『髪棚の三冊』vol.8「カワイイ」の冒険・「カッコイイ」の花園

「カワイイ」の正体


 日本発の「カワイイ」という感覚がワールドワイドに浸透して行ったのは、ちょうど「平成」の歴史とシンクロしています。
 そもそも「カワイイ」が欧州でブレイクするキッカケとなったのは、どうやらアニメ『美少女戦士セーラームーン』のTV放映だったようです。1994年、ちょうどイタリアのボローニャに映画史の研究のため滞在していた四方田犬彦さんは、ある日突然田舎駅のポスターがセーラー服の金髪少女に張り替えられ、その後イタリア中が月野うさぎちゃんに席巻されて行ったことに衝撃を受けたと書いています。
 「歴史は繰り返す」と言うように、「カワイイ」の流行は、かつて幕末日本がパリ万博(1867年)に浮世絵を出品し、ジャポニズムのブームを巻き起こして印象派への流れを導いたことと相似しているようにも見えます。

『美少女戦士セーラームーン』武内直子/講談社(1992年〜)
■守護星である太陽系惑星の力を持った少女が地球を守る戦士となって戦うファンタジーアニメ。主人公の月野うさぎは、愛と正義の星・月を守護に持ち、月の光を操る神秘の戦士セーラームーンに変身する。戦闘服はセーラー服とフリルレオタードを合体させたようなデザイン。

『Eye Love Superflat Black』村上隆(2003年)
■伝統的なモノグラム柄にアニメチックなモチーフが導入され、現在に至るマルチカラーの賑やかなパターンの先駆けとなった。「キッチュ」の感覚が美意識としてメインストリームに受容された瞬間と言えるだろう。

 ところで今日の私たちにとって「カワイイ」という言葉は、ありふれた、もはや万能のプラスチックワードとも化していて、これを辞書的に定義するのはちょっと難しそうです。
 小さなもの。どこかノスタルジックでもあり、母性本能をくすぐられるもの。フラジャイルで儚げなもの。ロマンティックで夢想的な世界への扉を開くもの。見ているだけで「萌え」を誘うもの。凡庸かもしれないけれど無害で、でもちょっと謎なもの。だいたいこんな感じでしょうか。
 英語の「cute」や「pretty」が、もともと「鋭い」というニュアンスから「利口な」→「巧みな」→「立派な」→「心地よい」→「かわいい」と意味がズレていったことと較べると、やっぱりちょっと日本語の「カワイイ」は出自の違いを感じます。

 仮にひとつの確立した美意識として「カワイイ」を捉えるとしたら、対概念として「美しい」を想定すると、イメージの輪郭が鮮明になってきそうです。
 「美しい」ということが西洋の一神教的な完全無欠さを想起させる一方で、「カワイイ」には、どこか不完全で何かしらの欠落を孕んでいるように感じませんでしょうか。このことに私は、日本的美意識の秘密が宿されているように思えてなりません。


幻想の父性・重力の母性

 「古き良き時代」への懐古趣味はいつの世も一定の共感を誘うものですが、昭和の終わり頃、家庭内暴力や校内暴力の頻発から「父権復興」の声が高まる風潮のなかで、臨床心理学者の河合隼雄さんは現代日本には帰るべき「父性」は存在しないと喝破し、憂えていました。
 このことには2つの側面があります。
 一つは「父権復興」を望む側のメンタリティについてです。弱い若者を強い「父」によって鍛えてもらおうとする意識は、他者へ依存する母性的な発想だと言うのですね。
 二つめは、こちらは非常に根深い問題なのですが、そもそも日本は「統合」によらず「均衡」の上に築かれた中空構造の社会であるから、日本的な父性とは「ロールとしての父」を演じているに過ぎないということなのです。
 つまり、本来の日本は対立や矛盾を排除せず異質なものをも抱き参らせてバランスを図ってきた筈だけれど、明治以降のグローバリズムのなかで、合理思考にもとづいた個人主義的な西洋的父性に対抗しようとするあまり、持ち前のユニークな心性を見失ったまま迷走するばかりではないか、と問題提起したワケなのです。
 河合さんは、父性の弱さを反省したり教育の甘さを批判する前に、まずは「個々人が自分の状態を明確に意識化する努力を積み上げるべきであろう」と説いています。

■日本神話を画期する3組の三神は、いずれも中心に「無為の神」を持つ。何かを中心におきながら中心の空性を守る構造は、日本的心性を象徴するだろう。アメノミナカヌシ、ツクヨミ、ホスセリについては存在が示されるだけで一切の具体的記述が見られない。
■また男性原理と女性原理の観点からも、一方的にどちらかが他方の優位に立つことはなく、必ず他方を潜在的な形で内包している点にも注目しておきたい。

 実はこうした日本文化に通底する心性が戦後アニメーションに世界観として表出されていることを、平成の論客宇野常寛さんは『母性のディストピア』(集英社)で詳らかに解き明かしています。
 河合さんの提言と重ねて言えば、私たちが現代資本主義社会を生きるということは西洋的な意味での「父」として機能することに他ならず、そのコストとして、「父」を無条件に承認し献身するような「母」的存在が求められている。この父性と母性の共依存関係こそが戦後的文化空間の正体である、という現状分析なのです。
 ふーむ、なるほど。平成が生んだ「草食男子」って、自身の中空を自覚して「父」へと成熟することを辞退する生き様なのかも知れませんね。そう考えると、自らの欠落を積極的に受容する態度は勇気ある選択にも見えてきますが、宮崎駿はこの父性のファンタジーを肯定的に「きれいな嘘」として描き、富野由悠季は母性の重力圏によって呪縛される「ディストピア」として描いたということです。

