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私、ミキオ先輩の総理大臣に就任しました Vol.3「対話はファンタジーか」

 自分がからっぽになったみたいな朝だった。落ちるところにまで落ちたら、人間はがらんどうになる。頬の痛みすら、「これは私の頬の痛みであって私の痛みではない」と分離することができる。あらゆることが他人事だった。手の甲がまだずきずきと痛んでいた。
 母にさんざんぶたれた後、怪物は私に近づき、今後二度と同じようなことをしないように印をつけておかなくては、と言った。そして、ペーパーナイフで私の手の甲をぐさりと刺した。ペーパーナイフは血管と血管のあいだをすり抜け、掌に貫通した。
──次はこれだけじゃ済まないよ、かなちゃん。
 怪物はニタリと笑って、私の髪をかき上げた。声を上げないでいようと思ったのに、あまりの痛みに私は嗚咽を洩らし、唸り声をあげ、のた打ち回った。怪物はそんな私の姿を見てたいそう喜んでいた。
──もっと叫んでいいんだよ。痛いだろ? 痛いときに我慢なんかしちゃダメだ。
 私は下唇を噛みしめ、それ以上の声を上げまいと思った。すると怪物が私の腹部を蹴飛ばし、さらに突き刺さったペーパーナイフを抜き取った。
 私は上げたくもない悲鳴をまた上げることになった。怪物は私の手の甲を踏みつけた。
──ほらごめんなさいはどうした? もうしませんと言ってごらんよぉ、かなちゃーん。僕はただかなちゃんがお利口さんになったところが見たいだけなんだよぉ?
 誰が謝るものか。意識を失いかけると水を頭からかけられた。その繰り返し。三度ほどそれが続いたところで、母親が「そのくらいにしてあげて」とようやく声をかけた。怪物は今度は母の仲裁が気に入らなかったらしく、母親に暴力を振るい始めた。
 私はその隙を逃さずに、スマホと財布と学校の鞄だけ持って外へ出た。行くあてなどない。私はそのまま近所のファミレスで夜を明かした。
 六時を過ぎると、空いていたファミレスもまた混み始めた。今日はもうこのまま学校も休もうか、と考えてはたと気がつく。今日は土曜日。学校はもともと休みではないか。家を出て本当によかった。
 しかし、この週末をどう乗り切ろう? もうあの家には戻れない。
 そう思いながら、頬杖をついてうつらうつらしていると、「相席よろしいですか、総理」との声。私のことを「総理」などと呼ぶのは、今のところ、というか今後もたぶんこの人しかいないであろう。ミキオ先輩は、美麗な花柄のシャツに細身の黒革のパンツというスタイルで、制服姿より数段色気が増していた。
 寝ぼけた顔を見られて恥ずかしくて私は思わず頬を赤らめてしまった。しかしその顔の温度をさらに上昇させる出来事が起こる。ミキオ先輩が私の頬に触れたのだ。
「ひどくやられたようですね……その手も……待っていてください」
 ミキオ先輩は頬から手を離すと、鞄から何やらケースを取り出した。救急セットらしい。掌と手の甲の両方に消毒を施し、包帯をぐるぐると巻きつける。
「ペーパーナイフはよからぬ方向に事態を招いてしまったようですね。私のせいです。総理、申し訳ありません」
「先輩のせいじゃありません。私のやり方がまずかったんです。でも、もう正直どうすればいいのかわからないんです。武器をもつのに向かない人間というのもいると思うんでうよね」
「わかります。それは国家も同じですね。敵がいて、仮に敵のほうが一方的に悪いのだとしても、それでも武装化が向かない国というのはあるものです。とりわけ、一度大戦で大敗を喫したような国は、精神構造自体に武装化に向かない根源的欠陥があるような気がします。しかし、そういったことに無自覚なまま無常にもまた武装化へと向かい、それを囃し立てる。どこの国とは言いませんけれど」
「本条仮名子国はどうでしょう? これからどうしたらいいんでしょうか」
 不思議だった。今まで自分から認めたことのない本条仮名子国を、今はすでにあるものと仮定して話している自分がいた。
