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どう疲れるか、どう休むか

部から「私にとっての休憩所」というお題をもらって考えていたら、これが存外にいい反応因子だったことがわかった。

なぜかというと、自分にとっての「休む」、ひいては「疲れる」がなんなのか、を立ち止まって考えることになったから。

ここんところ「休む」の大切さを突きつけられていたもんで、もっと早くこのテーマに頭を回していたほうが良かったかも、とも思った。

で、寝ながら考えてみたんだけど。

どうやら、ぼくの「疲れる」と「休む」は、求められる思考の「広さ」と「深さ」と密接に関係しているようだった。

関係する人が多かったり、決める順番が複雑だったり、何が正しいかが見えにくかったりで「広い」思考を求められるときに、どうしようもなくぼくは疲れる。
これまでの「疲れ体験」を辿るほどに、これはどうやらまちがいなさそうだった。
(ただ『疲れるからいやだ』という感情とはちがくて、単に『疲労』そのものとの相関しかないらしい)

ところが「広くない」範囲の、思考の「深さ」が求められているときは、疲れるどころか、どんどん脳がリラックスしていくことも、たしからしかった。

たとえば、将棋を指しているとき。
書道展に行って、作品の筆跡を指で追っているとき。
どうしようもなくニッチで、せまくて深いエリアの思考に沈んでいるときに、なにかの脳内物質があふれて、休らっていく。

脳が活性化していれば、同じように血的労働をしていてもその疲労度はちがうわけで、多くのプロフェッショナルが「考え抜け」とうったえるのも、うなづける。
そりゃあそうだ。
なにせ、癒やされつつも、それでいて、フル回転しているのだから。

いつでも、深く深く、考え抜こうと思う。

で、ときどきは、麻雀も打ちに行こうと思う。

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