見出し画像

暦 の 話

変身物語の最後は、カエサルとアウグスティヌスの話で終わっていました。この二人は、JulyとAugustに名を残しているように、現在世界で使われている暦の元を作った2人です。

なぜ、暦に名前が残ったのか、暦の名前名称の由来が何なのかについてまとめてみました。

1、なぜ、曜日名は月、火、水、木、金、土 なのか

古代ローマ時代では、曜日の概念が決まるよりも前に、1日を24等分して1時間とする決まりが制定されました。

エジプトは、昔から高度な文明を持っていて、宇宙には地球以外の5つの惑星が存在することに気づきます。

そして、占星術ではそれぞれの惑星が地球を支配しているのではないかと考えられ、神のような存在として扱われるようになりました。

そのなかで、地球の1日は5つの惑星と太陽と月によって、1時間おきに支配されているという考えが生まれました。

また、支配している時間帯の順番は、距離の遠い順に「土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月」と順番と決めました。

1日の最初の1時間を支配する惑星たちが、その日1日を代表する星として名前をつけることにし、曜日の概念が生まれます。

24時間を7つの惑星と太陽と月で順番に支配していくため、1日の始まりの1時間を担当する星は3つずつずれていきます。

最初の日の最初の1時間は土星で、2日目の最初の1時間は太陽(日)、3日目の最初の1時間は月となり、以降火星、水星、木星、金星となって、土曜日から始まり7日間で繰り返される曜日が出来ました。

しかし、宗教上の理由で週の初めは日曜となり、更にローマがキリスト教を国教にしてから日曜にキリストが復活したことを記念するため日曜日を安息日の休日と決められました。今でも多くのカレンダーは週の初めが日曜からとなっています。

七曜日はローマ暦の途中から使用されるようになった。名前は
日曜日 Diēs Sōlis ディエース・ソーリス 太陽の日
月曜日 Diēs Lunae ディエース・ルナエ 月の日
火曜日 Diēs Martis ディエース・マルティス マルスの日 火星
水曜日 Diēs Mercuriī ディエース・メルクリイー メルクリウスの日 水星
木曜日 Diēs Iovis ディエース・イオウィス ユピテルの日 木星
金曜日 Diēs Veneris ディエース・ウェネリス ウェヌスの日 金星
土曜日 Diēs Saturnī ディエース・サトゥルニー サトゥルヌスの日 土星
マルス、メルクリウス、ユピテル、ウェヌス、サトゥルヌスはすべてローマ神話の神の名で、それぞれ火星、水星、木星、金星、土星と同一視される。

その他の国々、まずロマンス諸語 イタリア語、スペイン語など多くのロマンス諸語は、キリスト教やローマ神話に由来する名称を用いる。
スペイン語は
domingo(日曜日)は主、
lunes(月曜日)は月、
martes(火曜日)は軍神マルス、
miércoles(水曜日)は商業の神メルクリウス、
jueves(木曜日)は神々の王ユピテル、
viernes(金曜日)は愛の女神ウェヌス、
sábado(土曜日)はユダヤ教の安息日を それぞれ起源としている。

ゲルマン語 英語やドイツ語、オランダ語といったゲルマン系の言語は、
日曜日 (Sunday) は太陽 (Sun)、
月曜日 (Monday) は月 (Moon) にちなみ、 ローマ神話の神々に相当する北欧神話の神々の名も用いる。
英語は、
火曜日 (Tuesday) は北欧神話の天空神テュールに、 (これはローマ文化からゲルマン文化に 曜日の概念が伝わった際、 ローマの概念での軍神が一番近い立ち位置にいたのはオーディンであるが、水曜日に当てはめられた為、 テュールに軍神の役割が与えられ、 マルスからテュールに置き換えられた。 これをきっかけに、テュールは名実ともに軍神としての立ち位置を崇拝の対象として得た。)
水曜日 (Wednesday) はアングロサクソンの主神オーディン(ウォドン)、 (上記の理由と同じくメルクリウスの役割を オーディンに当てはめた為。 しかし、メルクリウスとオーディンの場合は 商業ではなく知識の神ということで置き換えられた。)
木曜日 (Thursday) は北欧の雷神トールに由来し、 (ユピテルの持つ雷とちからの象徴から 置き換えられた。 戦争とちからの象徴は、 勢力戦と個人戦の違いなので 軍神とはまた異なる。)
金曜日 (Friday) は北欧の愛の女神フレイヤ(フロイア)、 (美の女神であるウェヌスは そのまま美の女神であるフレイヤに置き換えられた。)
土曜日 (Saturday) はローマ神話に登場するサトゥルヌスを起源とする。

