レフトハンド・ブラザーフッド(試し読み)

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その冒頭部分をこちらで無料公開いたします。

誰も見たことのない兄弟の物語。
ノンストップサスペンス&ミステリー。

ぜひお楽しみください!



■第一章

 剃刀のように細いロードレーサーのタイヤが水飛沫を上げていく。痛みを覚えるほど強く叩きつける雨粒に体温を奪われ、夏だというのに震えるほど寒かった。


 風間岳士はサドルから尻を浮かすと、感覚がなくなりつつある太腿に力を込めてペダルを踏み込んだ。一瞬、濡れたアスファルトにハンドルを取られそうになるが、歯を食いしばって耐える。


『もう限界だって。何時間走っていると思っているんだよ』

 海斗の声が聞こえてくる。しかし、岳士は無言でペダルをこぎ続けた。

 工場地帯の幹線道路は、まばらに設置された街灯に薄く照らされている。日が落ちて数時間は経つ。日の出前に実家を出てからずっと、岳士はほとんど休憩を取ることもなく、ロードレーサーを走らせ続けていた。

『無視するなよな。それとも、僕の声が聞こえなくなったのか? それなら、素晴らしいことなんだけどね』

「……聞こえてる」

 岳士は荒い息の隙間をぬって答える。

『ああ、聞こえていたのか。そりゃあ残念。まあ、とりあえず一回足を止めろって』

 海斗はおどけるような声で言う。しかし、岳士は足を緩めるどころか、右手の指先でシフトレバーを押し込んでギアを入れ替え、さらに加速した。

『……なにムキになっているんだよ。いくらお前でも、このままだとぶっ倒れるぞ』

 海斗の言う通りだった。ロードレーサーのフレームに取り付けてある水筒は、一時間以上前に空になっている。全身ずぶ濡れなのに、口腔内は砂漠のように乾いていた。全身の筋肉が軋み、悲鳴を上げている。

 耐えがたいほどの苦痛。しかし、解放感をおぼえていた。

 伏せていた顔を上げると、数十メートル先に巨大な橋が見えた。橋の下には幅の広い川が流れている。

『多摩川だな。あの橋を越えたら東京だ。まさか、本当に一日で着くとはね』

 海斗が呆れ声でつぶやく。

 東京、とうとう東京に着いた。表情がかすかに緩む。鉛のようになっている足が、わずかに軽くなった気がした。スピードを落とすことなく、ロードレーサーは橋に差し掛かる。

『もういいだろ。今日はここまでだ。橋を越えたところで自転車を止めろ』

「いや、まだだ……。もっと都心まで……」

 岳士は息も絶え絶えに答える。

『なに言っているんだ! 都心まであとどれだけあると思っているんだよ。下手すりゃ、命にかかわるぞ』

「うるさい、黙ってろ!」

 岳士は海斗を睨みながら、悪しざまに叫んだ。

『黙ってられるか! お前だけの問題じゃないんだ』

 岳士は大きく舌打ちをすると、海斗を無視してペダルを踏み込む。そのとき、唐突に海斗がブレーキを握り込んだ。

 急減速した車体はバランスを失い、細いタイヤが濡れたアスファルトを横滑りする。目を見開いた岳士は、ロードレーサーごと道路に叩きつけられる。右肩に強い衝撃が走った。

 痛みに耐えつつ必死に酸素をむさぼる。やがて呼吸が落ち着いてくると、岳士は大きく息を吸った。

「なんてことするんだ!」

『どうしても止まらないなら、無理やり止めるしかないだろ』

 海斗は悪びれることもなかった。

「ふざけるな。あんな速度で急ブレーキかけやがって! 大怪我したらどうするんだ!」

『大怪我? リングで思い切り殴り合っても大した怪我もしないお前が、自転車で転んだぐらいで? それより、あのまま走っていた方が、はるかに危険だったよ』

 海斗の正論に、岳士は唇を?む。

 いつもそうだ。口が達者な海斗と議論しても、いいように言いくるめられてしまうのだ。

 立ち上がった岳士は、ロードレーサーを引き起こす。サドルに跨ろうとしたとき、海斗がまたブレーキを握り込んでいることに気づき、唇が歪んだ。

「海斗……、お前、なんのつもりだよ」

『さっきから言っているだろ。これ以上走るのはもう無理だって』

「うるさい! 俺は東京に行くんだ!」

『橋の真ん中は過ぎた。ここはもう東京だよ。一日でここまで来たんだ。十分だろ。今日はもう休め』

「いやだね。今日中に都心に出るんだ。さっさとブレーキを放せ」

『……なんで、都心にこだわるんだよ?』

 岳士は口を真一文字に結んだまま、答えなかった。

『本当は都心に行くことが目的じゃないんだろ? 自分を痛めつけたいだけなんだろ。その間だけ、現実を忘れられるからさ』

 図星をつかれ、頬が引きつる。

「お前に何が分かるっていうんだ!」

『分かるさ。僕はお前なんだから』

「違う! お前は海斗だ。俺じゃない」

『ああ、たしかに僕は海斗だ。けれど同時に、お前でもある』

「うるさい! 黙れ!」岳士は腹の底から声を張り上げる。

『黙った方がいいのは、お前じゃないかな。ほら、歩道を見てみろよ』

 海斗に促され、岳士は脇の歩道に視線を向ける。ビニール傘を差したサラリーマンが、気味悪そうに視線を向けてきていた。岳士は慌てて目を伏せる。サラリーマンはちらちらとこちらを見つつ離れていった。

