舞台『仮面ライダー斬月』がなぜ素晴らしいのか、考えてみた話

舞台『仮面ライダー斬月』、観ましたか?
最高でしたね!!

私の周りの鎧武オタクたちも、口々に絶賛しています。
本当に、やってくれてよかった! と。

しかし「最高だった」といくら言っても、何がどう良かったのかなかなか伝わりづらいので、私が持てる語彙を尽くして誉めていきたいと思います。
「舞台『仮面ライダー斬月』はいいぞ」の一言で済ませて、後は観てくれ! と言いたいところだけど、それじゃ何が素晴らしかったのか分かんないですものね。

舞台のストーリーから何からがっつりネタバレするので、観ていない方は自衛お願いします。
TV本編および劇場版とVシネと小説版のネタバレにも触れているので、今から楽しみに見る! という方もお気をつけください。

■   ■   ■

舞台『仮面ライダー斬月』が素晴らしかった理由として、要点を挙げていけば、

・「実在する呉島貴虎」を見せてくれたこと
・本編と地続きの、世界観を膨らませる脚本
・原作ファンが見たかった「過去」「その後」の話、両方が入っていたこと
・本編未視聴勢でも置いていかれない工夫のあるストーリー
・人間ドラマを見せてくれたこと
・舞台でしかできない表現をやっている舞台だったこと
・変身シーンとカチドキメロン
・適度な尺

この辺りではなかろうか。

「それぞれの推しが活躍する」のも十分に素晴らしかった理由にはなるのだが、私は「自分の推しが何をやっても最高なのは知っているので、『推しが最高』は作品の良し悪しの判定に使えない」と思っている節があるため、今回は理由に入れていない。
だって推しは何やっても最高だし。推しが出ている時点で判定は甘くなる。

要点はこれだけだが、話がこれで終わっては説得力もないし、わざわざnoteに書き残す必要もないので、ここから精一杯の語彙を尽くしていく。「尊い」で済ませたいんだけど、そういうわけにもいかないので。
私は人生変えられたほどの鎧武好きで、その中でもとりわけ呉島貴虎が好きで、ついでに貴虎を演じている久保田悠来さんも好きだ。果物としてのメロンも好きだ。
ゆえにこの先は、メロン贔屓がてんこ盛りだ。

でも私は冷静な評論を残したいわけじゃない。我らが呉島主任を絶賛したいのだ。
そしてこの文章を見てくださった一人でも多くの人に、「そうそう、呉島主任のそういうとこ良いよね」「さすが呉島主任だ」と思ってほしい。
思い切り呉島貴虎を贔屓し、思い切り脱線もしまくるけど、許してほしい。

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【実在する呉島貴虎】

今回、観に来た人たちを何よりも感動させたのが、これではないだろうか。
「TVで見た貴虎がそのままに、目の前で生きている! 動いている!」
画面越しではない、私たちと同じ空間に、あの呉島貴虎が存在していた。

私たちは大人だ。
キャラクターにどれほど惚れ込んでも、その向こうに「中の人」がいるのを知っている(そしてしばしば「中の人」含めて好きになるし、逆に「中の人」のファンだからキャラを好きになることだってある)。
その虚構を承知の上で、何かを好きになる。
でも、この舞台『仮面ライダー斬月』を観ていると、その虚構を1時間50分の間、完全に忘れさせられてしまう。
これまで久保田悠来が演じる様々な役を見てきた私でさえ、思ったのだ。
「あ、本当に貴虎だ!」と。
そこにいたのは久保田悠来ではない。
紛れもなく、私たちが知る呉島貴虎その人以外の何者でもなかった。

久保田悠来という人は、こういう感動のさせ方が実に上手い。
普段は真面目な顔のままサラッとハイセンスなボケをかまして、しばしば周りを戸惑わせる、クールな見た目と裏腹の面白いお兄さんなのだが(素でボケているのではなく、「ちょっと面白い人」というポジションを狙って意識的にやっているらしいのが本当にクレバーだと思う)、一旦役に入ってしまうと、その役以外の何者にも見えなくなる。
「役者」であるのだなと、心底尊敬する。
観ている者が求める偶像を深く理解し、しかしそれにおもねることなく、筋の通った芝居を組み立てる。そういう人だと思っている。
その久保田悠来の演技を、生で見られるのだ。
しかもあの呉島貴虎役で。
どうやったって、かっこいいに決まっている。嬉しいに決まっている。呉島貴虎の実在を信じさせられてしまう。

