私、ミキオ先輩の総理大臣に就任しました Vol.5「取引は成立したか」

 フォークでペペロンチーノを巻く間、私はぎゅっと口を閉じ、鼻呼吸もしないように注意した。
 怪物のいる場所では、なるべく呼吸をしたくなかった。
   たとえば、今夜みたいに居間で食事を三人でしなければならない時はなるべく下を向き、食べ物が口に入る瞬間以外は口を開けないように気をつけた。
 いつだって怪物は私を見ていた。私がいる時は、もれなく私を見ていた。私の髪の先から足の先まで、いまにも飛び出しそうな大きな目で1ミリも見逃すまいとするかのように眺めていた。
「おいしいかぁい、かなちゃん」
 私は答えなかった。何を言われても、答えてなるものかと固く誓いを立てていたし、それはミキオ先輩が奇妙な「取引」を交わした後だって変わりはなかった。ミキオ先輩は私に言った。
 ──ご安心ください。取引が守られないときの経済制裁は大きな圧力になります。
──もしもそれが通じなければ?
 ──次の手を用意するまでです。
 けれど、次の手を用意するまでに私の命がもたなかったらどうするのだろう? その時は、それこそ本条仮名子国家は崩壊を迎えることになる。
ミキオ先輩は、今の状態が本当に平和を維持すると考えているのだろうか。
「返事くらいしたらどうなの? 仮名子」
 母が疲れ切った表情のない声で言った。
 本当にそう思っているわけではない。怪物の機嫌をとっているだけ。いや、機嫌をとっているというより、できるだけ面倒を避けたいだけなのだ。母は、怪物から暴力を振るわれることにすっかり疲れている。それなのに、彼女は今も怪物と暮らしている。私にとてつもない犠牲を強いて平気でいる。
「ほらほら、お母さんを困らせないんだよ、かなちゃん」
 怪物が母の言葉に乗っかる。
 それでも私は怪物を無視し続ける。金をもらってるのだから、それ以上のものが得られるとは思わないでね。暗にそう伝えるためだ。
 入金はミキオ先輩が勝手にしていること。とは言え、それは私に指一本触れないことが条件なのだ。だったら、こちらがどんな態度をとろうと、その姿勢は守ってもらわねば困る。
「ごちそうさま」
 私は半分ほどパスタを食べると、残りを持って台所へ向かい、ラップをかけて冷蔵庫にしまった。それから、部屋へ引き上げようとした。居間から自室までは目と鼻の先。ドアには鍵さえもかからない。プライベートも何もありはしないのだ。
 自室のドアに手をかけた時だった。背後から肩に手がかかった。母の手ではない。ごわごわとした、あの怪物の手。
 私は振り向かずに尋ねた。
「もらえなくていいの? 五十万」
 調子に乗った言い方をしたわけではない。ただ、計量カップで計るように、静かに相手のした行為の意味を言語化しただけ。怪物が怪物なのは、あらゆる言動が、論理的思考と結びついていないことと関連している。私は少なくとも、そう信じている。
 実際、その手はすうっと離れた。言語の首輪を嵌めることに成功した──はずだった。が、次の瞬間、目の前が真っ暗になった。何か、布のようなものが私の顔全体を覆っていた。
「タオルでかぶせちゃったらさぁ、俺は触れたことにならないよねぇ。俺頭よくない? かなちゃん。どう思う? なあかなちゃん、かなちゃん、かなちゃああああん」
 怪物は私の名を呼びながら何度もタオルの上から私を殴打した。鼻から血が出て感覚がなくなり、歯が二、三本折れる音がした。それでも怪物は止まらなかった。
 怪物は何度も「ほんじょうかなこ国家ここに崩壊! ばんざーい! でも約束は守ってるよね。指一本触れてない。あのバカな男に伝えなよ。約束は守られているよ。五十万を寄越さないときには、街の外れの廃工場に逃げ込んだって必ず振り込ませる」
 そんなことさせない……そう思うけれど、もう私には何の思考力もなくなっていた。助けて、ミキオ先輩……。でも、ミキオ先輩は来ない。あの取引で万事うまくいっていると思っているから。
 頭の芯が麻痺してくる。自分の体じゃないみたい。右から殴られ、上から踏まれ、お腹も数発蹴られた。最後の一撃で、私はたぶん何かを吐いた気がする。さっきのパスタかも知れない。どうでもいい。自分を臭いと感じることもない。血の匂いしか感じない。やがて、痛みが遠のく感覚とともに、完全に意識が途切れた。

 目が覚めた。明け方の四時だった。ベッドの脇に母がいて表情のない目で私を見ていた。
「何もされなかったって……あの男の人にはそう言うのよ」
 すがるような眼差しだった。
 「あの男」とはミキオ先輩のことか。
 母は五十万に目がくらんだらしい。そんなことを言うために、私が目を覚ますまでここにいたのか。
 母もまた顔から血を流していた。私が倒れた後で、母も暴力を振るわれたわけだ。こんな暮らし、あと三年も続けていたら、きっと身体がもたなくなって死んでしまうだろう。
「ねえ、家、出ようよ」
 私は母に言った。絶対に怪物には聴こえないような小さな声で。しゃべると、口が痛み、歯の欠けた部分から隙間風が入り込む。鼻の痛みも相当だ。
 母だってこんな家にいたいはずがない。私はそう思っていた。ところが、母は首を横に振った。
「わかってもらえるわ。あなたにもいつか。あの人の良さが」
 わかるかよ。怪物の良さなんか理解できるわけがない。この人は何を寝ぼけたことを言っているのだろう。
 でも、私はそれ以上は何も言い返さなかった。
「ファミレス……行ってくる……」
「ダメよ、何時だと思ってるの?」
 母が私の身体にまとわりつこうとした。私は彼女を激しく突き飛ばした。
「さわるな……」
 母は驚いていたが、騒ぎ立てはしなかった。たぶん、まだ切れている唇からだらだら血が流れていて狂気じみて見えたせいだろう。
 それから、身支度を整えた。
 居間のほうから怪物のいびきが聴こえる。
 ここを出るなら、今しかない。
 学校の鞄をもつと、私は家を出た。
 空は少しずつ青くなりはじめていたが、まだ月が残っていて、私の潰れた鼻やみにくく欠けた歯を照らしていた。
 そして、目からしぜんとあふれ出る雫も。
 どうしたらいいのだろう。
 ミキオ先輩。
 あの取引は破棄されました。
 次の一手が必要です。ミキオ先輩……。
 私はミキオ先輩の名を口ずさみながら、ファミレスへと歩き出した。
 

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