私は何者にもなれないけれど、妄想できるだけで幸せなんだ

テレビやネットで定期的に目にすることが人たちは、必ず何かの武器を持っている。

絵をかくのがうまい、文章を書くのがうまい、自分をアピールするのがうまい…

できることはなんだっていいのだ。でも、彼や彼女たちが有名になったのは、才能があったからだけではない。

そこには「やり始める」という行為と、それを「継続する」という行為が必ず付随していたはずなのだ。

才能を持っていて、かつそれを始める決断力があり、それを愚直にやり続けるという行動ができる彼、彼女たちを見ていると、素直に

「ああ、わたしもこんなふうになりたいな」

と思う。

でも、私の場合、その「ああ、わたしもこんなふうになりたいな」の「こんなふうに」は、単なるその人の追体験では終わらない。それをはるかに超えて、とても具体的で、巨大な妄想となっていつのまにか頭の中をぐるぐるし始めるのだ。

私がもしこうなったら…

友達はこんな風に言ってくれるだろうな。それに対して私はこう返事をするんだ。すると、その友達は、ほかの人にこう伝えるかもしれない。私の生活はぐっと変っていくんだろうな。

もしかすると大好きなあの雑誌から取材がきたりするかな。そしたらこんな質問がきて、わたしはそれにこう答える。写真に撮られるそのときには、恥ずかしくないようにちゃんと体重も落としておきたい。

段々有名になってきたら、本も出したい。そして、その本をfacebookで紹介するんだ。「わたくし事ですが、このたび、本をだすことになりました。」なんて言葉を添えてね。いいね!は思ったほどつかないかもしれないけれど、でもきっと本屋さんで見る自分の本は輝いて見えるはずだ。

そんなふうに妄想はとめどない。でも細部まで具体的に妄想していくと、最後のほうには脳みそが、

「はい、もうおわりだよ」

という信号を出してくる。そして私は、気付くと降りるべき駅についていて、電車を降りて私は家までの道を歩き出す。

妄想は現実を遥か先まで追い越して、鮮明で、わたしをどきどきさせる。

妄想は現実にならないからこそ価値をもつ。それだけに輝いて、面白くて、わくわくして、素晴らしい。

行動しなければ、考えていることに価値はない、とよく言うけれど、それはビジネス思考の誤った普遍化にすぎないんじゃないか。

行動を伴わない私は何者にもなれないけど、現実をはるかに超えた妄想ができる幸せをこの手に持っている

私の頭の中は今日も夢でいっぱいだ

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