『ここで押し問答していたら、「一人で叫んでいる怪しい男がいる」って通報されるぞ。そうなったら困るだろ。せっかく逃げてきたのにさ』

「……なら、ブレーキを放せよ。そうすればでかい声を出さなくて済む」

『放さないよ。お前と違って、僕は治療を受けることに絶対反対っていうわけじゃないんだ。これ以上、無理をするぐらいなら、この場で補導されて家に連れ戻された方がいい』

 海斗の口調に強い決意を感じ、岳士はハンドルを握る右手に力を込めた。時折、歩道を通る人々が、土砂降りの雨の中で一人佇む岳士に、不審の目を向けてくる。

「……分かった。休むよ。……休めばいいんだろ」

 たっぷり三分は黙り込んだあと、岳士は力なくつぶやいた。海斗に、いまもブレーキを握り締めている自分の左手に向かって。


『エイリアンハンドシンドローム』

 岳士は数週間前、SF映画のタイトルのようなその疾患だと診断された。

 陰鬱な雰囲気を纏う中年主治医の説明によると、脳障害や精神疾患が引き金となり、片腕が自分の意思とは関係なく動いてしまう症状だということだった。その腕の行動は様々で、物を掴んだり、字を書いたり、時には自らの顔を殴りつけることまであるらしい。その姿が、まるで片腕が『何か』に寄生され、乗っ取られたかのように見えることより、『エイリアンハンドシンドローム』または『他人の手症候群』と呼ばれるという。

 それ自体極めて珍しい疾患らしいが、岳士の症状には一般的なエイリアンハンドシンドローム患者とは明らかに異なる点があった。勝手に動くようになった左手から声が聞こえだしたのだ。

 海斗の声が。

 はじめて左手が勝手に動き出し、海斗の声を聞いたとき、岳士は混乱することなくすぐに理解した。自らの左手に海斗の魂が宿ったのだと。

 海斗の声は他人には聞こえない。しかし、岳士にははっきりと、その声を耳で聞き取ることができていた。

「おそらく、エイリアンハンドシンドロームに解離性障害による幻聴が重なったものと思われます。極度のストレスが原因でしょう」

 そう告げた主治医を、岳士は内心、鼻で笑った。この医者はなにも分かっていない。自分の理解が及ばない出来事に、無理やり説明をつけているだけなのだと。

 橋の下で数週間前の記憶を反芻しながら、岳士は大粒の雨が落ちてくる漆黒の空を見上げる。

『手が止まっているぞ。何やっているんだよ』

 物思いに耽っていた岳士は、海斗に声をかけられ我に返る。

「あ、ああ、悪い」

 岳士はバイク用の革手袋に包まれている左手に視線を落とした。物を掴みやすいように手指の第二関節から先が露出しているこの薄いグローブは、数週間前から外出する際、常に左手に嵌めていた。

 岳士はロードレーサーの後部に取り付けたバッグから、一人用の簡易テントを取り出しはじめる。

 十数分前、海斗の説得を受け入れた岳士は、雨を凌ぐためにロードレーサーとともに橋の下に移動し、タオルで体を拭いて濡れている服を着替えた。バッグは防水性に優れていたため、中の荷物は濡れていなかった。

 スポーツドリンクとビスケットで栄養を補給したあと、ここに簡易テントを設置することにした。海斗は『安くてもいいから、どこかに泊まったらどうだ?』と提案してきたが、金はできるだけ節約したかった。これから、どれだけ必要になるか分からないのだから。

 岳士はプラスチック製のテントの骨組みを組み立てていく。以前から、よく一人でキャンプをしていたので、この程度のものなら数分で作ることができる。海斗が左手の主導権を渡してくれているので、スムーズに作業することができた。

 普段の状態では、左手首より先が『海斗の領域』だった。そこより末端は岳士には動かすことはできず、感覚もない。しかし、いまのように両手での作業が必要な際には、海斗が『権利』を放棄することにより、両手を自由に使うことができた。ロードレーサーを走らせているときも、ハンドル操作のために、海斗は左手の『権利』を放棄していた。

 しかし、『権利』を放棄していても、海斗は瞬時に左手を支配下に置くことができる。ついさっき、岳士の意思に反してブレーキをかけたときのように。さらに海斗はその気になれば、岳士の許可なく左腕全体の動きを支配することすらできた。

「よしっ」

 岳士がテントを組み上げると同時に、左手首から先の感覚が消え去る。

『それじゃあ、必要なものだけ中に入れて、さっさと体を休めなよ。体がボロボロなんだからな』

「言われなくても分かってる」

 しゃがんだ岳士が財布などの貴重品を入れているリュックに手を伸ばすと、背後で雑草を踏みしめる足音がした。

 振り返ると、十メートルほど離れた位置で、背中を丸く曲げた男がこちらを睨んでいた。脂の浮かぶ髪は肩まで伸びていて、顔は長いひげに覆われている。

「お前、誰なんだよ!」

 だみ声が響き渡る。

「誰って……」

 岳士が戸惑っていると、男は大股で近づいてきた。漂ってきたすえた臭いに、岳士は顔をしかめる。

「この橋の下は俺の家だ。勝手に入って来るんじゃねえ」

 男の額に青筋が浮かんだ。

『ここに住んでいるホームレスみたいだな。ほら、奥に段ボールで作った家がある』

 海斗がつぶやく。たしかによく見ると、三十メートルほど離れた雑草の奥に、段ボールハウスがあった。

「あんなに離れているんだから、べつにいいじゃないですか。そもそも、ここは別に誰のものでもないでしょ」

 岳士が正論を吐くと、ひげに覆われた男の顔が蠕動した。

「ふざけんな! 俺はここにずっと住んでるんだ。ここは俺の場所だ! 泊まりたいなら金を払え。さもなきゃ、ぶっ飛ばすぞ!」

 男は右手を振り上げて威嚇する。

 めんどくせえなあ。岳士が顔をしかめると、海斗の声が聞こえてきた。
『立ってファイティングポーズを取れ』

「おいおい、こんなおっさんに大げさだろ」

『いいからさっさと立ちなって。うまくやるから任せなよ』

「任せなって……」

 岳士が眉根を寄せると、男がさらに一歩近づいて来た。

「なにぶつぶつ言ってるんだよ! 無視すんじゃねえ!」

 怒声を放つと、男は突然唾を吐きかけてきた。放物線を描いた粘着質な液体が左手にかかる。それを見て、胸に怒りの炎が燃え上がった。

「てめえ!」

 岳士は勢いよく立ち上がると、男を睨みつける。身長百八十センチ、体重七十八キロの堂々たる体?を前にして、男は一歩後ずさる。その顔には動揺と恐怖がありありと浮かんでいた。