2、ローマ暦

は、古代ローマで使用されていた暦法。狭義には、古代ギリシア暦を元にしてつくられた暦法
 紀元前753年(紀元前745年説あり)、最初のローマ暦が古代ローマで採用された。この暦法は、ローマを建国したとされる王ロームルスの名をとり、ロムルス暦と呼ばれる。この暦には29ないし31日からなる月が10個置かれ、現在の3月にあたる月から始まり12月で終わっていた
 年始にあたる Martius が1番目の月であり、4番目の Junius までは神の名前をつけている。5番目から10番目にあたるQuīntīlisからDecemberまでの月名は、ラテン語の数詞5-10(quīnque, sex, septem, octō, novem, decem)に由来し、第5月から第10月を意味する。月の順序と月名との間にずれが生じたのは、紀元前153年の改暦による。1年の長さは304日で、12月30日と3月1日の間に、日付のない日が約61日間続いた。農耕暦だったので、畑仕事のない季節に日付は必要なかったとされる。当時のローマ人は1年の長さが約365日であることを知らなかったため、日付のない日は厳密に61日間ではなく、春めいてきた日に王が新年を宣言するという形をとったと考えられる。
Martius マルティウス 31日 軍神マルスの月 3月
Aprīlis アプリーリス 30日 美の女神ウェヌスの月 おそらく、ギリシア語アプロディーテを 起源とするエトルリア語 Apru より 4月
Māius マーイウス 31日 豊穣の女神マイアの月 5月
Jūnius ユーニウス 30日 結婚生活を守護する女神ユーノーの月 6月

ヌマ暦 紀元前713年、ローマ国王ヌマ・ポンピリウスによって改暦が行われた。
現在の1月にあたるJānuārius、2月にあたるFebruāriusがつけ加えられた。
このときヌマは、日数が30日だった月の日数をすべて29日に変えた。平年の1年の長さは355日になる。2年に1度、2月の日数を23日に減じ2月23日の翌日に Mercedinus(メルケディヌス)という名の27日間または28日間の閏月を挿入した。この時期はまだ年始は3月1日であった。この暦法は、布告した王の名をとりヌマ暦と呼ばれる。ほとんどの月の日数を29日と31日にしたのと、1年の長さを月の運行に合わせた354日にしなかったのは、ヌマの信仰が偶数を嫌ったからだとされている。
Ianuarius / Jānuārius ヤーヌアーリウス 29日 物事の初めと終わりを司る境界と時間の神ヤヌスの月 1月 January janvier
Februārius フェブルアーリウス 28日 23日 浄罪と贖罪の神フェブルスの月 2月 February février
Mercedinus メルケディヌス - 27日または28日 ラテン語のmerces(賃金の意)より。 この時期にこの1年の給金の支払いがあったことから (閏2月)

紀元前153年の改暦  紀元前153年1月1日に行われた。 この年から、 年の始まりが3月1日(MartiusのKalendae)ではなく、1月1日(JānuāriusのKalendae) に移った。このとき、月の順序と月名との間にずれが生じた。

ローマ暦では今のように「1月5日」というような日付の呼び方はしなかった。各月に3つずつ、特別な日があって、それぞれ、
Kalendae (カレンダエ):月の最初の日。その月の Nōnae がいつであるかを宣言する日であり、「宣言する」という意味のラテン語の動詞calāre/kalāre に由来する。
Nōnae (ノーナエ):月の第5日または第7日。Īdūs から数えて9日前であり、「第9の」を意味するラテン語の序数詞 nōnus の語尾変化形そのものである。
Īdūs (イードゥース):月の第13日または第15日。Nōnae の8日後であり、「第8の」を意味するエトルリア語に由来するとの説がある。
ただし、ローマ暦の1ヶ月は、太陰暦と違い、月の運行とはずれているため、ノーナエ、イードゥースは実際には本当の半月、新月とはならない。この3つの基準日を元に、それぞれの日の名前が決まる。
小の月のノーナエは第5日、イードゥースは第13日だった。1月、2月、4月、6月、8月、9月、11月、12月。
大の月のノーナエは第7日、イードゥースは第15日だった。3月、5月、7月、10月。
9月1日は、9月のカレンダエ、9月5日は9月のノーナエと呼ばれた。 ローマ暦は基本的に逆算式だった。9月2日は「9月のカレンダエの翌日」や「9月2日」とは呼ばれず、「9月のノーナエの4日前」と呼ばれた。

