第十六章 定家の独白

眠られぬ夜が続いている。六十を越えた身には辛いことが多すぎるのだ。

延応元年二月二十二日、後鳥羽院が崩御。上皇さまは、二度と京の町をみることなく、隠岐で亡くなられた。あの派手好きで、なにごとも一番でなければならない人が、配流先でその生涯を閉じるとは。

これまで、何人もの天皇に仕えたが、あの方は、際立っていた。ひときわ優れた器量の持ち主だったと思う。『新古今和歌集』を作るときは、撰者の一人となって、苦労も多かった。上皇みずから、お目を通して撰び、厳しいやりとりもあったが、今はそれすら懐かしい。

思い出すと、さまざまな出来事が、頭を駆け巡り、浮かんでは消え、いつしか暁を覚えるという日が続いた。夢こそ、見ないものの、順徳院を頼むという強い意志を感じる。

やがて、季節が巡り来て、やりきれないほどの暑さが、少し落ち着き、ようやく息ができるようになった。

後鳥羽院の亡きあと、佐渡に残された順徳院を京都に戻してはどうか、という関白藤原道家どのの嘆願書もむなしく、鎌倉からは返事がない。

佐渡におられる順徳院も、父宮の崩御の知らせを聞いて、ひどく哀しみ、その心情を和歌にして、送ってきた。

     後鳥羽院かくれたまうてのころ   順徳院御歌

 大原にをさめたてまつるよしきこえければ

いる月のおぼろの清水いかにして つひにすむべきかげをとむらん

(父宮は月が入るように、御隠れになったが、朧の清水の大原では、いったいどうやって、澄む月影を留めているのだろうか、遺骨を納めた大原に、父宮の御霊をおとどめしているのだろうか)

    御悩ののちありける御ふみを、こののちひらき見て、

君もげにこれぞ限のかたみとは しらでや千代の跡をとめけん

(父宮がご病気になってから、いただいた手紙を、この崩御の後にひらきみて、君はまことに、これこそが最後の形見の手紙となることとは、ご存じなくて、千代まで残る手跡を遺されたのであろうか)

これらの歌は、ずっとわたしの手元にあって、のちに、息子為家によって、続古今集に収められている。わたしは、年老いた。病がちで、日々を漂うようにして暮らしている。順徳院からの『御製歌少々』をすぐに日の目に見せることはできなかった。決して、放っておいたわけではない。

それどころか、眺めていると、佐渡での順徳院の哀しさが伝わってきて、涙を止めることができなかった。それを今は、わたしだけの胸の内にしまっておきたい気がしたのだ。

さきに亡くなった実朝さまには、晩年がない。若くて、瑞々しい歌を多く詠んだ。将軍とは名ばかりで、政の外に置かれたというが、それはそれで、幸せだったのではないか。

北条泰時は、臣下の身でありながら、天皇であらせられたお二人を二十年のも長き間、配流している。なんという驕り、鎌倉はいずれ滅びる。そうでなくて、なにが正義なのだ。年老いた身の、そして、歌詠みという身分のわたしですら、そう思うのだから、順徳院の心持ちはいかがであろうか。

順徳院は、ほかにも詠んでいる。

かなしきたびにも、まずおもひいでられし うちうちの御事共、年をへて、我身ひとつなる心ちすれば

なぐさめし よそのたくひもたえはてて 独りながむる 秋の夜の月

(悲しい時々にも、真っ先に思い出された後鳥羽院の宮中での内々の御行事の数々も、年が隔たって、父宮御崩御の今では、わたしひとりが取りのこされたような気持ちがするので、

私を慰めてくれた篝火も、すっかり消えてしまい、今はたったひとりで眺める秋の夜の月であることよ)






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