「な、なんだよ! やる気かよ!」

「やる気だよ!」

 岳士は左手の甲に付いた唾をズボンで拭きながら、男に向かって右手を伸ばした。

『ファイティングポーズだ!』

 男の汚れたシャツの襟元を掴む寸前、海斗が鋭く声を飛ばした。右手が止まる。

「拳を使う必要なんてないだろ」

『いいから僕に任せておけってば。いつもそれで上手くいっていただろ』

「……分かったよ」

 岳士はゆっくりと手を引くと、両足を肩幅程度に開きつつ半身になりながら、両手を顔の前まで上げる。数週間ぶりのファイティングポーズに、体温がわずかに高くなった気がした。

『肩甲骨までもらうよ』

 海斗の声に、岳士は男を見据えたまま小さく頷く。肘、二の腕、肩、じわじわと『海斗の領域』が広がっていく。やがて、左の肩甲骨から先の感覚が完全に消え去った。これが海斗が支配できる最大領域だった。左の二の腕までは、海斗は自分の意思で支配下に置くことができるが、そこから先は岳士が『権利』を譲ったときのみ自らを広げることができる。

「で、これからどうするんだ?」

 ファイティングポーズを取ったまま、岳士は訊ねる。

『まあ、黙って見ときなって』

 海斗は拳を作る。オーソドックススタイルで構えているため、左腕の方が男に近い。自分に向けられたバイク用グローブに包まれた左拳を見て、男の顔が恐怖でか、それとも怒りでか紅潮してきた。

「てめえ、いい加減に……」

 男が怒鳴りながら一歩踏み込んできた瞬間、左のジャブが空気を切り裂いた。鼻先にパンチを寸止めされた男は「ひっ」と声を上げた。

 一拍おいて、固く握られていた左拳が上を向き、ゆっくり開いていく。指の間から、掌の上に置かれた五百円硬貨が現れた。

 岳士は横目でリュックを見る。いつの間にか財布がはみ出ていた。気づかないうちに海斗が五百円硬貨を抜き出し、握り込んでいたんだろう。

 数秒間、不思議そうにまばたきをしたあと、男は歪んだ笑みを浮かべた。

「最初からこうすればいいんだよ」

 奪うように五百円硬貨を取ると、男は身を翻して自分の段ボールハウスへと戻っていった。肩甲骨から左手首までの感覚が戻ってくる。

『な、丸く収まっただろ』得意げに海斗が言った。

「金なんて払わなくても、あんな男、追い払えただろ」

『一発殴って追い払うっていうのか? ボクシングのインターハイで、ミドル級三位のお前が? 大怪我させて、傷害罪で捕まるぞ』

「殴るつもりなんてなかったよ。ただ、少し脅すだけでよかったって言っているんだ。別にここはあの男のものじゃないんだから、金なんて払わなくても……」

 岳士が唇を尖らせると、左手の指がひらひらと動いた。

『法的には違っても、あの男にとってこの橋の下は自分の家なんだよ。金を払わない限り、一度は引っ込んでも後でまた絡んでくるかもしれないし、下手をすれば警察を呼びかねない。五百円でトラブルを防げるなら、安いもんだろ』

 岳士は唇を固く結ぶ。昔からいつもそうだ。どんなときも海斗は冷静で、その判断は正しいのだ。

 そう分かっていたはずなのに、俺はあのとき……。

 臓腑を腐らせるような後悔に苛まれつつしゃがみこむと、岳士はテントの中に潜り込んだ。


 川の流れる音と暗闇が満ちる空間で、岳士はうっすらと見えるテントの天井を眺める。

 限界を超えて酷使した足が熱をもち、ずきずきと痛む。体の芯まで染み込んだ疲労で全身がだるい。しかし、神経が高ぶっているせいか眠りに落ちることができなかった。

 強引に眠ろうと目を閉じると、この数日間の出来事が走馬灯のように瞼の裏に蘇ってきた。岳士は小さく舌打ちをすると、再び瞼を上げた。

 本当ならスマートフォンでも見て気分転換がしたかった。しかし、スマートフォンは雨に濡れないよう、ロードレーサーに取り付けたバッグに入れたままだ。きっと、両親から何度も着信やメールが入っているだろう。それを確認するのが嫌だった。

