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アウシュビッツ訪問記:負の遺産から私たちは何を学ぶか。

Kraków,PolandからPrahaに向かう列車の中。

昨日の出来ごとを誰かに伝えたくて、衝動的にnoteをはじめてみる。


ちょっと肌寒い曇り空の下、泊まっているアパートメントからすぐのバス停から小さなワゴン車に乗った。


行き先はアウシュビッツ=ビルケナウ


これから私が聞いたこと、見たことを淡々と質素になってしまうかもしれないけれど、伝えてみたいと思います。


国立アウシュビッツ=ビルケナウ博物館のガイドをお願いしたのは、アジア人唯一の公認ガイド中谷剛さん。
(中谷さんには直接メールをしてガイドをお願いしました。
アウシュビッツに訪れる予定のある方には中谷さんのガイドをお勧めします。個人で入ることも可能ですが、私はガイド必須だと感じます!)


これから書くことに間違いがないようにはしたいけれど、事実と齟齬があるかもしれない、聞きまちがえてしまっているかもしれないという前提のもと読んでみてくださると嬉しいです。


アウシュビッツで人々が生きた証

第二次世界大戦中、ユダヤ人を中心に多くの犠牲者を出したホロコーストが行われた場所。強制収容所の一つ、アウシュビッツ=ビルケナウ。

ポーランド南部に位置するこの収容所で何が行われたのか。
歴史や現代文の教科書で習った、いわゆる「負の世界遺産」に昨日、行ってきた。

アウシュビッツに連行された人々は、荷物は全て没収され、シャワーを浴びせられ、髪が刈られ、囚人服だけが与えられる。

手荷物には名前、住所、運ばれて来た列車の番号まで。
財産を必死に守ろうとした痕が見える。
その手荷物を自分で開けることのできた人はどれくらいいたのだろう。

多くのユダヤ人は家族総出で収容所に強制連行させられた。
多くの食器を持ってきたのは、子どもたちへ収容所へ行くのではなく、「引っ越し」だと言うためのカモフラージュ?

縞模様の囚人服。
これを誰かが着ていたんだと思うと重みが変わってくる。
日本に帰ったら『縞模様のパジャマの少年』を観よう。

ちょうど真ん中に写っている日本人の子は10歳だった。
お父さんと2人で来ていた。3時間以上のガイドツアーを静かに、真剣に聞いていた。偉いなあ。
私の弟と同い年、これからの新しい世代だ。

写真の子どもは多分、上の男の子と私の弟と同い年くらいの子どもたち。

厚着だけれど、子どもの足元を見ると裸足なのがわかる。
暑くても、大切な衣服をできるだけ多く纏うために。

写真の子どもたちは泣いていない。
これから自分の身に起こることを予期していたのかも、そう思った。

奪われた荷物の中にあった貴金属は、金銀銅、重さで計られて集められた。

誰かの大切な宝物は、ただの金属になってその面影をなくしてしまう。

何万ボルトもの電圧が流れる鉄鋼柵。

脱出に成功した人はわずか200人足らずと言われている。


ガス室シャワー室と言われ多くの人がここに入れられた。
強制収容所という名前だけれど、一緒に運ばれたのが20人だとしたら、そのうち収容されたのはたったの4人。みんな直ぐにここ、ガス室に入れられてしまったらしい。


強制労働か、ガス室か。


入った瞬間重苦しい空気に押しつぶされた。初めての感情で涙が止まらず平然と歩くことができなくて、写真がぶれぶれになってしまった。

直ぐ隣には焼却炉。

そこで亡くなった方の遺体を運ぶのも、焼却するのも、全てユダヤ人。
自分の命と引き換えに、ユダヤ人の手でユダヤ人を。
ドイツ兵の精神的な負担を減らすため、だったという。

第二次世界大戦末期には7割の人が収容すらされずに、連れて行かれたガス室。
そこで使われた毒ガスは、害虫駆除の薬
猛毒ではないから苦しみながら20分ほどかかって亡くなっていったという。

それでも死ねなかったら、そのまま焼却炉へ。


ビルケナウ(第二収容所)

この長い列車のレールを教科書で見たことのある人も多いはず。

曇り空の下、想像をはるかに超える長さのレールが果てしなく続いていた。


この荷台1台に70人ほどが押し込められて、収容所まで。
ユダヤ人を乗せた列車は優先順位が最も低く、数時間で着く距離を数日かけて来たという。列車の中で力尽きてしまった人も少なくない。

『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクもこの荷台に乗せられて、第2収容所に収容されたそう。

『アンネの日記』は1年か半年前に読んだけれど、ページを進めるのがすごく怖かった。
終わりが近づいてくるのが分かるから。
とても強くて美しい少女、アンネ・フランクの日記、まだ読んだことのない方はぜひ読んでみてほしい。


第二収容所ビルケナウの収容室。
薄暗く埃っぽい建物の中、硬く狭い板の上にぎゅうぎゅうに押し込められて、何を考えていたのだろう。

とてもベットとは言えないこの場所で、冬にはマイナス20度にもなるこの地域で、とてもじゃないけれど想像ができなかった。

証拠隠滅のためにナチスが破壊した建物が無残な姿で残っている。

でも本当は、破壊なんてしなくたって、収容所の存在を誰もが知っていた。

大衆迎合の恐ろしさを、民主主義の失敗を私はここで見た。

おわりに

ここまで独り言のように書いてしまったけれど、
「ねえねえ、聞いて」って「どう思う?」って話したいと思って、記憶が薄れる前にこの記事を書いています。

今回、2週間のヨーロッパ旅行の一番の目的だったアウシュビッツ。

姉と、大学からの尊敬する友人と3人で行ってきました。
私たちが歴史を学ぶ意味をきっと心から理解できる場所だと思うから。

そこにあったのは決して過去の出来事ではなくて、
今もずっと続いている現在の問題なんだって。

私たちには過去を学ぶ必要があって、伝える責任があって、繰り返さない義務がある

だからここで私は発信したいと心から思ってここに記します。(ちょっと長くなっちゃったけど。)


時系列がぐちゃぐちゃになってしまうけれど、今までのこと、伝えてみたいと思っていたことをこれから言葉にして発信してみようかなと思います。

20歳の自分が感じる感情をここに記しておきたいから。



<中谷さんへの連絡方法>
tnakatani1966 [a] icloud.com
※[a]を@に変えて送信ください
メールで複数日候補日を提示して、ガイドをお願いしました。
1週間ほど前、直前だったにも関わらずお引き受けしてくださった中谷さん、ありがとうございました!
最大20人までの同時案内になるみたいです。




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