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カップの向こうに

落ち着きがないことに定評がある私でも、本と珈琲、それから座り心地の良いソファーがあれば、たぶん同じ場所に何時間でもいられる。


幼い頃からとにかく本が好きだった。

学校から帰ったら図書館に行って17時のチャイムがなるまで本を読みあさり、一度に借りられる上限まで本を自転車の前カゴに詰め込んでは家路を急いだ。

どんなに分厚い本を何冊も借りてきても、3日もすればすべて読み終わってしまう。学校の図書室で使う図書カードはすぐにいっぱいになり、最寄りの古びた図書館の児童書コーナーはしょぼいラインナップでたかが知れている。

図書室にも図書館にも目新しい本がなくなった私は仕方なく、友達の家の本棚に積まれた伝記や歴史の全巻セットを少しずつ借りては知識欲を満たしていた。

活字中毒という言葉を知った時、ああこれだ、と思った。朝から晩まで何かを読んでいないと気が済まなくて、本では飽きたらず、目に入る活字さえあれば新聞でも雑誌でも教科書でもなんでも良かった。

あの頃の私を突き動かしていたものは、一体なんだったのだろう。


珈琲はずっと苦手な飲み物だった。

その頃は「こどもにカフェインは良くないのよ」なんてつまらないことを言う大人がいなかったため、大人の集まりについていくと、望めば珈琲も飲ませてもらえる環境にはあった。私にとって珈琲といえば、ゴールドの蓋がついた大きな瓶に入ったインスタントコーヒーであり、必ず角砂糖とクリープを入れて飲むもの、だった。

何度もチャレンジしてみたが、大人たちが好きな珈琲という飲み物はただただ苦いだけで、なにが美味しいのかちっとも分からなかった。


そんなわけでなんとなく苦手意識を持って避けて生きてきたため、私が本当に美味しい珈琲に出逢ったのはだいぶ大人になってからだ。

ひょんなことからカフェで働くことになった私は、そこで初めてネルドリップで淹れた本物の珈琲に出逢う。こだわりを持って丁寧に丁寧に淹れられたその珈琲は、それまで私が口にしたことのあるものたちとはまるで別物だった。なにも入れず、ただその薫りとカップの中を流れる時間とをゆっくり味わう、そんな一杯の珈琲の楽しみ方を教えてもらった。


それから、じわじわと珈琲が好きになった。

はじめのうちはブラックで飲んでこそ豆の味わいがわかる、と思い込んでいたけど、お砂糖をたっぷり入れて飲むイタリアのエスプレッソや、昔ながらの純喫茶で普通のブレンドに少しだけクリームを落としたマイルドな珈琲など、それぞれの美味しさがわかるようになって、ぐんと世界が広がったような気がする。


そしていまの私にとって、珈琲や本は自分と向き合う時間に欠かせない、とても大切な存在だ。

うっかりしていると、忙しい日常に埋もれて忘れ去られてしまいそうな、なにものでもない自分。母とか妻とか担当者だとか、そういう肩書きのなんにもついていない、ただの私、に戻れる時間や場所が、人には絶対に必要なのだ。

ついついそれを忘れてしまいそうになる自分を、一杯の珈琲や一冊の本がいとも簡単にひょいっと連れ出してくれる。カップの湯気の向こう側に。

幼い頃、時間を忘れてページを繰るのに夢中になった、物語に出てくるあの不思議な魔法のように。


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