『眠れないのか?』

 海斗の問いに、岳士は「……ああ」と答える。

『眠らないと体力が回復しないぞ。明日は都心まで行くんだろ』

「分かってるけど、眠れないんだよ。お前こそ眠らないのか」

『僕はお前の一部だからね。お前が眠ったとき、僕も眠るんだよ』

「……お前はお前だ。俺の一部なんかじゃない」

 岳士は蚊の鳴くような声でつぶやく。海斗はすぐには返事をしなかった。重い沈黙がテント内に降りる。

『……それで、東京で何をするつもりなんだい?』

 海斗が話題を逸らす。岳士は内心で安堵しながら、「何をって?」と質問を返した。

『まさか、なんの目的もなく東京に行くって言い出したのか? 都会に行けば何か変わるかもしれないとでも? いくらなんでもそれじゃあ、田舎者丸出しだろ』

「べつにそんなこと思っていない。けれど、……家にはいられないだろ。だから、とりあえず東京に向かったんだよ。人が多い方が……隠れやすい」

『なんで家にはいられないんだよ?』

 軽い口調で海斗が訊ねる。岳士は目を?いた。

「なに言っているんだ! あのままだと、強制的に精神病院に入院させられて、治療されたんだぞ!」

『仕方がないだろ。お前が主治医を殴ったんだから』

 岳士は言葉に詰まる。その隙を逃さず、海斗はたたみかけてきた。

『あれはさすがにやりすぎだ。たしかに厭味ったらしい男だし、挑発的な言動も多かったけど、手を出したら負けなんだよ。目の前で息子が医者を殴ったからこそ、父さんと母さんもショックを受けて、医療保護入院に同意したんだ。あれさえなければ、無理やり治療なんてされなかったはずさ』

 海斗の口調に責めるような響きはなかった。それが岳士には、逆につらかった。

「けれどあの医者は、お前は存在しないって……、俺の幻覚だって……」
 岳士は喉の奥から声を絞り出す。

『きっと、それが正しいんだよ。……僕はお前の脳が作り出した幻だ』

「違う! そんなはずない! お前は海斗だ!」

 岳士は勢いよく上半身を起こすと、左手を顔の前に持ってくる。海斗と見つめ合っている気がした。

『僕の魂がお前の左手に宿ったっていうのか? そんなオカルトじみた話、さすがに医者に信じろっていうのは無理があるだろ』

 海斗は小さく笑い声を漏らした。

「誰にも信じてもらえなくても構わない。俺には分かる。お前は海斗だ。その証拠に、お前は俺が知らないことも知っているだろ。俺の脳が作り出した幻なら、そんなことできないはずだ」

『そうとも限らないんじゃないか? 人間の脳っていうのは、めちゃくちゃ大量の情報を蓄えることができるけれど、普段はその一部しか引き出せないらしいよ。僕はお前と違う部分の脳を使って思考して、脳の奥に眠っている情報にアクセスできているだけかもしれない。お前にはアクセスできない情報にね』

「……けれど、お前には昔の記憶もあるんだろ。俺が知らないはずの海斗の記憶も」

『ああ、たしかにね。ただ、もしかしたらそれは、「海斗」っていう人格を作り出すために、お前の記憶をベースにして創り出した偽の記憶なのかも』

「小難しいことはどうでもいいんだよ! お前は海斗だ! 俺とお前がそれを知っていれば、それでいいんだ!」

『……ああ、そうだね』

 海斗は少し困ったような、それでいてどこか嬉しそうな口調で答えた。岳士は再び横になる。

「あの医者にお前を消させたりはしない。絶対に……」

 つぶやきが、テント内の暗闇に溶けていく。岳士の脳裏に、昨日の記憶が蘇ってきた。

 両親とともに定期の外来診察に行くと、主治医は足を組みながら言った。

「まだお兄さんの幻覚は消えていないんだね。それならもう入院しなさい。投薬でその幻覚を消してあげるから」

 海斗は幻覚なんかじゃない、間違いなく俺の左手にいる。岳士が怒りを押し殺しながらそう主張すると、主治医は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「まだそんな馬鹿なことを言っているのかい? 大丈夫、薬でしっかり治せば、間違いだったって気づくよ。お兄さんはもういないんだってね。君を悩ませているその偽者のお兄さんを、さっさと消し去ろう」

 その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ赤になった。我に返った時には、固めた拳を目の前の男の?にめり込ませていた。椅子ごと主治医が倒れ、両親が大声を上げた。

 その後、診察室になだれ込んできた屈強な男性看護師たちに取り押さえられた岳士は、診察室から連れ出され、彼らに監視されながら別室で待機することになった。三十分ほど経過し、部屋に充満する重苦しい空気に耐えきれなくなりはじめた頃、こわばった表情の両親が部屋にやって来て、暗い声で告げた。

 明日からお前を入院させて、治療を受けさせることにしたと。

 当然、岳士は拒否したが、それなら自傷や他害の恐れのある患者を保護者と精神科医の同意のもとに強制的に入院させる、医療保護入院という形をとると言われた。

「自分で大人しく入院するか、強制的に病院に閉じ込められるか、お前次第だ」

 父親が低い声で告げ、母親が視線を逸らしているのを見て、岳士は理解した。

 自分には味方はいないのだと。海斗を除いて。

 一度家に帰り、入院に必要な準備を整えたあと、今日の午後に入院する予定だった。だからこそ、岳士は日が昇らないうちに自宅の二階にある自室の窓から抜け出し、東京に向けロードレーサーを一心不乱に走らせたのだ。

 自らを取り巻く現実から逃げるために。

『まあ、僕が幻覚なのかどうかは置いといて、僕が消えた方がお前のためにはなるんじゃないかな』

 海斗がおどけた口調で沈黙を破る。岳士は右拳を握りしめた。

「なに馬鹿なこと言っているんだ!」

『だって冷静に考えてみろよ。いまお前が「普通じゃない」とされているのは、僕に左手を乗っ取られて、さらに僕の声が聞こえるからだ。僕さえ消えれば、お前は元通り、普通の高校生に戻れるだろ』

「お前は……、それでいいのか? 怖くないのか、……消えることが?」
 岳士は食いしばった歯の隙間から声を絞り出す。

『……怖くないって言ったら?になるな。自分の存在が消えるっていうのは、やっぱり恐怖だよ』

「なら……」

 岳士が口を開きかけると、左の掌が目の前にかざされて言葉を遮った。

『でも、僕は消えるべきなんだと思う。いまの状態は明らかに異常だ。なぁに、ただあるべき形に戻るだけさ。僕がお前の脳の一部が生み出した幻覚なら、お前の一部に戻るだけだし、もし本当に僕の魂がここにあるとしたら、魂が本来向かうべき場所に行くだけのことだ。だから、あの医者の言う通り、薬を飲んで僕が消えるなら、それが一番いい方法なのかも……』

