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私の人生を変えたラグビー選手『大畑大介』

大畑大介選手。
1試合のプレーで私をラグビー沼にはめた。
それ以来長く続くラグビーファン歴が始まった。

今では年間50試合以上を現地観戦し、見に行くことができなかった試合はJSportsオンデマンド、WOWOWオンデマンドで平日にチェック。
1990年代後半に日本で初めてのラグビー選手個人ファンサイトを作り、それがこのnoteやSNSにつながっている。さらには、雑誌デビューを果たすほどになった。

彼は「私の人生を変えた選手」といっても言い過ぎではない。


大畑大介さんとは

1975年、大阪府出身。
本人曰く「友達がいなかったら、友達を作ろうと思ってラグビーを始めた」少年は、天性の俊足を活かし、一貫してバックス(特にウィング)でプレーした。
開花したのは高校時代。東海大仰星高校時代に大阪府代表、高校日本代表に選出される。その後、京都産業大学に進学。4年生ではキャプテンに就任し、全国大学選手権ベスト4となる。大学卒業後は神戸製鋼所ラグビー部(現:コベルコ神戸スティーラーズ)に入団、途中一時留学や離脱がありつつも1998年から2010年シーズンまでプレーをする。2010年シーズンをもって現役を引退。

日本代表では、京都産業大学時代の1996年に日本代表に発表選出され初キャップを得る。
2002年には台湾を相手に(今も誰も敗れていない)日本新記録8トライを挙げるなど、テストマッチ通算69トライで世界最多トライゲッターとしてギネスブックに認定されている。

引退後は神戸製鋼コベルコスティーラーズのアンバサダーをはじめ、全国でラグビーの普及やラグビーをプレーする環境改善の活動につとめる。2016年、ワールドラグビーからワールドラグビー殿堂入りとして表彰される。

まさに日本ラグビーの顔といえるレジェンドだ。

一方で、地上波でスポーツ選手が自らの心技体を競う『スポーツマンNo.1決定戦』に4回出場し2回優勝している。

これをきっかけにラグビーを見る女性ファンが増えた。今でこそ選手のメディア出演も多く、一般国民にもおなじみの選手が多いが、当時は「ラグビー選手がTVでちゃらちゃらするなんて」というラグビー界の封建的な風土に風穴を開けたラグビー界のファーストペンギンだった。

上原さん、振り返ってくださってありがとうございます。

きっかけは日本選手権

子供のころから運動音痴だった私は、ラグビーだけでなくスポーツ全般に興味がなかった。仕事が趣味、というほど出不精だった。

ラグビーを見に行ったのは、愛知に住む先輩の誘いだった。
先輩はラグビー部ではないけど、早稲田大学出身で在学中からラグビーを応援していた。カジュアルスタイルの職場でラガーシャツやラグビーをモチーフにしたTシャツを着ているほど、自然体でラグビーが好きな人だった。

1998年シーズン、第36回ラグビーフットボール選手権大会の決勝。

1998年、出張で東京に長期滞在していた私に「ラグビー観に行くんだけど」と連絡があった。ラグビー好きの先輩がラグビーのために愛知から東京まで出てくる。(当時の私にとっては)あり得ない距離を移動してくる先輩を動かす「ラグビー」が気になって一緒に行くことにした。

イメージ(写真は試合とは別日ですが、同じくらいの席でした)

対戦は 東芝府中 vs. 神戸製鋼。
『ミスターラグビー』と呼ばれた平尾誠二さんの引退の翌年(そう、私は平尾さんの現役時代の凛々しいお姿をライブで見ていない(涙))、神戸製鋼7連覇が途絶えて以来4年ぶりの決勝進出、東芝府中は3連覇のかかる試合だった。

東芝側には現在GMの薫田さん、日本代表初の外国人キャプテンのマコーミックさんがいた(らしい)。神戸製鋼側も堀越さん、元木さんなどレジェンドなメンバーが揃っていた(らしい、覚えていないけど)。

正直に言えば試合のことは、まったく覚えていない。
その中で覚えている、そしてずっと忘れないのは大畑選手の快走だ。当時から積極的に展開するオープンラグビーを強みとしていた神戸製鋼は、トライをとるバックスがキーになる。ライン際でボールをキャッチするタイミングで最高速度となり、ディフェンスを追いつかせない俊足は、私をくぎ付けにした。

「なんか、あの人すげーーーー!!!」

そうして、私は大畑大介選手を入り口にラグビー沼にはまった。

生活が一変する観戦旅、そして好きが広がる

先に書いた通り、名古屋から東京への出張すら「はるかかなた」と思っていた私がラグビーにはまり、神戸製鋼を応援する観戦旅が始まった。
1999年はトップリーグの前身となる「東日本」「関西」「西日本」で別れて社会人リーグをしていた。関西といっても東は静岡県のヤマハ発動機(現:静岡ブルーレヴズ)から西は兵庫県高砂市の鐘淵化学(現在は廃部)とまぁまぁ広い。ちなみに関西のほかに「西日本」があり中国地方・九州地方のチームが所属した。

