小沢君、流血していたの巻

時は1990年頃。多分その前後。
あ、前置きさせてください。
私、本当に日時というものを把握するのも記録するのも苦手なんです。
なので、今後出てくる一切の記事は、年月日が不明なのであります。
ごめんなさい。

はい。
そう時は1990年頃。

私の友人で音楽事務所に働くmちゃんという子がいた。
彼女はなんせ新しいミュージシャンを発見するのが得意で、彼女に勧められた高野寛さんは良かったし、私自身、YMO好きの彼氏と付き合ってた影響で高橋幸宏さんが好きだったため、その筋から出てきたという高野寛さんはとても気に入っていた。

その彼女が、みっこ!すんごいおすすめのバンドがいるの!と興奮状態で勧めてくれたのが、後にも先にも私の運命の出会いとなるフリッパーズ・ギター。
海へ行くつもりじゃなかったなのであった。

一聴しただけで、トリコになった。
まず、ジャケットのセンスからギターの音色、そして英語の歌詞、またその内容。全てが私のハートをズキューンと貫き

ほ、ほんとだ!
こりゃやばい!!!

人はMAXの感情の時程、言葉は浮かんでこないんである。
とにかく、やばい。
その一言に尽きた。

それから速攻でライブチケットを用意してもらい、渋谷クラブクアトロへ参戦した。

ここで、我が記憶が曖昧なのが残念なのだが…
初めて見たライブは確か、フリッパーズ・ギターが5人編成から2人ユニットになった初のライブだった。これは覚えている。
確かカメラトークが発売される前だった…はずである。これは曖昧。

当時、ライブと言えば気取って後ろの方で見ていた私。(なんかそういうのがかっこいいと勘違いしていた)
だが、この時ばかりは、最前列へ。
多分その頃は人気は上だったメインボーカルの小山田圭吾さんの前には行かず、リードギター兼コーラスしていた小沢健二さんの前を陣取りライブ観戦した。

私のその時の感想。
わぁ、小沢君だぁ…
またしても言葉が出てこない状態。

小沢君だぁ…

その頃はまだメジャーシーンとは遠い場所にいた小沢健二と言う人は、大学生だったように記憶している。
なので私たちファンも、小沢健二さんとは呼ばず、もちろんオザケンなんていう愛称が生まれる前の前のこと、親しみとリスペクト込めて小沢君と呼んでいた。

予想通り?
演奏はお世辞にも上手いとは言えず、
合間のトークも辛口というかひねくれた悪態ばかりついていた。
でも、楽曲はピカイチで、そこには書くのも躊躇われる程、臭い表現だけど、パッションって奴がほとばしっていた。

ライブの中盤だったか、ラスト当たりだったが、違和感。
ん?
小沢君が指を気にする所作をし始めた。
どうも弦が切れたらしい。
だが、記憶が定かであれば、そのまま演奏は続けられていたように思う。
そして指が切れたと告げられた。

い、い、痛そう…

その時、私は本当に珍しくバンドエイドを持っていた。
普段はハンカチすら持つのも怪しい女子力皆無な私がバンドエイドを何故か持っていたのである。
手をグーンと伸ばせば届くような至近距離にいる小沢君。

わ、わ、わ、渡してみようかな…

しどろもどろしてるうちにライブは終わり、結局渡せずじまいであった。

後にメジャーシーンに躍り出た小沢健二さんだし、フリッパーズ・ギターと言えば、伝説のバンド的な存在となり、その流血ライブというのも伝説になってるそうなんである。

東京でのライブは全部制覇し、なんなら実質解散ライブとされるFM公開録音ライブも参戦した私だったのだが、
このライブの時にバンドエイドを渡すか渡すまいか悩んだ気持ちというのは30年以上経った今でも生々しく覚えているのである。

他にも小沢君ネタはありますが、またの機会に。では。

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