善意の人

【善意の人】

というのは、自分の正義感がまずあって、その「べき」に基づいて他人に働きかける人のことです。

その正義感は、自己満足とか自己陶酔とかが多くなりがちで、相手は自分の正義感に従えば嬉しいはずという、多分本人も気付かない思い込み。

だから、「◯◯してあげたのに」とか「恩知らず」とか思ったり言ったりしがち。

善意の人は、人をほっといてくれない、という特徴もあります。

ただ、そういう善意の人からの干渉を望むタイプの人も世の中には多く存在するので、まあ需要と供給のバランスは取れているのかもしれないな、とは思います。

私はどちらかと言うとほっといてほしいです。

【善なる人】

というのは、厚意にイデオロギーを絡めない人です。見返りを求めない。


↓これ、ダイバーシティのページにも貼ったのですが、善意に関連しているので、ここにも貼ります。
(2019年2月26日)
息子がプリスクール(3才)の時に先生が子供達に教えていたことが印象的だったので書きます。

「誰かが、やめてと言ったらやめること。」

これ、日本だと

「自分がされて嫌なことは人にもしない。」

というふうによく言われると思います。

このふたつ、似ているけど全然違うものですよね。

前者は、相手の言うこと(好き嫌いとか意見)を尊重して自分の行為を改める、ケースバイケースの対応で、後者は自分の感覚から相手のことを想像して行動するので、良かれと思ってやっても相手は考え方が違うかもしれない。

『自分がされて嫌なこと』の共通認識があるという前提で子供にそう教える、というのは、多種多様な考え方のある移民の国では通用しないのかもしれませんね。

集団生活において一番最初に教える対応の仕方の違いが、アメリカと日本の(一般的な)国民性のようなものを象徴しているようでへえ〜と思いました。

あと、コミュニケーションの取り方の違いもあらわれていますね。ある意味、他人同士なので『言わなきゃわからない』とお互いの考え方を確認し合う双方向的なもの(前者)と、『そっと察する』一方的なもの(後者)。



(2019年6月7日)
アメリカが開国以来戦争をしていないのがたったの21年間だという記事について触れましたが、藤原直哉さんと高嶋康豪さんの対談で「アメリカという国は敵が出来るとまとまる」と話されていまして。

なるほどそうなんですよね。国外に敵を作って国がまとまる。

面白いのは、この構図はあらゆるレベルでふんだんに活用されているのですよ、この国は。

自分の属するグループ(家族も)を手っ取り早くまとめるために外に問題を見つける。

対立構造で相手方を理路整然と非難したり争うことって、ある意味気持ちいいんですよ。一度そういう快感を知ったらやみつきになって次から次へと新たな活動に首を突っ込む人もいます。

弱者の味方をする活動グループもそうです。親切にしたい誰かの役に立ちたいという欲も満たされるので、これも中毒性がかなり高いと思います。

とにかくこの国は人種、性差、中絶、ワクチン、その他陰謀論などに関するありとあらゆる活動がありまして、疑いの目で見るならば、ベトナム戦争辺りからもうよその国との不毛な戦争が嫌だという人が多くなったので、もしかすると国内の人間同士で争わせて忙しくさせることで統治しやすくするってのもあるかもしれません。だって色んな活動があるけど何年経っても進展しないし。というか対立構造が好きな人や"善意の人"は、それを永遠に終わらせたくないからなのか。


(2019年11月23日)
ざっくりメモ。

善意の人と善なる人の違いは、他人軸か自分軸かの違い。


(2020年4月17日)

まだざっとしか読んでいないけどテドロス氏のスポンサーがちゅうごくというのは割と知られていますね。トランプがWHOに言ってることも、それに関してはそうだよねと思います。

あの方々が今シヴァ神をシンボルとして使ってるのは、セルンとかもそうで、目的はやっぱり破壊と創造でしょう。でもそれを神気取りで人為的に行うのは傲慢。自分はその世界改革には同意しません。(ここで宣言。横目で動向は眺めて巻き込まれないようにしとくとよいかと。)

シヴァ神=スサノオ(かも)ですが、私が先日書いた妄想で感じるエネルギー的なものは彼らの思惑とは全く別な所にあるものです。

それと、表立って動いている人達は大統領などのトップを含め、本気で『世界のために』いいことしているという固い信念を持ってやっている可能性もありますね。(一部は本気の拝金教徒もしくは支配欲。地球の独裁者になりたい🐭のあの人はゴリゴリの野望っぽいですが。)

