なぜ有名な小説には性的描写がおおいのか?

もう何年かまえに書いた文章なんだけど、なんとなくいま公開してみる。

****************
 最近買った本で、朝井リョウさんがTwitterで紹介していた窪美澄さんの「雨のなまえ」読んだ。

『窪美澄さんの「雨のなまえ」読んだあと、ほぼ無意識のうちに買っていたたい焼きを慌てて2つ食べました。たい焼きが出てくるほっこりした話、ということではなく、甘いものをすぐに摂取しないと、脳の感じがちょっと気持ち悪かったからです。読みながら、いろんなものをとても消費していたのです。』

って、朝井さんが紹介してた。文章で人になにか消費させるってすごい

そう感じてから、あまりの読みたさにどの本屋に行っても目に入ってしまうので買ってしまった

ちなみに店頭で見たら帯は、

「妻の妊娠中、逃げるように浮気をする男。パート先のアルバイト学生に焦がれる中年の主婦。不釣り合いな美しい女と結婚したサラリーマン。おさななじみの少女の死を引きずり続ける中学教師。まだ小さな息子とふたりで生きることを決めた女。」

で、読んでみて、今回の「雨のなまえ」もしょっぱなからそうだけど、なんで有名な小説においてなんで恋愛、というか性的描写がおおいんだろう?という疑問がむくむくしてきて。

高校のときのわたしのすごく大好きな世界史の先生は、

「そういう描写がおおいのはなあ、みんなそういうの大好きだから、読んでもらうためにそういうシーンいれてるんだぞ」って言ってたから、いままでそれを愚直に信じてきたんだけど(いまとなってはそう信じてたのもすごいけど)(ちなみにその先生いわく、海底2万マイルはそういう描写がないのに、最後まで読み切れる珍しい本らしい)

けども、今回の「雨のなまえ」もそうだけど、最近読んだ直木賞受賞の「ホテルローヤル」も前に読んだ芥川賞受賞の「蛇にピアス」もずーっと前によんだ文藝賞受賞の「なんとなくクリスタル」も全部、「単にみんな好きだから」そういう描写、または本の題材にしているっていうそんな説明で有名な賞に入るわけもなく、なにかもっと説明すべきなにかがあるんじゃないかっていうのがすごく気になってずっと考えてたんだけど、一定の結論がでたから吐き出すことにした

ひとつめ、

性は人間が逃れたいときに逃げ込むところで、人間の弱さが見えるところだから


「雨のなまえ」の帯はこんな感じだったんだけど、


「満たされない思い。逃げ出したくなるような現実。殺伐とした日常を生きるすべての人に―。―いつの間にか皆、慣れてしまったのだ。」


ほんとに悲しいのってある一瞬の悲劇的な出来事が起こることじゃなくて、毎日毎日が満たされないし、鬱屈としてるし、だからといってそれが未来で解決するという展望も開けないし、でもそういう鬱々とした気持ちを大っぴらにもできないし、誰も気づいてくれないし


そういう毎日で、そういう毎日を生きるときにみんなが逃げ込むとこが「性」なんだと思う。


そこに逃げてつかの間の快楽で忘れてちょっとずつかさぶたしてく感じ。だからなおさら、「慣れてしまったのだ」っていう帯の表現のリアリティがあると思った。


本当に率直にいうと、性的虐待とか性犯罪とかその他もろもろの社会における事柄が、大人がここに逃げ込んでしまった先にあるんじゃないかって考え始めたのが、この本に惹かれたいちばんの理由なんだと思うんだ。


みんな逃げたくなるとここに逃げるから、人間の弱さといか暗さというか本質が見える。だから、描写されるんじゃないだろうか。(でも、逃げるっていうより生きるために「性」を選ぶ人もいるんだから逃げるっていう表現はそういう人たちに失礼かもしれない)



ふたつめ。

属性とか外面とっぱらって現れる、人間関係の本質が見えるところだから

これを一番感じたのは、金城一樹「GO」を読んだ時だったんだけど、もう、主人公の杉原、超かっこいいんだよね。

最後の場面で、在日韓国人の主人公杉原がヒロインの桜井に叫ぶ場面ね、

「別にいいよ、おまえらが俺のことを《在日》って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ?何かに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ?でも、俺は認めねえぞ。俺はな、《ライオン》みたいなもんだんだよ。《ライオン》は自分のことを《ライオン》だなんて思ってねえんだ。おまえらが勝手に名前をつけて、《ライオン》のことを知った気になってるだけなんだ。それで調子にのって、名前を呼びながら近づいてきてみろよ、おまえらの頸動脈に飛びついて、噛み殺してやるからな。

言っとくけどな、俺は《在日》でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭い所に押し込めるのはやめてくれ、俺は俺なんだ。

おまえらは国家とか土地とか肩書とか因習とか文化とかに縛られたまま、死んで行くんだ。ざまあみろ。」


杉原は桜井と一度《在日》であることが原因でうまくいかなくなるんだけど、

結局は、国家とか因習とかそういう「大きなもの」に依らないで「俺」単体で生きる強さを持ってる杉原に桜井はたぶん動物的に惹かれているし、杉原も桜井にはそういう「大きなもの」の関係ない「俺」を理解してもらいたいっていうどうしようもない衝動があるの。


人間関係って、個人をまとっている属性とか所属とか「おおきなもの」同士の関係を指しがち。

でもつきつめていくと、人は好きな人を動物的に好きなのであって、なぜ好きか?と論理的に説明できるわけでもない。その人自身の「何か=性」に惹かれあうのが関係性の本質なんだという、そういう感じがする


さいご。

神様とつながれる瞬間だから

・・・あ、これ、別にふざけてるわけじゃなくて。

ダヴィンチコード読んだ人は分かると思うけど、この物語はルーブル美術館のソニエール館長が殺されてしまうところからはじまる。

ソニエール館長と唯一の血縁である孫のソフィは絶縁状態で。なぜかというとある日ソフィがおじいちゃんであるソニエール館長が性行為をしているところをみちゃったからなのね。

そんな絶縁のきっかけともなる性行為だけど、物語の最後で明かされるのは、実はそれはキリスト教において神とつながるための神聖な儀式だったんだよっていう話。(たしか)


その秘密結社がほんものかどうかよく知らないし、この描写はキリスト教界でも問題になったらしいけど、


でも人間がいちばん動物に近いという意味である意味人間が最も人間らしい瞬間で、だから描写されるのも当たり前といったら当たり前なのかも。

* * * * * * * * *
いままで、わたしのいちばん好きな本は市川拓司の本で、「地味でさえなくてひょろながくて友達もすくない智史」とか「おそろしく小さくていつも鼻ずーずーやってる静流」とか「脳内で化学物質が異常分泌されてしまう巧」とか、ほんのちょっと変わった人間たちが、それを認めてくれる人に出会って、大好きで幸せで・・・っていう本たちなんだけど、

それも側面ではあるけれど、こういう性的な側面にこそほんものがあるのかなっていう最近そういう気持ちがしている

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?