わたしの人生(ダンスと仕事)幼少期編

私は3歳からクラシックバレエを始めました。始めたときのことは覚えていません。自分の意思ではなく、母方の祖母の意向で始めました。祖母は、自分の娘たちにバレエを習わせたいと思っていたけれど、金銭的な都合で習わせることができなかったので、孫に習わせたいと思ったようです。
祖母の友人が副校長を務めるバレエスクールが、当時の私の自宅の近くにあり、3歳4ヶ月になった時に入学しました。祖父母は、私が小学生になるまで、バレエの月謝や発表会の費用を出してくれたそうです。

私の人生の最も古い記憶は、母が洗濯物を干す横で、スキップの練習をしたことです。バレエのレッスンで、スキップができなかったので、家でも練習していたのだと思います。母が洗濯物を片手に手を繋いでくれて、一緒にアパートの畳の部屋でスキップをしたことを鮮明に覚えています。小さいながらに頑張り屋さんだったと思います。

4歳になったばかりの7月、私は初めて舞台に立ちました。スクールの生徒の中で、私が最年少。テンポが周りと合わなかったり、一列になるところでは最後尾で遅れを取ったりする姿が可愛らしく、会場から何度もどっと笑いが起こったようです。
本番後、家族と親戚が楽屋口に私を迎えに行くと、私は「みんながみくちゃんのこと笑った!!」とぷんぷん怒っていたそうで、このエピソードは親戚中で今でも時々話題になり、みんなに笑われます。

「親戚中」と書きましたが、私のバレエの発表会はこの時から親族一同の夏の恒例行事となりました。両親・弟たち・両方の祖父母、両方の叔母、それから祖父母のきょうだい夫婦や祖母の友人まで、みんなが毎年私を観に来てくれました。
バレエの発表会は毎年夏休みにあるので、家族は私のバレエの予定に合わせて、家族の行事や旅行の予定を決めることになり、それがその後何年も続きました。
当時はそれが当たり前だったので何も思いませんでしたが、今振り返ってみると、家族にとっては何かと不都合なことがあったと思うし、本当にありがたいです。

私はバレエがどんどん好きになりました。幼稚園に入る頃、父が家を購入したので、少し離れた所へ引っ越しましたが、バレエスクールは変えずに、毎週土曜日のレッスンに、欠かさず父が送迎してくれました。
同い年のお友達の中で最もキャリアが長いので、いつも最前列やセンターで、おいしいポジションを獲得できたことも、「バレエが好き!」という気持ちを維持できた理由の一つだと思います。

私は年中さんから幼稚園に入園しました。私が通っていた幼稚園は行事が盛んで、「うちのクラスが一番になりたい!成功したい!」と、先生同士の競い合いがあったようです。笑
お遊戯会では、基本的には園児がいくつかの作品の中から「やりたい作品を選べる」はずでした。しかし、ある日の夜、担任の先生から母に電話があり、「みくちゃんにはこれに出てもらいたい」と作品を指定されました。それは中国風の「にゃんにゃん祭り」という作品で、ふわふわの扇子を持って踊るという、ダンス経験のない子供たちが踊るには少し難易度の高いものでした。バレエを習っている私をセンターに置いて、作品の完成度を上げたい、というのが先生の狙いだったようです。

「先生が『にゃんにゃん祭りに出てほしい』って言ってるよ」と母に言われ、「(本当は別の作品に出たかったけれど)先生が言うならいいよ」と引き受けました。
本番の後、ビデオを観てみると、やはり私は上手く踊れていて、笑顔で踊る余裕もがあり「引き受けてよかったな」と思いました。

そして、翌年のお遊戯会でも、先生にお願いされ、今度は着物を着て扇子を持って踊る和風な作品に出ることになりました。
私は本当は劇に出たかったし、一度は劇への出演が決まっていたので「やだ!」と思いました。母は「みくが出たい方でいいんだよ」と言ってくれたし、母としては「一度決まったのに、後から変えてほしいって頼んでくるなんて!」という気持ちもあったようですが、私は前年の経験からも「私がやったらうまくいく」とわかっていたので、「渋々…」という気持ちもありつつ、引き受けました。そして、ビデオで確認すると、やっぱり私は踊っている時、上手だし可愛いなと我ながら思いました。

幼稚園でのお遊戯会の経験で、バレエで培ったことが違うジャンルのダンスにも応用できることがわかったし、私はステージに立つのが他の人より得意、と自覚するようになりました。

<続く>
わたしの人生(ダンスと仕事):小学生編

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