「ダメだ!」

 岳士の声がテントの中にこだました。

『なんだよ、急に大声出して。驚いただろ』

「お前を消させたりしない。あの医者にも、他の誰にもな。お前はずっと俺の左手にいるんだ。俺たちが死ぬまでな」

 岳士は左の掌を凝視しながらまくし立てると、荒い息をついた。数秒の沈黙ののち、海斗がふっと笑ったような気配があった。

『分かったよ。それじゃあ悪いけど、当分はお前の左手に居候させてもらうよ』

「ああ、好きなだけいろよ」

 岳士は唇の端を上げると、瞼を落とした。いつの間にか、眠気に襲われていた。

『まあ、もし僕のことが邪魔になったときは、さっさと切り捨てるんだぞ』

 海斗の声が遠くから聞こえてくる。

「あの医者の薬を飲めってか? 嫌だね、あいつは信用できない」

『薬じゃあ、本当に僕が消えるか分からないだろ。もっと確実な方法がある』

「確実な方法?」

 朦朧としつつ、岳士は聞き返す。

『ああ、いざとなったら左手を切り落とせばいいんだ。そうすれば、間違いなく僕は消えるさ』

 海斗はからかうような口調で言う。

「物騒なこと言うなよ、馬鹿……」

 岳士の意識はゆっくりと闇の中に溶けていった。



 熱い……。岳士は立ち尽くす。いつの間にか燃え盛る炎に囲まれていた。

 ふと左手に何かが触れる。見ると、誰かと手を固く握り合っていた。岳士はゆっくりと視線を上げていく。

 目の前の人物と目が合った瞬間、口から小さな悲鳴が漏れた。そこには、自分と同じ顔をした男が炎を背に立っていた。

「海斗……か?」

 岳士は震える声でつぶやく。しかし、返事はなかった。代わりに、男は岳士の手を強く握ったまま、後ずさりをはじめる。体が引っ張られる。

「やめろ! 何するつもりだ!」

 岳士は叫びながら重心を落とす。しかし、男の力は強く、体がじりじりと引かれていった。やがて、男の背中が炎の壁に触れる。シャツに火が移るが男は気にすることなく後退していく。

「やめろ! やめてくれ!」

 岳士は男を火の海から引きずり出そうと、腕に力を込める。しかし、逆に体は引かれていった。

 男はもはや完全に炎の中に入り込んでいる。やがて、男に引かれている左手が炎の壁と接触した。皮膚が焼け、肉が炙られる激痛に岳士は絶叫を上げる。そのとき、炎の中の男と視線が合った。鏡を見ているような感覚。

 唐突に、男は掴んでいた左手を離した。岳士は反射的に手をひっこめる。蛋白質が焼けた不快な匂いが鼻腔に侵入してきた。

 岳士は焼けただれた手をかばいながら顔を上げる。男の顔にどこか哀し気な笑みが浮かんだ。次の瞬間、その姿が炎の中に溶け去った。

 その場に崩れ落ちた岳士は、天を仰ぐと、獣の咆哮のような叫び声を上げる。焼けた左手の感覚は、いつの間にか消え去っていた。

『岳士……、岳士……』

 遠くから名を呼ぶ声が、かすかに聞こえてくる。

「うわああああーっ」

 叫び声とともに岳士は跳ね起きると、荒い息をつきながら周囲を見回した。しかし、何も見えなかった。

 どこだ。ここはどこなんだ。岳士はせわしなく右腕を動かして、闇の中を探る。

『落ち着けって。テントの中だ。家出したのを忘れたのかい』

 海斗の声が聞こえてきた。岳士は右腕の動きを止める。同時に、状況がゆっくりと飲み込めてくる。

「ああ、……橋の下でテントを張ったんだっけ」

 岳士はつぶやくと、大きく息を吐いた。

『思い出してくれて嬉しいよ。また変な夢でも見たのか?』

 海斗の問いに、岳士は小さく頷いた。

『お前さ、悪夢にうなされて起きることがやけに多いよね。前々から聞きたかったんだけど、どんな夢を見てるんだよ』

 岳士は一瞬迷ったあと、「ゾンビに追いかけられる夢だよ」とお茶を濁した。

『そりゃあ、夢見も悪くなるね。ホラー映画の見すぎなんじゃないか』

 海斗は呆れ声でつぶやく。疑われていないことに安堵しつつ、岳士は手探りで枕元に置いた腕時計を見つけた。愛用のG―SHOCKの側面にあるボタンを押すと、バックライトが光り、文字盤が浮かび上がる。針は午前四時過ぎをさしていた。眠ったのが午前二時頃だったはずだから、二時間ほどしか経っていない。どうりで頭が重いはずだ。全身の細胞に染みわたっている疲労感も、改善するどころか悪化している気さえする。

