、いろんなものが私の中に渦巻いていたのだと思う。

 今、私の中にそういう気持ちはない。私も歳をとって、父やT氏のことが少しはわかるようになってきた。父は頑張ったが全体的にウッカリしていたおっさんだったし、T氏はラッキーで商売の上手なおっさんだった。そして父はもう静かな骨になっており、T氏も余命の方が短い爺さんになっている。今更彼らに何かを求める気はない。

 そして私は、そろそろある種の「父殺し」に挑戦したいという気になっている。
 前述のとおり、父はやたらと私に「みきは長男だ」と言い聞かせていた。私もバッチリそれを内面化し、「父殺し」的なものを志向する娘として育った。30になる前に、そのこんぐらがった自意識はあらかた収納ボックスに片づけたのだが、そこから今あらためて、素朴な気持ちで「少年ジャンプ」的な感覚を引っ張り出してこようと思うのである。

 父はたしかに、おこした会社を発展させること、そして家族を守り続けることには失敗した。
 でも彼はともかく会社を作ったし、そのために人を全面的に信用するということをした。そして私たち家族に金は遺さなかったが、何千冊という本、何十本もの名画のテープ、山のような音楽CDといった文化資本を、何より愛を遺した。それは充分にひとつの偉業だと思うし、そのいずれも私はまだやったことがない。
 別にやれなきゃいけないということではないけど、でもやってみたいではないか。「海賊王に俺はなる」みたいなもので。そして私が一番やりたいのは、父は多分あまりやろうとしていなかった領域、「社会にもっと強く干渉する」ということだ。そこにまで踏み出せたら、あの世でもいい話のネタになるだろう。


 そんなことを考えながらこの記事を書いていて、9歳の誕生日にもらった父からの手書きのメッセージを思い出した。

「そのままの未樹でパパは満足です。欲を言うなら、もう少し自分の運動神経に自信を持ってね」

 9歳のときの私は、「走るのが遅い」という一点において、自分は学校一運動神経のないクソデブだと思っていたのだ。
 あれから20年以上たった今、運動神経についてはむしろわりと自信のある人間として生きている。「経営センスに自信を持って」と私に言ってくれる人はいないと思うが(だってやったことないし)、61歳くらいになるころには自信を持てているかもしれない。

 そんなことを希望に、えっちらおっちら頑張っていこうかと思うのである。ま、くも膜下溢血にならない程度にですけどもね。


 次は、もうちょっと今後の話をしたいと思います。

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小池みき

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