私の話

1971年生まれです。
名古屋生まれ名古屋育ちです。

幼いころから人見知りがはげしく
いつも独りでじっとしているような
おとなしい子どもだったようです。
今で言うHSCだったと思います。

同じ敷地内に住んでいた父方の祖父に
よく同年のいとこ(祖父から言えば孫同士)と
比較され『○○に比べて頭が悪い』
『不細工で愛想も悪い』
『ブスッとしているからブルドックのようだ』『女だからメスブルだ』などと
言われていました。

祖父はとっくの昔に亡くなっているのに
今でもハッキリ覚えているのですから
きっと私も根に持っているのでしょうし
私の人格形成に影響を及ぼしているのは
確実だと思います。

そういう祖父の影響なのかも知れませんが
父は私をとても褒めました。

特に父は本が好きだったので本を読むと
『本を読むことはとても良い』
『本を読むからお前は賢い』と言って
私をいつも褒めました。

父は寝る前に本の読み聞かせや
素話などをしてくれました。
羅生門や杜子春の話をしてもらった記憶があります。

私は診断は受けてはいませんが
自閉症スペクトラム障害だと思います。
コミュニケーション能力が皆無です。
人の気持ちになって考えることが苦手です。
雑談もできません。
自閉症かどうかのセルフチェック問題
"アンとサリー問題"どうしても解けません。

なので今の仕事は自分で完全にマニュアル化していますし、耳のサロンでも雑談ができず
施術でも間が持ちません。10分が限度です。

数字がニガテと言っていますが、算数が小4のから全く理解できなくなったので、学習障害でもあると思います。

また空間認知能力がないので地図が読めず
かと言ってナビも使えないので道に迷います。
自分では今でこそ HSPだとか言っていますが、たぶんその感覚過敏だったり、聴覚過敏だったりすることはそのせいだと思っています。

私には4つ下の妹がいて、私と違いIQが高くて文才もセンスもあるのですが、賢過ぎて可愛げのないところがあるのか父は妹よりも私のことをえこひいきしていたように思います。

小学校の2年生の時に担任だった先生が、国語の先生で読書を勧める方で、クラスで読んだ本の厚さを棒グラフにして掲示板に貼りだし、競争をさせられました。

私は図書室が大好きでずっと本を読んでいたので、図鑑や字の大きい本でインチキをする子を抑えて1番になりました。

運動神経も頭も悪い私が1番を取ったのはコレが初めてだったかもしれません。
当然、父はこの時、本当に喜んでくれたのを覚えています。

1年から4年生まで通知表に
"消極的。友達がいない"と書かれていて
5年生の時に、このままの自分ではいけないので『積極的』になろうとと思いたち、児童会の書記に立候補し、ポスターを作り、選挙活動をし、当選できたので明るく活発な自分を演じるようになりました。
このことも父はすごく喜んでくれました。
中学時代は陽キャラでいたのでモテました。
高校はかろうじて普通科の公立の高校にギリギリで入れました。

家庭科の授業の中で保育の時間があり、その中で知った“紙おむつを使うと子供がバカになる” という趣旨の本を読んで驚愕し、子どもの教育、保育に興味を持ちました。

当時、将来の夢は何も考えていませんでしたが、父が教員になりたいという夢があったこと、保育科の短大なら推薦の枠があったこと、試験が小論文と面接だけで数学は関係なかったことの理由で、指定校推薦で保育科の短大に入りました。

短大卒業と同時に地元の私立の幼稚園に就職しましたが、1年目は補助として、事務職をしていました。
今だから言いますが、幼稚園教諭になったものの子どもは大の苦手、子どもが可愛いなんて1ミリも思ったこともありません。
スゴイ生き物だなと思っただけで、どう接していいのか全く分かりませんでした。

2年目になり、3歳児28人の担任になりましたが、問題児ばかり、1日中泣く子、部屋から脱走する子、私の腕に噛みついている子、弁当を落として足でこねてる子、加えて、毎日書かないといけない手書きの日報、マウントとってくる先輩、歯形つけて帰ってきたと怒鳴り込む親、残業、徹夜当たり前の毎日で2ヶ月で10キロやせてしまいました。

そんな時に今の主人と出会い、すぐに結婚を決め、その年の3月に寿退社しました。

結婚と同時に主人と、主人の両親との完全同居が始まり、またこの家族全員で営む家業、食品小売業の仕事を始めました。
店は市場の中にあり、そこでの接客、販売、また小規模の物産展みたいなことをしていたので会場の設営から商品の陳列、POPの作成、値段付け、会計、販売、接客、片づけ、撤去と1日中働きました。