「こんなすぐ目が覚めるなんて、やっぱり神経がたかぶっているんだな」

 岳士が独り言を漏らすと、海斗が『ああ、違う違う』と言う。

『僕が起こしたんだよ。何度も声をかけてね』

「海斗が……」

 目を覚ます寸前、夢の中で名前を呼ばれていたことを思い出す。あれは、海斗の声だったのか。

「なんで起こしたんだよ。しっかり寝て、体を休めろって言ったのはお前だろ。そもそも俺が寝ている間、お前に意識ってあるのか?」

『お前が寝ているときは、基本的には僕も寝ているんだけど、大きな音とかすると、僕だけ目が覚めることもあるんだよ。僕は繊細だから』

「がさつで悪かったな」

『拗ねるなって。で、さっき外から怒鳴り声が聞こえてきたんだ。だから念のため、起こしておいた方がいいかなって』

「怒鳴り声?」岳士は首を捻る。

『うん、川の音がうるさくてはっきりは聞こえなかったけど、男の声だった。誰かと言い争っているような』

「それって、いつの話だよ。あのホームレスがまた、因縁をつけに来たんじゃないか?」

『五分ぐらい前かな。たしかにホームレスの可能性もあるね。もっと金を寄越せって乗り込んでくるなら、その前にお前を起こしておいた方がいいだろ』

 たしかにそうだ。岳士は目をこすると、寝袋の脇に脱いで置いておいたジーンズを手探りで見つけ、横になったまま穿く。重い頭を振りながら四つん這いになった岳士は、テントの出入り口を小さく開け、外の様子を窺った。

 岳士は目を凝らして、濃い闇が漂う周囲を見回す。橋の上の街灯から注がれる薄い光で、何とか視野を保つことができていた。

 一見したところ、数時間前に絡んできたホームレスの姿はなかった。

「おい、誰もいないぞ。寝ぼけたんじゃ……」

 言葉が途切れる。二十メートルほど先、背の高い雑草の中に何かが倒れているのを見つけて。

「あれは……」

 テントから這い出し、スニーカーを履く。寝る前はあんなものはなかったはずだ。膝丈まで伸びている雑草を踏みしめて進むたび、脳内でアラーム音が鳴り響く。

 近づくな、近づくんじゃない。そう思うのだが、足が勝手に進んでしまう。

『おい、岳士……』

 海斗の震え声を聞きながら、岳士はその物体から、三メートルほどの距離まで近づいたところで足を止めた。左側、十数メートル離れたところに、段ボールハウスがある。横目で視線を送るが、どこかにでかけているのかホームレスの姿はなかった。

 岳士は視線を正面に戻す。雑草の中の物体がうっすらと網膜に映し出される。それは人間だった。スーツ姿の中年男が、横寝をするような体勢で倒れている。

「あの……、大丈夫ですか?」

 岳士はおずおずと声をかける。しかし、男は微動だにしなかった。
 酔っ払いだろうか? 岳士はからからに乾燥した口腔内を舐めると、さらに足を踏み出した。

『ちょっと待てって』

 海斗の警告を無視して、岳士はしゃがんで右手を伸ばす。

「大丈夫ですか?」

 男の肩に触れた瞬間、ぬるりとした生暖かい感触が掌に走った。岳士は反射的に手を引っ込める。男の体が仰向けになった。

 掌を見下ろすと、そこには粘着質の液体がこびりついていた。

 岳士は顔を上げて男に視線を向ける。心臓が胸骨を裏側から強く叩いた。

 白いシャツの胸元に大きな染みが広がり、その中心に何かが突き刺さっていた。

 思考が真っ白に塗りつぶされる。岳士は自分が何をしているか分からないまま、オブジェのように胸に突き立てられているものに右手を伸ばす。

『馬鹿! やめろ!』

 海斗が怒鳴るが、手の動きは止まらなかった。棒状の物体を掴んで引き抜いた岳士は、それを顔の前に持ってくる。金属に反射した街灯の薄い光が、目の前で妖しく煌めいた。

「……う? うあ、うあああっ!」

 一瞬の硬直の後、岳士は手に持っていたものを放り捨てる。男の体のそばに落下した物体、それはナイフだった。刃渡り十五センチはある無骨なナイフ。おそらくは狩猟用のものだろう。

 視線をナイフから横たわっている男に移動させる。暗順応してきた目は、さっきよりもはっきりと男の姿を網膜に映し出した。

 細身で小柄な男だった。おそらく年齢は四十前後というところだろう。ネクタイはしておらず、着ているスーツにはしわが寄っている。

 睨みつけるように虚空を見つめる双眸には意思の光が灯っておらず、眼窩にガラス玉が嵌まっているかのようだった。

 宙空に放り出されたような感覚に襲われる。気づくと、岳士はその場に崩れ落ちていた。

「わ、うわ、ああ……」

 声にならない声を上げながら後ずさり、掌に付いた血液をジーンズにこすりつける。

『落ち着け! 落ち着くんだ!』海斗の声が響き渡る。

「だって、死んで……。誰かに殺されて……」

 顎が震えて言葉にならなかった。

『分かってる。だからこそ落ち着くんだ。まずはこの男を殺した犯人が周りにいないか確認しろ』

 殺人犯が近くにいるかもしれない。初めてその可能性に気づいた岳士は、慌てて周囲に視線を送る。幸い、見える範囲に人影はなかった。

『とりあえず、すぐに犯人に襲われることはなさそうだな』

 海斗の言葉に、岳士は息を吐くと、おずおずと口を開く。

「これから……、これからどうすればいいんだよ?」

『いまそれを考えているんだ。ちょっと待ってくれ』

「けれど、人が殺されているんだぞ。警察を呼ばないと……」

『馬鹿! 状況を考えろ! 警察に通報したらどうなると思っているんだよ!』

 海斗の剣幕に、岳士は全身をこわばらせる。

「どうなるって……」

 岳士が首をすくめると、海斗はわざとらしく『はぁ』とため息のような声を出した。

『自分の体を見てみなよ』

 岳士は「体?」と視線を落とす。掌とジーンズにべっとりと血が付いていた。頬が引きつる。

『気づいたかい。いま警察が来たら、お前は間違いなく第一容疑者だ』

「な、なんで俺が……。俺が殺すわけ……」

『僕が止めたのに、お前はあの男の体に触れたうえ、突き刺さっていたナイフを抜いたんだぞ。あのナイフには、お前の指紋がついている。さらに手と服は、被害者の血液まみれだ。疑われて当然だよ』

