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【新作小説】あばずれ

 小鳥の囀りが、二階の自分の部屋の人差し指が入るほどだけそっと開けた窓から聴こえた。登下校の時の挨拶のようにさりげなく、意味もなく、でもやさしく私を撫でたようだった。

「おはよう」と後ろから肩越しに言われて、それが誰か確かめることもなく、自分も「おはよう」と先に言葉にしてから、自分に追いつくその声の主の顔を見る。
 振り向いた顔が誰であっても、振り向いたことを後悔しないと分かっている私のその安心感が、相手の笑顔でそのまま包まれる。

 そんな当たり前の春の日差しのような風景が壊れ、私が不登校になって、もう7ヶ月目だった。

 不登校の原因は私と美術部の三崎先生とのことだった。生徒にいじめがあるように、先生にもいじめというものがあるらしい。私はそのことを体育祭の時に知った。私の学校では高校から中学まですべての生徒が赤、青、白、黄の四つの組に別れて得点を競い合う。普段は校舎もまったく別の中学生と高校2年生の私は赤組でいろんな競技で戦って最後に私たちは勝つことができた。

 最後の赤組の表彰の時に普段美術部の顧問として、普段私にやさしく接してくださっている三崎先生が優勝組の発表をしようとしていた。
 600人を超える女子学生が体育座りをする校庭の中で焦点を切り結んでいる表彰台のところで三崎先生は、筋肉質の体育教師からマイクを手渡され、なんどもなんだかピエロのようにリズミカルにお辞儀をして、そしてマイクを握った

「優勝は赤組です」
 そう、唇が動いた。
 声は聴こえなかった。
 口だけがパクパクと動いた。

 そして、赤組の優勝をたたえるように、満面の笑みを浮かべていた。その笑顔は少しだけ、私にだけは分かるほど、小さく、こっそりとひきつっていたけれども、私はそんな先生が好きだった。先生はいつも自分のことよりも人のことを大切にしてくれる。そんな先生が一番好きだった。

 私は私の中の私だけしか知らなかった、ずっと死ぬまで誰も知るはずのないはずだった私の心のなかの地下室を照らしてくれた、あの日の美術室の先生の満面の笑みを思い出して、なんだか痛いほど幸せな気分に包まれた。

 三崎先生は吃音だった。でも、アイドルのように端正な顔立ちで、先生がそこにくるといつも誰もがハッとするような雰囲気になった。でも、その端正な顔が言葉を発しようとするとき、世界は無惨にその度に壊れた。最初はその端正な顔に敬意を示していた人たちは、吃音という事実に最初はとまどい、そして、その落差に逆転勝ちのおぞましい快楽を楽しんでいたのだった。

「はい、今岬先生が口パクしてくれたように、優勝は……えっとどの組でしたっけ」
 体育教師はここで言葉を切って、体育座りの女子学生の方を向いた。ここは笑う場面だ。普段テレビのバラエティ番組で鍛えられた女子学生たちは、体育教師の朗らかな悪意に満ちた笑顔に釣られるように、爆笑の渦を校庭に巻き起こした。

「三崎先生……」
 私が呟く声は女子学生の朗らかな笑い声にかき消された。

「はい、静粛に。三崎先生。おっと、三崎先生顔が真っ赤ですね。どうしたんですか。ああ、分かりました。その顔で自己表現されているんですね。さすがは美術の先生だ」

 そう言って体育教師はまた全校生徒に堂々とその筋肉質の体躯を勿体付けるように左右にゆすぶって、マイクを握った。

「三崎先生の顔を見れば分かるように、優勝は赤組です!」

 割れんばかりの拍手が鳴り響いた。その拍手はもちろん、赤組の優勝のために用意されていたものだったが、体育教師の巧みな誘導によってその拍手はすべて、吃って赤面して晒し者になった三崎先生へと向けられる構図となった。

 壇上の横に並んでいる教師たちが、楽しそうに、一斉に拍手をしていた。

 体育祭が終わったと私はいつものように美術室に一人で長い廊下を向かった。自分の足音がいつもより、なにか修道院の中を歩いているような天井に抜ける音をしていたのを私は聴いていた。

 何も言わず美術室のドアを開けると、いつもの満面の笑顔で私を迎えてくれた。
 私は、何も言わずに先生に近づき、ブレザーの前ボタンを外して先生の顔を私の胸に強く押し当てた。もちろんそんなことをしたのは初めてだった。私は先生のことが好きだったけど、そんな素振りも見せずに、そんな気持ちはひた隠しにしていた。