紀元前46年まで使われていた最終期のローマ暦は、1年は12か月、355日だった。年始は1月1日であった。1月から順にそれぞれの月の日数は次のとおり。 29,28,31,29,31,29,31,29,31,29,29,29 平年の1年の長さは355日で、2年に1度、2月23日と2月24日の間に22日間または23日間の閏日を挿入した。

閏日の挿入は最高神祇官の職責であったが、規則どおり閏日を入れないことがしばしばあった。政治的な理由で、1年の長さを恣意的に操作するため、閏日を挿入したりしなかったりすることもあった。そのため、暦の上の日付と季節がまったく合致しなくなった。末期には、1月(Ianuarius)が秋に来る異常事態となった。このため、当時の執政官ガイウス・ユリウス・カエサルは抜本的な改暦を決意し、紀元前46年の暦に、閏月を都合3回合計90日挿入した上で、翌紀元前45年のIanuariusのKalendaeより1年を365.25日とする太陽暦に移行させ、閏月挿入に伴う暦法上の混乱を収束させた。これがユリウス暦である。

紀元前45年にカエサルがこの暦法を導入した際に閏年は4年に1回と決められたが、直後の紀元前44年にカエサルが暗殺された後、誤って3年に1回ずつ閏日が挿入された。この誤りを修正するため、ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前6年から紀元後7年までの13年間にわたって、3回分(紀元前5年、紀元前1年、紀元4年)の閏年を停止した。紀元8年からは正しく4年ごとに閏日を挿入している。 紀元9年以降 紀元9年以降は以下のとおり運用されている。平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する。各月の長さは1月から現在のとおり。

ヨハネス・ド・サクロボスコ説
13世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコによれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1か月おきに大の月と小の月がくるようになっていた。サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである。
皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた。
8月の日数を増やしたのは、アウグストゥスが、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる。この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた。
現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており、サクロボスコの解釈は誤りとされる。ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月・5月・7月・10月はもともと大の月で固定されていた。

ユリウス暦でも月の名前はローマ暦のものを踏襲した。紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名に因んで Julius ( Iulius ) と呼ぶようになり、彼を継いだアウグストゥスが閏年の扱いを修正した際に、その名に因んで8月は Augustus となった。その名称は語形変化を被りながらも現代でも英語・フランス語などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。

3、グレゴリオ暦

は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日 = 365.2425日(365日5時間49分12秒)とすることである。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の365.242189572日(2013年年央値)に比べて約26.821秒長いだけであり、ユリウス暦に比べると格段に精度が向上した。
 日本では1872年(ほぼ明治5年に当たる)に採用され、明治5年12月2日(旧暦)の翌日を、明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。
制定に至る背景 グレゴリオ暦の前は、ユリウス暦が採用されていた。
ユリウス暦日と実際の太陽年から得られる暦日とのずれは毎年蓄積される。この問題は、ユリウス暦を用いるローマ帝国領にキリスト教が広まると、思わぬ形で表面化することになっていく。 新約聖書において、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、ユリウス暦ではなく太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されており、イエスの処刑日は、ユダヤ教の過越しの日の前日すなわちニサン月14日または過越祭第一日目の同月15日とある。このユダヤ暦ニサン月は春分の頃に来る太陰月であり、メソポタミア文明の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。このような状況において、ローマ帝国領に住むキリスト教徒としては、その最大の祝祭日の一つである復活祭をどの期日に祝うのかが問題となった。
  この点につき、初期の教会ではさまざまな方法が採用されていた。聖書の記述通りに、ユダヤ暦をそのまま持ち込んでニサン月15日に祝う教会もあった。しかしこの日は基本的に月齢で決まるので曜日は一定しない。そのため曜日の問題を重視して、ニサン月14日の満月の日の直後の日曜日を復活日とする教会もあった。他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元、コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算し、春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とする方法を採用した。
 季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるからである。この方法をコンプトゥスという。 この方法を実行するためには、メトン周期の知識を理解し、季節と月齢を揃えるための太陽暦上の基準日を定めればよい。幸いなことにユリウス暦は太陽暦である。そしてユダヤ暦ニサン月は春分の頃に訪れる太陰月である。当然、基準日は春分ということになる。太陽暦であるユリウス暦では、春分日は毎年ほぼ同じ日になるはずである。この点、ローマ帝国ではカエサルによるユリウス暦施行間もない頃から、春分日をユリウス暦3月25日とする考え方が広まっており、聖書のユダヤ暦の記述を無視してユリウス暦の同日に復活祭を祝ってしまう教会もあった。しかしすでに4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日ごろとなっており、アレキサンドリア教会はこの事実を正確に把握していた。そこで、第一次ニケーア公会議では、ユリウス暦の期日を太陽暦上の準拠日としつつ、アレキサンドリア教会によって用いられてきた擬似的な太陰太陽暦の作成手法を用いて、春分日であるユリウス暦3月21日直後の太陰月14日の直後の日曜日を以て、復活祭期日とすることとした。 このような経緯で決められた復活祭日であったが、このように「キリスト教上の春分日」をユリウス暦上に固定してしまった以上、実際の天文学的春分日とユリウス暦上に定められた春分日すなわち3月21日との差は、年を追うごとに蓄積されていき、これが直ちに復活祭の期日の不正確さに直結することとなった。ユリウス暦のほうが太陽年より長いため、ユリウス暦3月21日は天文学的春分日より1日単位で徐々に遅れていく。ところが復活祭の期日は太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められたため、差異が1太陰月(朔望月)分に増幅されてしまい、復活祭がまるまる1か月遅れるケースが徐々に増えていく。イングランドの教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、またさらにこのずれは今後拡大するだろう、と指摘している。さらに問題だったのは、メトン周期の側も、わずかに朔望月(太陰月)とずれていることで、このため310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。 16世紀後半には、上述のようにユリウス暦上で定めた3月21日の春分日は、実際の春分日から10日間弱ものずれが生じていた。このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。