リーグ戦は秋に始まる。毎週末試合があるが、全部行くことはできない。でもできる限り...と遠征の旅に出た。一番多く行ったのは花園ラグビー場。名古屋から近鉄を乗り継いで出かけた。全国社会人大会、全日本選手権になると東京までも出かけるようになった。

初めての秩父宮ラグビー場は、このラグビー日本代表のイベントだったような気がする。

さらには対戦相手のチーム、選手も見るようになってきて、好きなチームや選手が広がってきた。例えば、トヨタ自動車(現:トヨタヴェルブリッツ)の廣瀬選手(現:京都産業大学ラグビー部監督)は今でも一番好きなキッカーだ。異名は『ゴールデンブーツ』。22mライン上であればどこからでもプレスキックを決められる、といわれるほど精密なキッカーであり、フォームが誰よりも美しかった。

ファン友ができる、そして好きが広がる

観戦し始めたころの私は選手やスタッフ、いつも一緒のファンに自分から話しかける勇気もなく、一人で観戦に行って一人で試合を見て一人で帰る生活をしていた。

それが変わったのは、ラグビー選手初個人応援サイト『Love Ohata』(現在は閉鎖)を作ったことだった。
まだSNSはおろかブログも多くない時代に、HTMLでニュースを書いて、レンタル掲示板ツールを動かして応援メッセージを募るだけの今思えば稚拙で恥ずかしいサイト。それでも『スポーツマン No.1決定戦』での人気に乗ってブレイクした。多い時には1日で1000pvを超える、当時としては人気サイトだった。
さらに、オンラインで知り合った人と会場で会うようになった。今でこそスマホがあって簡単だけど、当時はメールや掲示板で綿密に会う予定をたてて.. と会うのも大変だった。

そうしていくうちに会場であったら声を掛け合うファン友ができた。「また来週」「来週はどこ?」約束をしなくても会うことができる友人は私の宝だ。20年以上たってツールも変わったけど、今でも会場で会うスティーラーズファンの先輩がいる。ありがたい。

生活や人生の環境が変わっていくごとに新しい人に会ったり、今までの人と会えなくなったりする。それでも同じラグビーを愛する気持ちのつながっている。SNSがある今では、つながりはさらに加速している。

ようやくお礼を伝えられた2023年(あの衝撃から25年)

ラグビーを見始めたころは、推し活素人すぎて「入待ち」「出待ち」というものがあることを知らなかった。さらには、あまりに尊すぎて近づくことも話すこともできず、試合で遠くから見守ることしかできなかった。

毎年のファン感謝イベントでサインをもらう、写真を撮るのがやっとだった。今ほどファンサービスの規制はなく、かなり近づけたはずだったのに…と悔やまれる。

それから10数年。現役を引退され、起業されたプロジェクトの一つ『大畑大介商店』出店の試合会場でようやくお会いして、めちゃくちゃ緊張しながらお礼を言うことができた。

「大畑さんのプレーを見てラグビーにハマりました。そして人生が変わりました。ありがとうございます。」

星の数ほどいるファンの中で、どれくらい伝わったのか?まったく伝わってないのか?わからない。でも、やっとやっと言葉にして大畑さんに話ができた。嬉しかったし、有り難かった。

大畑大介さんへ

「ラグビー」で私の人生をカラフルなものにしてくださったことにお礼を伝えたくて、このnoteを書いています。

それまで何事にも引き気味で接してきた私が、自分から行動して何かをしたいと思うようになったのがラグビーでした。

そのきっかけは1998年の日本選手権の大畑さんのランでした。
優勝したのは東芝府中でしたが、その試合で大畑さんのランから目が離せませんでした。自分の気持ちも爽快になるような走りに熱狂し、思わず声を出していました。

ライン際でいつも臨戦態勢で構え、勝負の瞬間には誰よりも速い。どの姿も大好きでした。

どの一瞬も見逃したくなくて、大阪や神戸へ週末ごとにラグビーを見に行く生活が始まりました。また、遠くからだけど応援したいと個人応援サイトを始めました。
今まで何かに夢中になることがなかった私が夢中になり、さらに全国だけでなく海外へも応援に行くほど行動するきっかけをくれました。どの試合に行っても(海外すらも!)ファン友と会うことができる楽しい時間ができました。

すべては大畑さんがきっかけです。本当にありがとうございました。
これからの活動もずっと応援しています。



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