「正直に説明すれば分かってくれるはずだろ! 俺にはその人を殺す理由なんてないんだから!」

 岳士は声を嗄らして叫ぶ。

『お前さ、なんでここにいるのか忘れたのか』

 あきれを含んだ海斗のセリフに、岳士は「え?」と間の抜けた声をこぼす。

『左手に魂が宿ったって言って医者を殴り、強制的に精神病院に入院させられるはずだったのに、逃げ出した。客観的に見れば、お前は完全に危険人物なんだ』

「そ、そんな……」

『賭けてもいい。お前がやっていないって主張しても、警察は聞く耳を持たない。精神を病んだ患者が混乱して、男を刺し殺したと決めつける』

「じゃ、じゃあ、どうすればいいんだよ?」

『それをいま考えているんだ。少し黙っていてくれないかな』

 岳士は口を固く結ぶ。心臓の鼓動が痛いほどに加速していた。
 数十秒の沈黙のあと、海斗の声が聞こえてくる。

『……逃げるぞ』

「逃げるって、このままにしておくのか?」声が裏返った。

『このままじゃない。ナイフに付いている指紋を消すんだ。そのあと、テントをしまって、お前がここにいた痕跡を可能な限り消してから逃げるんだ。幸いこの辺りには監視カメラはなさそうだ。死体が発見される前に十分な距離を取れれば、警察にお前の存在を気づかれずに済むかもしれない』

「本当にそれで上手くいくのか?」

『少なくとも、死体のそばにいるところを警察に見つかるよりは、殺人犯の濡れ衣を着せられる可能性は低い。お前がうまく姿を消せば、警察はそこで死んでいる男の関係者を洗ったり、凶器のナイフから犯人を捜そうとするはずだ。それなら、お前が疑われるリスクはない。日本の警察は優秀だ。お前がここにいたことに気づかれるまえに、きっと真犯人を見つけてくれるさ』

 本当にそんなに上手くいくのだろうか? 疑問をおぼえつつも、岳士は頷いた。

『分かったら、いつまでも腰抜かしてないで、さっさと動きなよ。まずはナイフに付いている指紋を消すんだ』

 海斗に促された岳士は、ナイフに這うように近づいていくと、男の体越しに手を伸ばした。虚空を睨んでいる男と目が合い、全身の汗腺から冷たい汗が噴き出した。

 指先がナイフの柄に触れる。そのとき、遠くから甲高い悲鳴が聞こえた。反射的に手を引き、悲鳴が聞こえてきた方向に視線を向ける。堤防の土手の上に両手にゴミ袋を持った男が立っていた。数時間前に絡んできたホームレスの男。男の手からゴミ袋が落ち、袋一杯に入っていた空き缶が音を立てる。

「違うんだ!」

 岳士は思わず手を伸ばす。血塗れの右手を。男は恐怖に表情を引きつらせると、身を翻して走り出した。

「あっ、待て!」

 岳士は男を追おうとする。その瞬間、目の前に掌が現れた。

「なにするんだ?」

 視界を遮った左手、海斗に向かって岳士は怒鳴る。

『お前こそなにするつもりなんだ?』

「あの男を追うに決まっているだろ!」

『手と服に血がべったり付いている男が、朝っぱらからホームレスを追いかけてみろ。間違いなく通報されるぞ。そもそも、あの男を捕まえてどうするつもりだ。自分が犯人じゃないって説得するのか? それで信じてくれるとでも?』

「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」

『逃げるんだ。いますぐに! まずはこれからだ』

 左腕全体の動きを支配した海斗は、遺体の傍らに落ちているナイフを無造作に掴むと、それをごうごうと流れる多摩川に向かって思いっきり投げた。ナイフが放物線を描き、濁流に飲み込まれていくのを、岳士は呆然と眺める。

「なにしているんだ? まだ指紋も拭いていないんだぞ!」

『そんな暇ない。あのホームレスが通報したら、すぐに警官が駆けつけるぞ。大丈夫だ。あの流れならきっと見つからないよ。それより……』

 海斗は人差し指を立てると、離れた位置にあるテントを指さす。

『さっさと片付けて逃げるぞ』

 本当にそれでいいのだろうか? 岳士は数瞬躊躇したあと、テントに向かって走る。迷ったときは海斗の判断に従う。幼いころからの条件反射が体を動かしていた。

 テントからリュックとともに寝袋を引きずりだした岳士は、せわしなく畳んでいく。しかし、海斗が左手の支配権も渡してくれているにもかかわらず、手が震えてなかなか進まなかった。

『川に捨てろ!』海斗が叫ぶ。

「捨てろって、寝袋をか? 高かったんだぞ」

『このままだと、殺人犯にされるんだぞ。寝袋もテントも捨てて、さっさとここから離れるんだ!』

「あ、ああ……、悪い」

 岳士は慌ててテントの骨組みを外していく。死体を見つけたショックで薄れていた現実感がじわじわと戻りはじめていた。それに伴い、いかに危機的な状況に陥っているのかが身に染みてくる。

 骨組みを外したテントと寝袋を引きずって川岸にたどり着いた岳士は、思い切り放る。それらは一瞬で流れにのみ込まれていった。

『よし、行くぞ!』

 海斗に促された岳士はテントがあった場所に戻ると、貴重品を入れたリュックを背負い、ロードレーサーの車輪に取り付けていた盗難防止用のチェーンを外そうとする。しかし、やはり手が震えて回転式の数字錠をうまく合わせられない。そのとき、不吉な音がかすかに鼓膜を揺らした。パトカーのサイレン音。岳士は顔を上げる。

