辛さの程度
仕事など辛かった時の話をするとき、他人の辛かった話を聞いて、自分の方がもっと辛い体験をしたことがあると心の中でそう思ったことはあるのではないですか?
そういう時、おそらく頭の中でこういう方程式が成り立っているかもしれません。
「辛い体験をした=すごい、えらい」
しかし、主観的な辛さの程度はあったとしても、客観的なそれはないはずです。
他人の辛さを自分の辛さと比較することは意味がないし、比較したことにならないんですよね。
正確にはこう表現するべきだと思いました。
「辛い体験をした=その体験を通して学習する機会があった」と。
人は、人を評価する時、
「何を体験/経験したか」という過去に焦点を当てがちですが、その経験を通して「今何をアウトプットできるか」という現在には焦点が当てられにくいと思うんです。
この理由は「経験→学習→強化されたアウトプット」という一連のプロセスの中で、「学習」という部分があたかも人によって変わらず均等だという観念が無意識的に前提となっているからだと思います。
もちろん、もし学習能力が均等なら、アウトプットも同質です。でもそんなことはあり得えにくいです。
人と同じ時間割を人と同じ時間をかけて詰め込み、均一的なオトナを生産する大量生産モデルのような個々の学習能力は無視された義務的な教育制度から生まれてしまった固定観念なのでしょうか?
「他人の辛さを自分の辛さと比較することはできない」と書きましたが、これは体験/経験を比較するからであって、比較するのであれば「他人のアウトプットを自分のアウトプットと比較する」ことが大事だと思いました。
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