1Q84を読んで

独身の頃は寝床で本を読み、いよいよもうダメだとなった時に灯りを消し眠りにつく、という生活が長く続いていた。
結婚してからは寝床で灯りをつけられなくなったが、それとほぼ同じくしてスマホが現れ、寝床ではそれを眺めるようになった。それ以来、紙の本を読むのは飛行機の中くらい。
昨年末にフランスに行く仕事があったので、久しぶりに紙の上の活字を読んでみようと、村上春樹のベストセラー小説1Q84を持って行った。 

村上春樹さんは公私ともにほとんど姿を現さず、徹底した秘密主義を貫いていることで有名だが、一度だけ仕事でご一緒したことがある。
僕自身は特に熱心な読者というわけではないが、「海辺のカフカ」あたりまではいくつか読んだ。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」といった、突き放したような文体というか語り口に独特のクセがあり、おそらくそのへんが好き嫌いの別れるところだろう。

初期の短編「蛍」は主人公が早稲田大学入学で上京、目白の和敬塾に入るという設定で物語は進み、やがてそれは大ヒット作「ノルウェーの森」の原型となる。いわゆる私小説的な純文学。 
一方、「この工場では象を作っていて…」というようなわかりやすいファンタジーも多い。パラレルワールドや羊男。 

しかし村上春樹さんの作品の特色といえば、私小説的に語られるストーリーが、いつのまにか異次元へすり替わっているという、純文学とファンタジーの境目を行きつ戻りつするものだろう。
とはいえ、現実世界の住人である我々にとっては、そのファンタジーを受け入れるための前提や約束事を明らかにしておいてもらいたいと思うもの。特に彼の小説には誰でもそれとわかるモデルのほかに、実在する車やら服装、そしてとりわけ音楽がかなりマニアックな描写をともなって出てくる。そしてそれらは読者が物語に入り込むための舞台装置や時代性として機能する。

この物語は異次元の世界の目印として2つの月という分かりやすい設定がされているが、一方現実世界の場面で出てくる小道具や設定には多くの疑問が湧いてくる。例えば家庭用妊娠検査薬やペットボトル入りの緑茶は1984年当時には無かった。ワードプロセッサーはあったが、編集者がポケットマネーで買い与えることができるものではなかったはずだ。小学校の副校長という制度は割と最近のことだし、そもそもNHKの集金人に制服など存在しない。
もちろん一つ一つは些細な揚げ足取りに過ぎないが、こういうものが少しずつ読者に不信感を与え、物語の世界に入っていくのを妨げていると感じてしまう。これを「ファンタジーなんだから」と言ってしまえばそれで終わりなのだけれど。

これらを出版社である新潮社の編集者はどう見ていたのだろうか。
新潮社の校閲といえばテレビドラマの原作モデルにもなったほど。「何月何日は新月なので『月明かりに照らされて』というのはおかしい」など、その圧倒的な考証力で知られており、これらを見逃すはずはない。
あるいは、「入江で嵐を避ける船のように、そこで身をひそめて〜」という台詞を物語の語り手ならまだしも、登場人物の会話として喋らせる。
そんなこと言う奴がいるのかよ?という指摘はなかったのだろうか。

文庫版の巻末には「本作品には、1984年当時にはなかった語句も使われています」と書かれている。
想像するに、新潮社の校閲部はかなり村上春樹さんとやり合って、その上で村上さんは折れなかったんじゃないだろうか。 そしてこれは編集部のささやかな抵抗だったのでは。あるいは大ベストセラー作家である彼は、完全にアンタッチャブルな存在なのだろうか。
物語の主人公は作家の卵であり、編集者はかつて村上春樹さんとトラブルになった人物を思わせる。また書評や文学賞といった小説家を取り巻くストーリーの中で、作者の苦言めいた主張を代弁させているようなところもある。 

物語は多方面から並行して進み、それぞれの登場人物は皆、有能で頭の良い人ばかり。彼らはこの奇妙な世界について随分理屈っぽい推理を重ねるが、それらはどこにも行き着かないまま放置され、忘れ去られていく。

結局、僕はある時点からこの小説を楽しむことが出来なくなってしまった。 

主人公の父親は息子にこう語る
「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」 

まぁ、そういうことなのだろう。
分かる人には分かる。このスノッブな思わせぶりとでも言うべきものは、村上春樹さんの小説の多くに共通するものだけれど、この作品は特にその傾向が強いように感じる。そしてそれが6巻も続くのだ。
もちろんこれは300万部を超える大ベストセラーで、海外での評価も高いという。売れているもの、流行っているものにケチを付けるのはあまり行儀のいいものではないことは分かっているが、この本を読んでモヤモヤするのは果たして自分だけなんだろうかと、ちょっと心配になってくる。 

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