『僕がやる』

 左手が勝手に動き、数字錠を回してチェーンを外した。ロードレーサーを押して堤防を駆け上がった岳士は、車道に出るとサドルに跨った。昨日の無理で、太腿の筋肉は岩のように硬くなり、両膝も熱をもっている。しかし、そんなことを気にしていられなかった。サドルから尻を浮かすと、痛みに耐えながらペダルを踏み込む。車がほとんど走っていない早朝の国道を、ロードレーサーは進みはじめる。

 右手の人差し指でシフトレバーを押し込むたび、ギアが上がって車体が加速し、ペダルは重くなっていった。車体が風を引き裂いていく。

 岳士はさらにギアを上げようとする。右手の人差し指に強い抵抗をおぼえ、ガチリという音が響いた。いつの間にか、普段はほとんど使用しない最速のギアにしていたらしい。サドルから尻を浮かしたうえ、車体を左右に振らなければ踏み込めないほどペダルは重くなり、心臓の鼓動は痛みを覚えるほどに加速していた。両足が焼け付くように痛い。いくら呼吸をしても酸素が足りない。

『岳士、速すぎだ。ギアを落とせ。体がもたない』

 海斗の忠告を岳士は黙殺する。いまも遠くから聞こえてくるサイレン音が精神を炙っていた。歯を食いしばると、ドロップ型のハンドルの下部を握り、体を思い切り前傾させた。空気抵抗が小さくなり、さらにスピードが上がる。ゴール前の競輪選手のように、車体を大きく左右に振りながら、岳士は進んでいく。

『馬鹿! 顔を上げろ』

 海斗の怒号が響く。反射的に顔を上げた岳士は大きく目を見開いた。五メートルほど前方に、信号待ちのトラックが停車していた。

 大きくハンドルを切る。前輪が脇の歩道の縁石に勢いよく乗り上げた。車体が跳ね、体が浮き上がる。ぱんっという小気味いい音が辺りに響いた。

 歩道に着地したロードレーサーは、後輪を大きく滑らしながら停止する。岳士は慌てて愛車から降りると、右手の親指と人差し指で前輪をつまんだ。側面に大きな切れ込みが刻まれたタイヤは、力なく萎んでいた。

 ロードレーサーの細く、限界まで空気圧を高めたタイヤは、わずかな衝撃でも簡単にパンクする。猛スピードで縁石に乗り上げれば、こうなるのも当然だった。

 岳士は車体にくくりつけているバッグの中から、パンク修理キットを取り出そうとする。

『無駄だよ。中のチューブまで完全に裂けてる。タイヤを交換しないと走れない』

 淡々とつぶやく海斗を、岳士は睨みつける。

「そんなの分かってる! けど、やるしかないだろ。ロードレーサーなしじゃ移動できない!」

『修理できたとしても、時間がかかりすぎる。その間に、警察は検問を敷いてこの周囲を囲い込んだうえ、怪しい奴がいないか調べまわるぞ。そうなったら服と手に血がついてるお前は、すぐに逮捕だ』

「じゃあ、どうしろっていうんだよ!」岳士は髪を?き乱す。

『ロードレーサーを置いていくんだ』

「走って逃げろっていうのか? すぐに追いつかれるに決まっているだろ」

『乗り物ならあるよ。後ろにね』

 海斗がそう言った瞬間、背後から甲高い音が響いた。振り返ると、巨大なトラックが赤信号で停車していた。荷物を取りに行く途中なのか、荷台には何も積まれていない。

「あれに乗れっていうのか?」

『そうだ。すぐに荷台に乗り込むんだ』

「ロードレーサーはどうするんだよ。ハンドルに血がついているんだぞ。ここに置いていたら、防犯登録で俺のだってすぐに分かる。警察は俺が殺人犯だって思うはずだ」

『ここにいたら、殺人容疑で逮捕される。それよりはましだろ。早くしろ、信号が青になるぞ』

 早口でまくしたてられた岳士は、ロードレーサーとトラックの間で視線を往復させる。

『これしかないんだ! 時間がない、急げ!』

 海斗が急かす。岳士は唇を噛んで車道に飛び出すと、ドライバーに見つからないようにトラックの背後に回り込んでいく。そのとき、信号が青に変わった。エンジンが唸りをあげ、黒い排気ガスがマフラーから噴き出す。

『荷台に飛び乗れ!』海斗が叫ぶ。

 走り出したトラックの荷台に、岳士は右手を伸ばして飛びついた。一瞬、指先が荷台の端に引っかかるが、体重を支えることはできず外れてしまう。

 アスファルトに叩きつけられる。覚悟して目を閉じた瞬間、左肩に衝撃が走った。体が浮きあがるような感覚。岳士は目を見張る。左手が、海斗がしっかりと荷台を掴んでいた。体が左手一本で走っているトラックの荷台にぶら下がっている。

『ぼけっとしていないで早く右手も使ってくれよ。片腕じゃあきつい』

 切羽詰まった海斗の声に、岳士は慌てて右手で荷台を掴む。それとともに、いつの間にか消えていた左腕の感覚が戻ってくる。岳士は両手を使って荷台に這いあがった。

 倒れこんだ岳士は、鉄製の床の冷たさを頬に感じながら、荒い息をつく。トラックは減速することなく走っていく。ドライバーに気づかれてはいないようだ。

 やがて息が整うと、岳士は空の荷台で大の字になる。

 夜明けの空に、橙に照らされた雲が浮いていた。

「なあ……、海斗」

『なんだい?』

「これで俺たち、殺人犯として警察に追われることになったんだよな?」

『……ああ、そうだね』

 海斗の声が、朝の張り詰めた空気の中に溶けていった。


                   (本編に続く……)

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