 いつか、卒業したら、がんばって告白して、もし先生が受け入れてくれたら、最初はマクドナルドに行って、その次は日曜日に映画を見て……。そして、先生が大切に思っている、私も先生のおかげで好きになったセザンヌの絵画展がもし開かれることがあったら、そこに一緒に行って……。その時は先生とずっと一緒にいたい、といえたらいいな……。全部妄想の中でそんな風に思っていた。

 でも私の最初の愛の告白は私の胸に先生の顔を押し当てることだった。

 小鳥の囀りが、二階の自分の部屋の人差し指が入るほどだけそっと開けた美術室の窓から聴こえた。時が止まったように、ただ鳥の声が聴こえた。先生は静かに身じろぎもせずに私の胸に顔を埋めていた。私は、自分の突拍子のない行動がこれでよかったんだ……という思いとともに、そこにまるで温かいお湯が乾いた私の心を浸すように全身に広がっていくのを感じていた。

「すごいもの見ちゃった」
 私たちの時間は、あの体育教師の声で消え去った。
 片手にスマホを持っていた。

 なぜそこに体育教師がいたのかは知らない。
 でも、きっとこの世界はそんな風にできているんだろうと、何だか私は納得していた。

 先生は狼狽して私の胸から顔を離して、私に申し訳無さそうな顔をして泣き出しそうだった。私はもう一度、体育教師の笑い声がする美術室で三崎先生の顔を私の胸に強く押し当てた。

 スマホの写真は翌日全校生徒の噂になっていた。

 先生は転任になった。行く先は私には知らされなかった。先生とはLINEも交換していたけど、一度も使ったことがなかった。でも私はいつか、私のLINEに先生から「僕は大丈夫だよ」というメッセージが入るのをずっと待っていた。

 でも、それは来なかった。

 友達からのLINEで先生が命を断ったことを知っただけだった。


「どうして私にノートなんて届けてくれるの」
 私は自分の部屋にいる、それまで一度もしゃべったことのなかった男子生徒にそう言った。

 しゃべったことはなかったけど、どんな生徒かは知っていた。
 私が三崎先生とそんなことになる前から、この男子生徒は英語の先生と男女の噂になっていて、私が休学になる前に私と同じように自宅謹慎のようなひきこもりとなっていた。

「先生が自殺したんだ」

 その子はどうしてノートを持ってきたのかという私の問いには全く答えずに、にもかかわらず私の問に完全に答えていた。

「なんかさ、変な話だけど……」

 その男子はそういった。

「人間なんなんだろうね」

 高校生に似合わないセリフが場違いな場所で言葉になって宙に舞った。

「座りなよ」

 私は枕を背もたれにしてベッドから起き上がり、私の横を指した。

「うん」

 男子生徒は私の横に座った。その拍子にベッドのクッションが上下に揺れ、私は男子生徒と一緒にその上下感覚を一瞬だけ味わった。

 この七ヶ月の絶望の果の絶望の暗黒の塊が、その中でわずかに揺らいだような気がした。

 気がつくとベッドの上に仰向きになっていて、そこに男子生徒が乗っていた。男子生徒が泣いているのが自分の部屋着のTシャツの胸に暖かく染みて分かった。

「何だか違うよね」

「うん」

 私はそう言って、自殺した先生のことを思い出した。

「でもいいよ」

 男子生徒は無言で私の服を脱がせた。

 まだ昼間だ。

 1階には母親がいる。

 でも、いい。

 何の意味もないセックスなのかもしれない。

 でも、いい。

 でも、いいんだ。

 きっと、多分……。

 セックスってこういうものなのかもしれない。

 私は初めてのことが怖くなかった。

 期待もなかった。

 でも、なんだか、ただ正しいことをしているような気がした。


「そうだよ」


 顔は見えなかったけど、吃りのはずの先生の淀みない声がしたようだった。

 私は泣いていたようだった。

 意味のない涙だった。

 でもそれは意味がなくても正しい涙なんだと思えた。


「そうよ」

 私はおずおずと私の中に初めて入ってきたペニスに、そう言ってそれを迎え入れた。

 小鳥の囀りが朗らかに部屋に鳴った。


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