「そうは言っても、ちょっと豪華なヒーローショーでしょ?」
そう思っている人もいると思う。
確かにヒーローショーだ。
ガワ(変身後の姿)は出てくるし、アクションもある。
素面ショー(「中の人」である役者の出るショー)とほぼ同じようなものだ。
しかし。「豪華なヒーローショー」の「豪華」の度合いが半端ない。
生々しいアクションがあるかと思えば、TV本編へのオマージュを思わせるダンスによるバトルシーンもあり、まさかのカチドキメロンという新アームズのお披露目、そしてTV本編と繋がって物語を深く掘り下げる脚本まで。
ヒーローショーの醍醐味って、何だろう?
やはり「すぐ目の前で、憧れのヒーローが戦っていること」――もっと言うなら「憧れのヒーローが自分と同じ空間を生きていると実感できる」ことじゃないだろうか。
少し気恥ずかしいけれど、「憧れのヒーローが守る世界に私はいる」と思えること。それだけで世界は驚くほど愛しくなり、輝きを増す。
そういう意味で、舞台『仮面ライダー斬月』は、ヒーローショーだ。但し、とても豪華な。
大人が虚構を忘れ去って、純粋にヒーローを信じ憧れた子どもの頃のように、ヒーローの実在を信じられる空間が、そこに広がっていた。

虚構を忘れさせる力。
確かにヒーローが存在すると信じさせる説得力。
その力がとても強かった。否応なしに信じさせられた。
だからこそ、観に行った人が口を揃えて「良かった!」と叫ぶのだ。
私たちは《虚構》を目撃しに行ったのに、《リアル》を体験して帰ってきた。
その「予想以上どころではない紛れもない本物」体験が、何よりの素晴らしかった理由だと思う。

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【脚本】

さて、いくら貴虎が本物で感動的であろうとも、ストーリーに引っ掛かりを覚えたらこんなに絶賛していない。
そう、舞台『仮面ライダー斬月』は、ストーリーも最高なのだ。

上で挙げた、
・本編と地続きの、世界観を膨らませる脚本
・原作ファンが見たかった「過去」「その後」の話、両方が入っていたこと
・本編未視聴勢でも置いていかれない工夫のあるストーリー
・人間ドラマを見せてくれたこと
についてまとめて話していく。

舞台未見の人は、詳しいあらすじは公式サイトを見ていただくとして、既に観た人なら分かると思う。
これは「もうひとつの鎧武」だ。

最初に大塚芳忠さんのナレーションから始まり、「いつもの鎧武の始まり方だ!」とテンションを上げて聞いていると、ナレーションが聞き覚えのない台詞を喋り出す。
「あっ、舞台のために新規音声録ってくれたんだ……」
これだけで既に大歓喜だった。
そしてナレーションは軽くTV本編の説明をすると、舞台の時間軸が「8年後」の「トルキア共和国」の話だ、と告げる。
トルキアというのが、「ユグドラシルがプロジェクト・アークの実験場にしていた国だが、今は進む貧困と止まない紛争によって衰退の一途を辿っている」という、実に魅力的な設定である。いかにも「鎧武」だ。
沢芽の問題はTV本編で一応片付いてしまっているし、その後も小説版で再び問題が持ち上がったが、やはり綺麗に片付いてしまった。
沢芽には今でも戦うヒーローたちがいる。
その沢芽にまた災厄を持ち込んでは、正直「またか」という感が拭えなかっただろうと思う。沢芽がクラック出現の多い特別な場所だと語られたことはあったが、それはもう神紘汰によって解決されてしまった。
それに沢芽で展開する物語なら、貴虎のみならず城乃内やザック、凰蓮、そして光実が活躍する物語にならなくてはいけなくなる。
そこで、小説版でも見られたように「海外でのユグドラシルの後始末のために飛び回っている貴虎」と、新しく「貴虎にも関わりのある、かつて実験場となって捨てられた国」を用意してしまった。
これによって、「鎧武」の世界はまた新しく広がりを見せた。
これらが現れたことで、本編の設定との矛盾が起きるようなこともない。
本当に上手くやったな、と脱帽だ。

舞台のあらすじを簡単に説明するなら、「貴虎が襲撃を受けて記憶喪失になり、助けてくれた若者の手を借りて、記憶を取り戻そうとしつつ、自分を襲った者の正体を突き止め決着をつけようとする話」だ。
「貴虎が記憶喪失」。
天才の発想だと思った。

