イエス・キリストに出会って仕事を辞めた話 #転職体験記


【以下は受洗にあたり教会に提出した、信仰を持った経緯をまとめた文章です。】



私と聖書の出会いは高校生の頃にまで遡ります。
「自分には人生の拠り所、指針となるような“何か”が無い」と感じていた私は、宗教がその“何か”になるのではないかと思い、元々クラシック音楽を聞いたり西洋史について勉強することが好きだったこともあって、その文化的背景にあるとされる聖書を読み始めました。
しかし初めて読む聖書は分からないことが多く、倫理的な教訓に同感することはあっても「自分はこんな風に生きられない」とがっかりし、やがて聖書を読まなくなりました。
その後大学生になって将来のことに悩んだり自分が嫌になる中で仏教に出会い、「これこそ自分を支えてくれる教えだ」と感じた私は仏教、それも鎌倉時代に親鸞が創めた浄土真宗を学ぶようになり、やがて縁あって僧侶になりました。

京都の東本願寺で5年間職員を務めた後、2020年に富山の小さなお寺に跡継ぎとして赴任しました。
全く知らない土地に一人で赴いたことで孤独を感じ、コロナ禍による収入減もあって辛い日々が続きましたが、自分の信じる仏教を心の支えとして何とか1年頑張ってきました。
しかし年が明けた頃、突然仏教が信じられないという状態に陥りました。
それ以来、法事でお経を読んでいると
「自分が信じてもいないお経を大声で唱えてお布施を騙し取っている、大嘘つきだ」
という自分の心の声が聞こえ、動悸や手の震えが出るようになり、「このままでは自分の身が持たない」と感じるようになり、僧侶として働くことができなくなりました。
(振り返ってみると、当時の私は「お経にこう書いてある、○○先生もこう言っている、こんなに沢山の人が信仰している、だから親鸞聖人の教えは正しいんだ!」という信じ方で、教えそのものを実感をもって信じていた訳ではなかったなあ、と思います)

アパートに引きこもり、仏教書もつらくて読めないという状況でふと思い出したのが、僧侶になってから新聞で読んだ進藤龍也牧師のインタビュー記事でした。
進藤先生は元々暴力団員でしたが、何度目かの逮捕で拘置所に入っていた時に現在の奥さんから差し入れられた聖書を読み、その中でエゼキエル書の一節に心を打たれたと言います。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

‭‭(エゼキエル書‬ ‭33‬:‭11‬ 新共同訳)‬‬‬‬


「こんなどうしようもない俺でも神様は見捨てていない、神様を信じれば救われるんだ!」
そう感動した進藤先生は更生を誓い、出所後周囲の助けもあって神学校に入り牧師になったとのことでした。

当時そのインタビューを読んで、
「聖書の神様ってこんなに優しかったんだ。
それに聖書はこの人みたいなどん底に落ちた人に、人生をやり直す力を与えるんだ。
神様が本当に居るとは思えないけど、聖書はただの人間が書いたとは思えない、不思議な書物だ」  

と感じたことを思い出した私は、
「もう一度聖書を読んでみよう、僕も何か導きがあるかもしれない」
と思い、聖書を買って読み始めました。

すると早速、創世記の第1章が目に留まりました。

【神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」】
【神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。】

(‭‭創世記‬ ‭1‬:‭26‬, ‭31‬ 新共同訳)‬‬‬‬‬‬


「あぁ、神様はこの世界を素晴らしいものとして作ってくださったんだ!しかもそんな素晴らしい世界を創った神様が、ご自分に似せて僕を作ってくださったんだ!」  

ということに嬉しさや安心を感じると同時に、この現代人には信じがたい言葉を素直に信じることが出来た自分に驚きました。
しかし一方で
「僕もこの世界もそんなに素晴らしい存在なら、どうして僕は(僕たち人間は)こんなに苦しんでいるんだろう?」
という疑問も起こりました。

その答えはすぐに見つかりました。

【女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。】

‭‭(創世記‬ ‭3‬:‭6‬-‭7‬ 新共同訳)‬‬‬‬‬‬


「神様ではなく自分自身の知恵を信頼するようになって、アダムとイブは自分自身を『弱く惨めで恥ずかしい存在』としか受け止められなくなったんだ。
そんな自分を誤魔化すために、自分を偽り、他人と争うようになったんだ。
まさに今の僕の姿そのものじゃないか!」

お釈迦様や歴史上の高僧のように厳しい修行を積んだ訳ではないただの人間が、これほど的確に人間の姿を言い当てる言葉を遺したことに驚きました。

そして並行して読んでいた新約聖書を通して、イエス様の愛にも触れることが出来ました。

【お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。
(中略)
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』】

‭‭(マタイによる福音書‬ ‭25‬:‭35-40‬ 新共同訳‬)‬‬‬‬


「こんな自分をイエス様は見捨てないんだ。
『あなたがこの世で“最も小さい者の一人”になっても、私はあなたと共にいる。
私はあなたと共に泣き、あなたと共に喜ぶ』
そう言ってくださるんだ」

そう感動した私は、更に聖書を読み進めていく中で確信しました。
「やっぱり神様はいるんだ。こんな凄い本が書かれたたのも、それを今自分が素直に信じていることも、神様がいないと説明がつかない!」

「今の自分には聖書に記された神様しか信じられない、これ以上僧侶を続ける訳にはいかない」
そう感じた私は、正式に僧侶を辞めて岡山の実家に帰り、岡山教会に通うようになりました。
礼拝や祈祷会に参加し、日々聖書を読み、神様について色々なことに気付かされ、教会の皆さんとの交わりを持つ中で、
「全生活、全人生を懸けて神様のために生きたい。また教会の一員としてその働きに関わっていきたい。その出発点として洗礼を受けたい」
という思いを抱き、このたび受洗を決意しました。
洗礼を受けてからは今まで以上に、信仰生活を通して神様の素晴らしさと神様が創造された世界の素晴らしさを感じたいと願っています。


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