24歳で長女、25歳で長男を出産し、繁忙期はベビーシッターに預けて仕事をしました。

上の子2歳、下の子が4カ月の時に急に体が動かなくなり、自律神経失調症と診断されましたが、同居している義理の母に「家にいるのがいけない」と言われ、毎日店に出るように言われてそうしました。
また当時の市会議員に口利きをしてもらい100人待ちといわれた保育園に上の子が2歳の時に即時入園させてもらいました。
ママ友はひとりもおらず、学校の役員なども働いていることが理由にできた当時、全て回避することができ、ずっと働いていました。

30代はずっと頭痛と肩こり腰痛に悩まされ、PMSもひどく情緒不安定でピルを服用していました。

36歳で、チョコレート嚢腫と診断され卵巣を片方摘出、37歳で子宮筋腫で子宮全摘手術、以降、早めの更年期障害に悩まされてきました。

40代は自律神経失調症とウツ状態を繰り返しながらも(今思うと躁うつ病だったのではと思いますが)調子のよい時には衝動的に新しいことに挑戦してきました。

調理師免許を取得したり、着付け教室に通い着物助教授なるものを取り、あと100万出せば教室を開けて先生になれますと言われたものの、断り、代わりに娘に振袖を着せるコトを目標に『着物着付け技能士』の国家資格を取りました。
成人式や結婚式場などでバイトしてみたり、出張着付け教室を開催したりしてみました。

書写教室を開こうとしたこともあります。また片づけが苦手なので、整理収納アドバイザーの資格も取りました。が、できませんでした。

近藤麻理恵さんの『ときめく片づけの魔法』を読んで感銘し、東京に何度も通って "ときめき片づけ協会" の認定 《ときめき片づけコンサルタント》にもなりました。
講習会を開いたり訪問片づけなどもしました。

が、片づけできるようにはならず
今度は『フランス人は10着しか服を持たない』を読んで服を全部捨てました。

また、ミニマリストのブログを読み漁り、自分のモノだけでなく家族のモノまで捨てまくり叱られましたが、何とかこれまでの経験をビジネスにしたいと思い起業塾に入りました。

片づけはマインドだと考え、カウンセラーの資格を取ろうと思い、心理学を少し勉強してみて自分がちょっとズレていると気づきました。

その後もオンラインサロンのコンサルに100万以上近く払って活動し、片づけのオンライン講座を販売したり、HSPのメールカウンセリングを販売したり(その時にHSPの電子書籍出させられました)していました。

そんなことをしながら常に体調を崩し、メンタルも不安定、それでも家業の仕事は続けて生活していました。

計算できないので家計はすべて主人が管理しているので、私はずっと今でも小遣い制ですが、ほとんど医療費と整体や鍼、マッサージ代などに使っていました。

そんな中で主人の知り合いが筋トレジムを開業し、そこへ半ば強制的に入会させられ筋トレを始めました。
特殊なマシンなので身体のバランスが整い、姿勢が良くなり、筋力がついて健康になってきた私を見て、一念発起して副業として現在のジムを開業したのが4年前になります。

主人がオーナー、私はマネージャーという位置でおりますが、何か会員様に喜んでもらえたら良いなと思いはじめたのが、耳のマッサージです。

着付け技能士の国家試験の練習のし過ぎで痛めた肘が耳ツボで治った時に取っていた資格が活かせるかなと思ってはじめたことでした。

またサロンオーナー向けの起業塾に入りコンサルを受け、Instagramやメルマガの発信をしたり、オンライン施術を販売したり、耳のセルフケア講座を開いたりもしてきました。

また別のオンラインサロンに入り、コンサルを受けてオーダーメイドの症状別『耳の取り扱い説明書』を販売したりといろいろやってきました。
でもこれまでのすべては主人に、家族に、そして父に『スゴイね』って褒めてもらいたかっただけだったんです。

正直なところこれまでお金で迷惑かけてきましたが、自分では管理していないので、あまりよく分かっていません。

人の役に立つために、沢山の人に喜んでもらいたいとかあんまり思ってないかもです。
でも今回のお話いただいたことは、今まで生きてきて1番嬉しいことでした。

今たくさんの方にこの耳ツボを知ってもらえるようになり、まだ信じられないのですが、今まで自分のしてきたことがはじめて形になっていると感じています。

これも今までこんな私でも見捨てないでいてくれた家族のおかげです。
本当に有難いてす。

ウツになる度に、何も言わずそっとしておいてくれて有り難かったです。

これまでずっと心配かけ続けてきたので今度は私が家族を喜ばせてあげたいです。

ウツの時、この世から消えたいと思ったけど消えなくて良かったです。
これからも元気でこうして発信を続けていきたいです。
毎日きげん良く生きていきたいです。

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