『天空の城ラピュタ』スタジオジブリ(1986年)
■ラピュタ王家の血を引くシータは「守られるべき少女」として描かれているヒロインであり、守られることによって天涯孤独の少年パズーの生に意味を与える。
■パズーは冒険の途中で女海賊ドーラの助けを受けるのだが、物語のなかでパズーは、ドーラとシータ2人の「母性」のうちいずれかの庇護の下でしか空を飛ぶことが出来ない。

『機動戦士ガンダム』日本サンライズ(1979年〜)
■いわゆるロボットものアニメであるが、人間の身体性を拡張する「モビルスーツ」という装置としてロボットが再定義されており、操作技術の「成熟」より操作能力の「覚醒」が重要な価値として描かれた。この能力を宿す者は「ニュータイプ」と呼ばれる。
■ララァはニュータイプの可能性を象徴するヒロインだが、物語の終盤で主人公シャアを庇って戦死する。そもそも「成熟」を必要としない存在のシャアであったが、それゆえに「母性」の喪失は絶望と直結した。


「平成少女」の自立と冒険

 他方その頃女子たちは女子たちで、女子ならではの小賢しさを発揮しながら伝統的規範の抑圧から抜け出そうとハジけまくってきたのです。
 平成女子が「美しい」ではなく「カワイイ」を競ったのは、まさに日本的心性が発動したからこその知恵だったのではないかと私は思います。何故なら「美しい」には絶対的な尺度があってヒエラルキーを伴いますが、「カワイイ」には多様なモノサシが存在しますから、いくら「私が一番カワイイ」と主張したところで個性を誇示する以上の罪を生むことはないのです。いわば「カワイイ」は多神教ならではの美意識なのでしょう。
 もちろんB級感の香る「カワイイ」の横行を批難する者もあって、社会学者の上野千鶴子さんなどは「女が生存戦略のために、ずっと採用してきた媚態」であると一刀両断しているようですが、弱者ならではの雑草魂と思えば、なかなか強かでラヴ&ピースな生命感溢るるデザイン表現ではないかと私は感じます。

『Olive』1982年創刊(マガジンハウス)
キャッチコピー「Magazine for City Girls」
■大人社会の規範とは隔絶した世界観を全面に表出させ、少女趣味的かつ個人主義的感覚で好き嫌いを選別し、ごちゃ混ぜ風の過剰な装飾によって、他者とは違う「個」の世界を表現することを主張した。
■何でもないものを自分の工夫やアイデアでカスタムし毎日を楽しくしようとする生き方は、「カワイイモード」の源泉となった。

『CUTiE』1989年創刊(宝島社)
キャッチコピー「for INDEPENDENT GIRLS」
■「ブスでもなんでもその子が楽しいファッションをしたらいいじゃん」という編集方針の下、表紙やグラビアに「媚び」を感じさせる笑顔はなく、ストリート系のサブカルチャーファッションが日本の女の子向けにアレンジされて紹介され、制度化された価値観や美的規範からは逸脱とみなされるスタイリングが志向された。
■「パンク」からは怒りや醜さ、「ゴス」からは不機嫌や不健康、「インディーズ」からは貧乏や退行の表現が抽出描写され、「ブスかわいい」という語が生まれた。

『Cawaii!』1995年創刊(主婦の友社)
コンセプト「トロピカル・パラダイス・フェスティバル」
■空前の高校生ブームの中で、「自分に価値がある」ことを自覚していた当時の高校生たちが「毎日を祭りのように楽しんでいた」ことに由来する。
■郊外に住む女子高生をターゲットに、従来のティーン向け雑誌で打ち出されていた「裕福さ」「上品さ」といった既成の価値観や「ブランド私立高」への憧れよりも、等身大のリアルな親近感による誌面づくりの有効性が確証された。

『S Cawaii!』2000年創刊(主婦の友社)
コンセプト「ツヨメでチャラくてオラオラで」
■『Cawaii!』の広告収入が伸び悩んだため渋谷109と提携し、ギャル系ショップのカリスマ店員がフィーチャーされた。「S」は「Super」「Sexy」「Special」「卒GAL」「Strong」を象徴し、シングルマザー特集など、世間体を気にしない家族観やライフスタイルが提案された。
■「ツヨメ」は社会的逸脱、「チャラい」は性的逸脱、「オラオラ」は道徳的逸脱を表象し、ギャルの威信は「ツヨメでチャラい過去」を持ちつつも早く上がって落ち着き、伝統的価値意識へ回帰する生き様によって強化されて行く。

 さて、かつて欧州をインスパイアさせた古き良き日本は、明治維新を境に富国強兵へ舵を切って我が身の中空を埋めることに躍起になりました。そして安室奈美恵の去った平成日本は、ツヨメでチャラいギャルたちが「自分磨き」に威信を求めようとしています。
 はたして日本的心性は、平成を超えて中空構造を保ったまま成熟へ向かうことができるでしょうか。「カワイイ」の動向とともに目が離せません。



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