本気で善だと信じていると、どんな非道でも罪悪感を持つことなく出来てしまう。そこが“正義"の怖いところでありまして。

善だと思い込ませて操っている奥の院の方々が神気取りなのだと思います。

だから、一番用心しないといけないのは、"善意の人"で、それはどこかの誰かの話ではなく、自分も気付かないところで"善意の人"になってたりするので、一人ひとりがしっかりと自分の良心と照らし合わせた思考行為をすることですね。

では善意の正体はというと、分かりやすいのが「人のために」と思ってやっていることは往々にして【偽】(人+為)であって、それは自分が気分良くなるためだったり欲を満たすためのエゴなのかそれとも【無私】であるのか。良心と照らしあわせるというのは、そこをひとつひとつ見極める作業だと思います。

🐭=チュウ(ごく)


(2020年6月21日)
Protesters outside Governor's Residence demand resources for Minneapolis homeless encampments

ミネアポリス市公園理事会は、今朝公園をホームレスの人達の住居として一時的に解放する決定を下しました。

それに関して人々は州知事宅前にテントを張り、ホームレスの人々の住宅をもっと作るように要求しています。

これは北米では特に難しい問題だと思います。

プロテスター達によって焼かれたアパートに住んでいた被害者達に対して、ダウンタウンのシェラトンホテルのオーナーが一時的に住む場所を提供しまして。

そのニュースを読んだ瞬間「あーこれは泥沼になりそう」と思った予感は的中して、救済された人達が「住む権利」を主張し始めたのですよ。

状況は理解できるし気の毒だとは思いますが、ホテルだって永遠に無料で部屋を提供し続けることはできないのも当然で。

人に何かする時は、その時限りという覚悟でやった方がお互いによいと思うのですよ。シェラトンオーナーも、もうこのホテルは被害者に寄付する気持ちで提供したら、こんなことにはならないのに。ダウンタウンの一等地のいいホテルで、それは非現実的ではありますが。

結局は、このオーナーの親切は、最初はとてもありがたいことだったはずなのに今や「住む場所を失った気の毒な人達を追い出そうとする酷いやつ」になってしまったわけで。

ずっと継続してサポートするという覚悟があってそう出来る人は勿論そうすればいいですが、誰か他人の面倒をずっと見続けることって、普通は無理だし、それが義務感や権利という気持ちになる確率は非常に高く、そうなるとお互いに黒い心が生まれてきて不健康ですよね。

北米では、まさかと思うようなことを言ったりしたり"出来る"人が本当に存在するんですよ。

たとえば、ホームレスの人もそれを職業にしている人が存在して("良いキリスト教徒"は人に親切にすることが生きがいみたいな人もいて、ホームレスは結構収入が大きい)、本当に困っているのかそれともフェイクなのか見分けがつかないということもあって、私は積極的にお金をあげたりとかはしません。そういうのが好きな人は意外と沢山いるので、私の役割ではないと割り切っています。

募金もそうですよね。特に今流行りのクラウドファンディングとか、フェイクがあまりにも多すぎるし誰の懐に入るのかも全く分からない。

残念なことに、そういう善意を利用する人が結構いて、そういう人達は依存もかなり強く自分達の権利だけを大声で主張(というかほぼ恫喝)して、それを“助ける"グループ("正義感"が強い"善意の人")も相当数存在するので、多分政府もシェルターなど作っているんでしょうが、悪用されている部分もあって慎重にならざるを得ないんじゃないかと。

カリフォルニアでもそうですよね。

ホームレス用のアパートメントを政府が建てて相当な低価格で売り出した(600万〜700万円程度)ために、ホームレスを偽る人も殺到しちゃったと聞きます。

こんなこと書いて鬼とか悪魔とか思われそうですが、そういう人達が実在するというのは、本当に残念なことに今の北米では現実なのです。

こういうニュースを見ると、一方だけの・・大抵は弱くて同情を買うような・・立場しか見えませんが、その背後にある別の事情も想像すると、ひとつのムーブメントにわーっと群がるようなことは防げるんじゃないかと思います。


(2020年9月5日)
台風銀座と呼ばれる所で生まれ育ったので、最近の台風情報に関しては非常に違和感があります。

そして昨今台風のたびに思うのですが、現地に住んでいる人以外がやたらと危険危険避難して警戒して命を大事にとツイートしたりSNSで警告するのはありがた迷惑以外何物でもないです。