「それは総理のお決めになることです。防衛軍を持つもよし、それを軍隊と呼ぶもよし。すべての決定権は総理にあります。この国はまだとても小さく、野党も反対者もいません。好きなようにカスタマイズできるのが魅力です」
「……仮に、防衛軍を持ったらどうなりますか?」
「もつだけではダメですね。それは力の持ち腐れと言います。出動命令を出していただかなくては」
「出動命令を出したら、どうなるんですか?」
 ミキオ先輩は私の手をそっと包み込んだ。
「少なくとも、こんな目には遭わせません」
 私は初めてミキオ先輩の目を真正面から見据えた。一点の曇りもない、澄んだ瞳。その瞳は狂気と紙一重のようでもある。私が殺せと言えば、この人は人殺しでも平気で請け負ってしまうのではないか、そんな危うさがあった。
「私が何も望まないと言ったら?」
「僕は官僚として、国家の安全を守る義務があります。総理が何も望まないとしたら、総理が『したくない』こと以外のすべてを提案し、動くことでしょう」
「総理の面子がつぶれますね」
 そんなものは私にはないのに、言ってしまった。
「では指示を。防衛軍を持ちますね?」
「……いえ、持ちません」
「持たない? それで、どうされるおつもりですか?」
「武装する以外に、ほかに方法はないんでしょうか?」
「話し合いという、古典的であり、ときには有効な方法もあります」
「話し合い……」
「対話、コミュニケーション、ですね」
 怪物を相手にどんな対話が可能なのだろう、と考えた。それはあまりにフィクションじみている。これはファンタジーだ。現実感がない。
 そう思って私は笑った。
「笑いましたね? つまり総理はこうお考えになられたのです。『あんな怪物と対話などありえない。武装化するほうがよほど現実的だ』と」
「……」
 言葉に詰まる。私はいま、対話という平和的方法をみずから放棄して、武装化にこそリアリティを感じたというのか……。何よりも自分の思考が恐ろしかった。
 そうか、こうやって人は戦争が、あたかも理に叶った行動だと思い込んでしまうのか。
 でも、どうなのだろう? 実際、怪物を相手に、武装化するのと、対話を行なうのと、本当のところはどっちが現実的であり、どっちが正しいことなのだろう?
「なぜコミュニケーションの力を信じないのです?」
 ミキオ先輩は一度席を立ち、ドリンクバーでコーヒーを注いで戻ってくると、真顔で尋ねた。
「それは……あんな奴、理性の欠片もないし……言葉なんか……」
 昨夜の傷が、またずきずきと痛む。あんな奴と冷静に言葉なんか交わせるわけがないのだ。
「言葉の力には限界がある、と総理はお考えなのですね?」
「だってあいつは本当に怪物だから……」
「つまり、言葉には怪物を封じる力はない、と」
「……あるんですか? 言葉にそんな力があると?」
「知りません。やったことがないので。やってみましょうか?」
「ミキオ先輩が?」
「直接対決ですね。ディベートにはまあまあ自信はあるんですが、相手がそもそも理屈で攻めてこないとなると、どこをどう攻めればいいのか、ちょっと作戦を立てる必要がありそうですね。今から、ご自宅へ向かいましょう」
「嫌です……」
「大丈夫です。総理は電柱の物陰から見ていてください」
「……本当にやるんですか? うまくいくんでしょうか?」
「わからないと言っているじゃないですか」
 ミキオ先輩はにこやかに笑った。

 会計を済ませた後、私たちは自宅へ向かった。何だかこんな早朝にミキオ先輩と並んで歩いているところを同級生に見られたりしたら朝帰りだと思われそうで嫌だなと思ったけれど、ミキオ先輩はまるで気にしている様子がない。
 三分と歩かぬうちにマンションの前に着いた。
 ミキオ先輩は私を電柱の陰に潜ませると、「いいですね、何があっても声を上げないように」と言った。私は小さく頷いた。
 ミキオ先輩がインターホンを押す。
 やがて──ゆっくりとドアが開き、不機嫌そのものの怪物が姿を現した。

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