無力さのメタファーについて

 昨日は早めに寝たので、ちゃんと朝のうちに起きられた。このまま早起き生活に切り替えたい。

 11時半に都内某下町へ。尊敬する趣味人・T氏とふたり、感じのいい和風洋食屋でご飯を食べる。話すのに夢中で店の中をろくに見なかったのでまた近いうちリベンジしたい。
 美味しいしょうが焼きを食べながら、T氏と『ポーの一族』や『霊的ボリシェヴィキ』の感想を言い合った。「『ポーの一族』、ちょいちょい『いつものイケコ先生だなあ』と思ったんですけど……」と話したところ、T氏に「俺には、小池修一郎の演出って非常にオーソドックスなミュージカルの演出に思えるんだけど、どこに特徴があるんだろう?」と質問されてハタと悩む。改めて考えれば、「イケコ演出の特徴」を説明したことってない。1992年の「PUCK」から10作くらいは映像・生合わせて観ているのに。でも、なんとも言えないイケコ感ってある気がする。とりあえず、「ネバセイ」のココナツ・グルーヴ紹介のシーンと、『ポーの一族』のホテル紹介のシーンがどう似ているかくらいはちゃんと説明できるようになりたい。
 洋食屋を出たあとも、喫茶店に場所を移して延長線。いつものように、たくさんの本や人の名前を教えてもらった。
 T氏と別れたあとは、整体を受けてから池袋のジュンク堂。T氏に激推しされた石川宗生の『半分世界』(東京創元社)、ポール・ブルーム『反共感論』(白楊社)、大澤真幸『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(角川書店)、新しい論考雑誌「多様体」第1号「人民/群衆」(月曜社)の四冊を買う。新刊の人文書を買うのは久しぶりだ。

 

 しつこく『幸色のワンルーム』について。
 どうでもいいけどこのマンガ、私の中では最初のタイトルである「世の中色んな人がいると言う話」(「言う」はママ)で記憶されており、「幸色のワンルーム」という単語がいつもうまく出てこない。そしてなぜか「夢色ワンルーム」という言葉が代わりに浮かぶ。多分「夢色パティシエール」と混同しているのだと思う。あれのアニメが放映されていたのは私が大学生のときだったな。

 話は戻って『幸ワン』。SNSで検索などするとどうしても「作品のインモラル性が、社会——特に①この作品から連想されやすい朝霞事件の被害関係者、②主要読者である少女たち、③少女への加害欲求を潜在的に持つ大人たち、に与える悪影響」についての議論が目につく。しかし昨日も書いたように、私はこのあたりについて、頭ではわかってもあまりヒートアップはできないのである。「犯罪を美化している」「フィクションと現実の区別がつかない人はいるのだから注意が必要だ」などの表現にもいまいちしっくりこない。「犯罪を美化する」という行為自体を軽んじているわけではないし、出版社の倫理観は、現実社会への影響を大いに自覚した上で作られるべきだとも思う。ただ、私の中で「そこじゃない」感が否めないのだ。それはなんでか……というのを考えていた。

 で、私の中で、ひとつまだ説明できていない実感を見つけた。それは、「ある種の少女向け作品の中で描かれるヒロインを脅かす”脅威”(いじめ、親からの虐待、性暴力など全て)は、『犯罪』という観念とはほとんど結びついていないのだ」というものだった。
 ケータイ小説でも、二次創作小説・漫画でも、ヒロイン(あるいは受け)を脅かす数々の”脅威”が描かれる。それらが、現実的に考えれば「逮捕に値するほどの暴力、加害」であることは極めて多い。にもかかわらず、それらのことを、私は(もしかしたら読み手の女の子たちも)はっきりとメタファーとしてとらえている。何のメタファーかというと、言うなれば「少女の無力さの根拠」だ。私は今のところ自分を「無力な少女」とは思わないのでここにはっきり自分を重ねることはないが、ただ9歳以前(なぜ9歳かというと、私の子供時代が終わったのが9歳だと認識しているから)の自分を重ね合わせようと思えば、ほんの少し重ねられる気はする。
 少女でいるかぎり、この社会に対して手も足も出ない……という感じ方が私の中にもある。”彼女”は、ただ生きているだけで貪り尽くされ、痛めつけられ、価値を剥奪されている。そんな”彼女”を表現するには、”彼女”の着ぐるみであるところの”私”のような、平凡な女を表象してもしょうがない。表象するのは「身近な人間たちに明確に暴力を受け、打ちひしがれ、感情を殺している少女」でなければいけないのだ。
 漫画家の梶本レイカが『悪魔を憐れむ歌』のあとがきに、「暴力的な漫画が増えたと言われるが、『それほどまでの痛み』が社会の中にあるのだと思う」というようなことを書いていた。同じように「虐待されているヒロイン、助けてくれる人物も犯罪者で社会の理解は得られない」という設定も、「それほどまでの無力さ」のための表象なのだろうという気が私はする。つまり視点は常に「力の無さ」にあって、暴力を振るってくる親にも、閉鎖的な空間で愛という形の支配を与えてくるヒーローにも物語のピントは合っていない。全ての表象物は「少女の無力さ」を固定するための文鎮だ。あるいは、「なんであなた、プールに入らないの」と詰問してくる先生に提出する塩素アレルギーの診断書のようなもの。
 文鎮や診断書ごときを、現実の「犯罪」に結び付けられるわけがない。「そんな話はしてないよ」で終わりなのである。9歳の私は、「私の話をしてるのに、どうして私じゃないもののことを気にするの」とぬかしている。いや、この人達は犯罪を犯しているわけですよ、と彼女に言っても響きはしない。なぜか。単に、それは彼女のほしかった台詞ではないからだ。

 ……この感覚が、私と、「犯罪の美化はよくない」という言葉の間にあるギャップなんだと思う。あの手の作品を好きな子たちが作品を通してどんな飴玉をしゃぶっているのか、それについて考えていくとどうも「現実とフィクションの区別がつかない人間たち」のことなど考えなくなる。
 飴玉自体はとりあげたくない。うまいことその飴玉はしゃぶらせたままで、本人も気づかないうちに完全栄養食を摂取させる、みたいなことができないだろうか。そんなことばかり考える。

 私はすでに31歳の女であり、「表象され、社会に放たれたものには付加価値と責任が伴う」ことをすでに知っている。だから、「描かれたもの」全体を見る。「自分の無力さ」にしかピントを合わせない子どもにはわからない部分が気になる。「自分は無力だ」と思いこむことの危険性も知っている。だからある種の「描かれたもの」については、それを見る人間が自分の無力さや痛みを物語として味わい、自分なりの納得をするために必要な機構は残し、あとは手を入れてしかるべき形に整えたいと思う。それは駆け引きであり戦いである。それをやり果せるくらいの知力や技術は持っていたいのである。

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小池みき