善意の暴走族。

自分は、自分が確認できない場所で災害とかの警告ニュース出てる場所に関しては何も言わないようにしています。分からないから。

今来てる台風に関しては思うことはあっても静観中です。



(2020年10月14日)
善意の人。

誰かを助けてあげたい、楽にしてあげたい、なにかをしてあげたい、というのは、全部自分のためにやっていること。

それもざっくり分けると2種類あって、【誰かのためにやってあげたという自己満足】と、【自分の徳を積ませて頂いたという感謝】。

両者ともされた方にとっては同じだけれども、した方にとっては全く違う。

私が善意の人と呼ぶのは前者です。前者の場合は見返りも求めがち。

誰かによくして差し上げることは、自分がとても気持ちのよいことだから。

後者は、本人に気付かれないように、そっと見守りいざという時いつでも助け舟を出せるように用意しておく。

必要であれば差し出して、それを手放す。(自分がやってあげたという気持ちにならないよう)

一見とても親切ないい人が実は自分さえという人だったりすることもあるし、一見冷たい人が真の優しさを秘めているのかもしれず。

そして、長い目で見ると両者とも誰かの機会を奪ってしまってはいないか?ということも。善なる人も、それがいいとも限らないってことです。

それは体験だったり気付きだったり激しい感情を味わうことだったり、本人が自分でチャレンジする機会。

善意の人は、その時々自分が気分良いけど、その人の人生の責任を負うことにもなるので、それだけの覚悟があるのかどうか。

難しいけど大事だと思います。

私が宗教とか(病院じゃなく霊能者さんの)セラピーとかから距離を置いているのは、依存心が生まれて自分が弱くなると思ったからです。恨みつらみなどの余計な感情を生むことにもつながるし。

この続きはまた書くかもしれません。とりあえずここまで。



(2020年11月26日)

周りのドイツ人見てると、ドイツ人は日本人気質と西洋人(白人)気質を併せ持つ人が多いかなという感じがします。

ドイツは全体主義に向かいやすい気質なんでしょうか。面白いのは(面白がっちゃいかんけど)全体主義に陥りやすい人って、“善意の人”が多いんですよね。“正義感”が非常に強い。

一方で西洋人特有の革命気質とでも呼ぶ激しさもあって対立が大きくなっているようですね。

こういうのはメディアの記事ではなく色んな立場の現地の人の声をより多く拾わないと分かんないですが。でも自分がもし現地にいたとしても、自分のフィルターを通して見るので、思うところはどちらサイドとも全然違う気がします。

さて、ミネソタはスカンジナビア系が多い州なのですが、不思議なのは日本人と気質が似てるんですよね。

全体的に調和を望んで、まあいいかってのも多い感じです。あんまりキリキリピリピリしてないので、北米のニュースとか読んでもどこか他所の国の出来事みたいな感じで、ここだけ違う時間が流れてる?って思ってしまいます。

メディア抜きだと、うっかりコロナのことも忘れてしまうくらい。(ただし、私のフィルターを通した現実です。同じ市内に住む友人は、コロナ怖い怖いのご近所さんに囲まれてていつも見張られているそうで、人目を気にして結構窮屈そうです。)

でも現実的に影響を受けている部分、州のコロナ措置による外食や集会の禁止、リモート・ワークとディスタンス・ラーニングで子供への精神的なダメージが大きいのは1番の懸念事項です。


(2021年4月3日)

【善意の人】についてちょくちょく書いていますが、果たして多くの場合善意というものはエゴなのではなかろうか、と思っています。こういうこと言っちゃうと結構非難されるのですが、そう思います。

地獄と極楽の箸の話、よく聞きますよね。

隣同士で助け合って生きましょうね、という教え。

あれもまた、ほどほどが大事だよねと思います。

他人のためになにかするにしても、自分の目の届かない手の届かない距離の長すぎる箸だと箸で何を掴んだのかもどこの誰に届けたのかもはたまた届いたのかどうかも分からない。

それは単なる自己満足に過ぎなくて、結局は自分が気分が良くなるためにやっているわけですよ。

この逸話の大事なところは、程々に長すぎも短すぎもしない長さの箸というものが重要なポイントなのだと思います。

ネット時代の今は特に、地球の裏側で起こっていることがすぐ目の前の出来事のような錯覚を起こしていてもたってもいられない気持ちになりますが、それはそこの場所で実際に手の届く者同士で助け合う課題であって、あなたの課題ではない。

今の世の中、自分の箸の届く範囲を疎かにして地球の裏側同士で届くはずもない長すぎる箸を持つ人ばかりに見えます。

人は、ほどほどの長さの箸でお互いに助け合える距離での関わりに集中することが、この世の極楽を実現することだよねと思います。

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