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正解は、自分で定義していくもの

「文章ってどうやって書けばいいんですか?」

たまにもらうこの質問に、わたしはちょっと困ってしまう。

なぜなら、文章は誰にでも書けるからだ。

もちろん、文章の最後には「。」をつけましょう、とか同じ接続詞が続かないようにしましょう、とかある程度の読みやすくするためのライティングルールは存在するとは思う。

でも、じゃあそのルールたちを度外視したものを文章と呼ばないのか、と言われたら、そんなことはない。

ぜんぶ、文章だと思う。

そのなかで、書きながらみんなそれぞれのやり方を確立させていく。

わたしのライティングも、教科書どおりにやったり、誰かにみっちり教わったりしたのではなく、毎日毎日繰り返し文章を書くなかで、自然と確立していったものだ。

それを、正解なのか、と言われたら一般的にはどうだか知らないが、わたしのなかでは正解だと思っている。

わたしはわたしの文章が好きで、書いていて気持ちよくて、生きている実感すら感じる。

正解は、そうやって自分で決めるものなのだ。


昨日、はじめてポエトリーリーディングというのをやった。

ポエトリーリーディングとは、主に詩人が自作の詩を読み上げることを指すが、広義には詩を朗読するアート形態そのものをさす。 ラップミュージックにのせて詩を読んだり、ビートボックスとコラボレーションして詩を読んだりという形態もある。by Wikipedia

とのことだが、声優ライターという言葉を扱う仕事をする者として、謎の使命感を覚えて出ることを決めた。

でも、ポエトリーリーディングなんてやったことがない。

どうも、トラックというBGMのようなものを用意するらしい。

詩の長さはいくらでも良くて、何なら詩じゃなくても一言だけでも良い、という割とザックリとしたルールだった。

そのなかで、わたしは「17歳」というテーマを選び、「やさしさに包まれたなら」のオルゴールにのせて、文章を読んでいった。

読みながら、なんだか泣きそうになった。

ぶっちゃけて言えば、これはポエトリーリーディングというよりも、朗読に近い。

それでも、参加していた人にすごくたくさんの感想を言ってもらえた。

参加者がほぼ全員初心者だというその日のポエトリーリーディングにはいろんな形があった。

自作の音楽に合わせて歌をうたう人、独特な節に合わせて身体も使いながら表現する人、手紙のようなメッセージを泣きながら読む人…

やり方がわからないなか、各々が模索し、次々に心の声を叫んでいく姿には心打たれるものがあり、わたしも思わず涙してしまった。

正しいとか、正しくないとか、そんなことはもう誰も気にしなくなっていった。

最後に、主催であるプロ無職のるってぃさんが自身のポエトリーリーディングのなかでこう言った。

「今回イベントをやるにあたって、

『ポエトリーリーディングって何ですか?詩ってどうやって作ったらいいんですか?ポエトリーで誰がオススメですか? 』

と聞いてくる人が何人もいたんですよ。

でも、あなたがそれをポエトリーと思うならそれがポエトリーだと思うし、それを定義するのは自分だと思うんですよね。

バンドとか、このコードで作れば売れる、みたいな形式があると思うけど、そういう売れるために相手に迎合していくっていう下心をぶっ壊す起爆剤がポエトリーだと思うんです。

もちろん社会で生きていくためにはめちゃくちゃ大事だけど、大衆に迎合ばっかりしていたら心が死んでいく。

だから、これが僕なりのポエトリーリーディングです!」

文章と同じで、ポエトリーリーディングにも、正解なんてなかったのだ。

これは、ぜんぶのことに言えると思う。

イラストも、写真も、ファッションも、デザインも、「こうすればキレイに見える」という一般的なルールのようなものはあっても、それが必ずしも「正解」とは限らない。

そのなかで、これは良かった、これは正解だった、そう定義するのは自分でしかないのだ。

だったら、細かいことを気にせずに、素直に自分がいいと思ったものをやればいいんだと思う。

イラストだって、文章だって、心からやりたいようにやればいい。

こんなヘタクソでめちゃくちゃなものを見せたらダメなんじゃないか、と怯えるんじゃなくて、胸を張って見せていけばいい。


「正解」と呼べるもののほうが少ない世の中で、自分なりの正解を確立していくのは自分なのだ。


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