改暦委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を、曜日を連続させながら、グレゴリオ暦1582年10月15日金曜日とすることを定め、その通りに実施された。

4、ユリウス通日

は1583年にスカリゲル(ジョゼフ=ジュスト・スカリジェ)(1540年-1609年)によって考案された。スカリゲルは1582年のグレゴリオ暦改暦によって年代学における日付けの計算が煩雑かつ混乱してしまうことを予想して、ユリウス暦、グレゴリオ暦双方での日付の換算や日数計算の便のためにこれを考案した。 スカリゲルが基準にした紀元前4713年は、以下の3つの周期の第1年目が重なる年であった。
太陽章(28年) - 日付と七曜が揃う周期
太陰章(メトン周期)(19年) - 月相(月の満ち欠け)と日付が揃う周期
インディクティオ(15年) - ローマ帝国での徴税額の査定更正周期
以上の3つの周期が揃うには7980年 (=28×19×15)を要する。これをユリウス周期という。ただし、ユリウス通日そのものは永遠に続く値であって周期性があるわけではないので、「周期」の意味はもはやなくなっている。 その後、天文学者ジョン・ハーシェルが1849年の著書Outlines of Astronomyで日数や時間の計算にユリウス通日を利用する方法を考案した。これが広まり、世界中の天文学者が日数計算にユリウス通日を用いるようになった。

ユリウス通日はユリウス暦紀元前4713年1月1日(先発グレゴリオ暦では紀元前4714年11月24日、西暦 -4713年11月24日)の正午(世界時)を元期(=0日目)とし、日の単位で数える。ユリウス通日は天文時の伝統に従い、日の起点は正午である。したがって、世界時の正午に日数(の整数部分)が増加する。 ユリウス通日は二時点の間の日数や秒数を計算するのに便利で、天文学や年代学などで使われている。小数を付けることにより時・分・秒数(と更に、その小数)を表現することができる。

5、修正ユリウス日(Modified Julian Date:MJD)

は、ユリウス通日から2 400 000.5を差し引いたものである。ユリウス通日の2 400 000.5 は、1858年11月17日正子UT に当たるので、この時点を元期としていることになる。ユリウス通日とは異なり、世界時の正子に日数が増加する。 例えば、協定世界時(UTC)での2022年7月2日14:32の MJD は、おおむね59762.61 である。 修正ユリウス日が導入された理由 ユリウス通日では桁が多すぎて不便な場合に、MJDが使われる。元々は、整数部の桁数を5桁に収めるように、スミソニアン天体物理観測所(SAO)の宇宙科学者が1957年に考案したものである。これはソ連のスプートニクの軌道を追跡するために用いられたIBM 704コンピュータの記憶容量が小さく、桁数を少なくする必要があったためである。 ユリウス通日の値は19世紀後半(1858年11月17日)から22世紀前半(2132年8月31日)までは、2 400 000台の数値であり、現代における利用には整数部が5桁のMJDで十分に実用的と考えられた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?