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神戸と私〜そして音楽と食文化③〜

なぜ私が音楽を始めるようになったか?

前回も書きましたが、父と母の影響が大きかったのですが
一番は母、そして兄だったかも知れません。

母は自分の子供を音楽家に育てたいと、まずは兄にピアノを習わせていました。
そのうちに私もピアノを習うようになったのですが、兄は音楽性がありピアノの先生からも音大に行くように勧められるほどの腕前でした。

私はというと、ピアノの練習が嫌いでなかなか上手くならず、毎週先生が家にレッスンに来てくださる時間になると隠れてしまう子で、兄のついでにレッスンを受けてるだけで自分が音楽家になるなんて夢にも思っていない幼少期でした。
きっと兄のレッスンの為に先生が来てくださらなかったらピアノは続いてなかったでしょう。

そんな私も小学生の頃「赤い激流」というテレビドラマでピアニスト役の水谷豊さんが熱くピアノの練習をしているのを見て、私も練習するようになったのです。

そして中学校に入学。公立の中学校でしたが合唱部は何度もNHKのコンクールで全国優勝するくらいの中学校でした。
でも私は当時バレーボールに興味を持ち、毎日学校から帰るとお友達と集まって近くの公園でバレーボールの練習をしていたので、もちろん中学校に入学したらバレーボール部に入るつもりだったのです。

それが・・・
中学の入学式、私たち新一年生は合唱部の歌声で迎えられ式場である講堂に入場しました。今でも覚えています!團伊玖磨さん作曲の合唱組曲「筑後川」から〈みなかみ〉が混声合唱で流れてきて衝撃を受けるくらい感動したのです。
入学式を終えて帰宅した私は母に「私、合唱部にはいる!」と宣言しました。
実は、母は合唱部に入って欲しかったのです。とても喜んだのを覚えています。

私が中学1年生の時の合唱部は先輩方が素晴らしくNHKのコンクールでは近畿大会優勝、そして全国大会出場となった年でした。だから入学式での演奏が素晴らしかったのです。
そして後々、私が進んだ大学やオペラの団体で巡り会うことにもなるくらい音大、芸大に進む方が多かったのです。本当に良い声を持った先輩が多かったのだと思います。

そんな先輩方が築いてきた合唱部ですからコンクールはもちろん、いろいろなイベントに招かれ演奏する機会も多くありました。
そして思い出に残っているのはオーストラリアへの演奏旅行。オーストラリアで行われる青少年音楽祭の招待されての演奏旅行でしたが公立の中学校で海外へというのは教育委員会から反対を受け、OB・OGを交えての地域の合唱団を結成しての演奏旅行でした。
その時のご縁は今でも続き先輩方との交流が続いています。

そんなこんなで私の中学時代は合唱に燃える日々となったのです。
それでも、まさか私が声楽の道に進むとは中学3年生の夏までは思ってもいませんでした。

中学3年生の夏、ある日突然、私の人生に関わることが起きたのです!
長くなるので、また次回!

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