広島藩の江戸時代の大名庭園 縮景園


広島の縮景園に行ってきました。1620年に、広島藩初代藩主浅野長晟の別邸として築庭されました。作庭者は上田宗箇です。上田宗箇は、あまり有名でないですが、広島『縮景園』、和歌山『和歌山城 西之丸庭園』、『粉河寺庭園』、そして『名古屋城二之丸庭園』と複数の大規模な大名庭園、かつ国指定文化財庭園を手がけている名作庭家でした。
『縮景園史』(広島県編、令和3年)に記載される、1713年に書かれた「縮景園記」の文章と私の写真を使いながら、庭園の紹介をします。
なお、この庭園は原爆により全ての建物が焼失し、樹木は3本しか残りませんでした。なので、これから紹介する建物は戦後の復原です。


全景

西側の全景。春と夏の庭。
跨虹橋ここうきょう
東側の全景。秋と冬の庭。
全体図 『縮景園史』(広島県編、令和3年)

大きな池中に小島が浮かぶすがたがわかります。この池は濯纓池(たくえいち)と名づけられています。池泉回遊式で、池は川と直結しますが、海に近いので海の干満により水位が上下します。池の中には亀や、仙人が住むとされる理想郷である蓬莱山に見立てた島が点在します。

眺望の四阿 超然亭(ちょうぜんてい)

見上げた図。左の内部は竹の垂木、右の外部は丸太の垂木が、柱にも丸太が使われます。まさに木を切り出したそのままといった様子に見えます。(実際は角材より手間のかかる製材ですが、簡素に、みえるのです)

これは超然居(ちょうぜんきょ)というあずまやです。少し小高い丘の上にあり、庭園全体を見渡せる絶景スポットです。超然、とは、何事もに気にかけないという意味。老子はこれを為政者、君子の心構えとときます。君子は軽挙妄動に動かされず本質を見極めるめべき、ということです。簡素なあずまやですが、君主の心構えの意味が込められているのがおもしろいですね。

あずまやの素材に込められた意味

ところで、この軒に丸太や竹が使われていることに気づくでしょうか。このまるで山から刈り出したままこのようです。それには以下のような意味が込められていることを浅野家の儒官である堀正修が「縮景園記」を1713年に著しています。ここに、派手なものより自然の簡素なものが良いと書かれます。

その亭に入ると先の殿の清らかなご宴会の様子を思い出し、その高楼にのぼれば、先の殿の自然のままで人為を用いないことの楽しさを思い、その街を見れば先の殿の愛読しておられたことを思う。破れるものは葺き、欠けるものは補い、古びたもの・弱々しいものがあれば、見廻っては力添えをしてやる。

これは民を率いていくのに、孝を以ってするということにつながるのではないか。茅葺、山から刈り出したままの垂木、竹の閂、柴の戸、すべて事は簡単で易しいものから成っており、まさに上古純素の遺風があって、他の大名のような豊かで奢り高ぶった風習はここでは全く見られない。これも民に倹約の手本を示したといえるのではなかろうか。

昔の徳の薄い暗愚な人は、好んで宮室を派手にし、その台を玉づくりにし、その山を錦で飾る等、見馴れない技、こりすぎた巧さ、雑然さを子女にもおし進め、玉帛(ぎょくはく)で私の生活を奢り、盛んな宴会を閨門中に楽しみ、気儘に振る舞い身体をそこねてその清らかで爽やかな心を失い、先祖の遺業を捨ててしまうものがあった。民衆の恨みのうたがおこり、血山の諫言がやってくる。そのようなことで山水園池の美を深く味わおうとしてもどうしてできようか。

「縮景園記」1713年

雑然とした技巧的なものはネガティブに、簡素で古式なものはポジティブにとらえ、さらに、それが倹約の手本を示しているとします。

雨傘のような四阿 看花榻(かんかとう)

看花榻(かんかとう)


これは有名な詩人頼山陽の父頼春水が、1806年に言及しています。

十余歩上ると丘に円があり、看花榻(かんかとう)という。榻(とう)は腰掛である。蓋は開いたきぬがさのようで一柱でこれを支え、座はぐるぐる廻ってろくろのようだ。榻の前後の花木は美しく、園外の東より南にかけても美しく非常によいところである。

1803年の縮景園記 『縮景園史』(広島県編、令和3年、p48)

まるで傘のような建築で、しかもこれが回転できるため、ろくろのようだ、としています。


船のような四阿 悠々亭(ゆうゆうてい)

これは悠々亭で、まるで船のように湖畔にたちます。天明年間に庭園が大改修されたときに建てられた四阿です

川と月をみる四阿 明月亭(めいげつてい)

明月の額は篆書体で、しかも月のように真ん丸。
窓も月のように丸です。

月と川を臨んだ明月亭は各所に丸の造形を使っています。


その他

大名庭園によく田んぼが作られるのも重要で、どんなに偉くなっても日本人の基本は農耕民族だという意識や、田んぼの四季の移ろいの美しさを意識したものでしょう。
調馬場。ここで藩主が馬や弓の練習をしたでしょう。ただ、他の庭園では左右に土手があり、馬が別のルートにそれないようにするのですが、ここでは土手がないようです。


薬草園では、庭や城での藩主の急な体調不良のときにすぐ薬草をとりにいけるよう、設置されました。

まとめ

戦災で惜しくも焼失はしていますが、自然をゆったりと楽しむとともに、その中に君主としての理想を込めたことがわかる、貴重な大名庭園です。船のような四阿、展望の四阿、月を見る四阿など、庭とその周りの自然を楽しもうとする意識がよくわかります。戦後の努力によって往時の姿が取り戻せています。庭の文化財である、名勝庭園に指定はされていませんが、継続的に保護を図るべき庭園だと思います。

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