この舞台は、「仮面ライダー初の舞台化作品」であり、注目度も高い。
舞台に呼び込みたいのは、特撮ファンのみではないだろう。
もちろん鎧武のTVシリーズや、歴代の仮面ライダーシリーズを追いかけてきた根強いファンもターゲットではあろう。
しかし、そういう固定のファン層だけではなく、もっと新しい、今まで特撮に触れてこなかった層にも呼びかけたい。そういうキャスティングだったのではないかと思う。
だからこそ、元ジャニーズの萩谷くんや、丘山さんや原嶋くんをはじめとした2.5次元中心に活躍する面々を取り揃えてきたのだ、と思っている。
しかし、そういった面々のファンのうち「特撮慣れ」していない人たちに、
「あなたの推しが出るから、原作(TVシリーズ)30分×47話、可能なら夏映画・冬映画・Vシネも予習してから来てね」
とは、とてもじゃないけど言えない。
私も大きくなってから特撮に初めて触れたので分かるが、特撮独特の「お約束」――変身バンクや、玩具戦略のための変身ノルマや次々登場するパワーアップアイテム、名乗りや決め台詞のちょっと現実っぽくない不自然さや、そもそも「変身」するということ――は、馴染むまでものすごく時間がかかる。そもそも50話近い長さからして大変だ。
なので、本編を予習するつもりだったのに途中で挫けた人、きっといると思う。
特撮に馴染めなかった新規ファンの方、大丈夫です。その感覚は普通です。
むしろ特撮に馴らされた我々が、ちょっと馴らされすぎなんだと思う。
でも「鎧武」は面白いのでどうぞよろしくお願いします。
話は逸れたが、そういう事情で、TV本編を知らないまま来ている人は大勢いるはずだ。
しかし舞台で展開するのは、本編の「過去の話」かつ「その後の話」だ。
本編を知らないと、世界観すらつかめないまま、1時間50分が終わってしまう。
そんなの全然楽しくない。
かといって、説明ばかりでも情報量が多くて混乱するし、第一ストーリーが進まない。

そこで貴虎の「記憶喪失」が効いてくるし、TVオリジナルキャストではない舞台キャストの配役が生きはじめる。
記憶喪失の貴虎に、貴虎を助けた青年・アイムが、トルキア共和国という国のこと、アーマードライダーのことを説明する。
何もかも忘れてしまった貴虎に対する説明という形を取るから、何も知らないまま観にきた観客への説明としても十分な情報が含まれる。さらに説明台詞が不自然にならない。
そして貴虎は、アイムの持つプロトタイプの戦極ドライバーを見て(※記事執筆当初はこう書きましたが、舞台を見返すとオレンジロックシードでした。訂正します)、「俺はあれを知っている……!」と気付き、ついて行った先で青年同士の殺し合いの抗争に巻き込まれ、そこで青年たちにとっても未知の≪白いアーマードライダー≫に出会い、ひとつの確かな記憶を取り戻す。
「あれは斬月だ」と。
この展開、斬月ファンにはたまらない。
何もかも忘れて、自分が何者かも分からない貴虎が、自分の名前より先に≪斬月≫を思い出す。
あえて俗っぽい言い方をしよう。エモい。非常にエモーショナルな展開である。
貴虎ファンにとって、メロンといえば貴虎だし、貴虎といえばメロンだ(弟も使っていた例外はあるが本家はやはり貴虎だ)。
我々がメロンを貴虎のものとして特別視しているように、貴虎にとってもまた斬月=メロンは特別だったのだなという、それだけのことがファンにとってどれほど嬉しかったことか。

斬月のことを皮切りに、貴虎は少しずつ、昔この国であったことを思い出していく――鎮宮雅仁という人物にまつわる記憶と共に。
そして「オレンジ・ライド」「バロック・レッド」「グリーン・ドールズ」の三勢力に分かれた青年たちの抗争が進んでいく。
この光景、TV本編を見ていたファンには見覚えがあるはずだ。
あらすじと共にチーム名が公開された時から感じていた。
「オレンジ・ライド」はチーム鎧武。
「バロック・レッド」はチームバロン。
それらになぞらえた物語が舞台で展開するはずだ、と。
「グリーン・ドールズ」だけ確信を持った予想ができなかったが、TV本編の1話アバンと照らし合わせて貴虎と光実率いるメロン軍か? と思われた。
しかし舞台が始まって、フォラスが変身してやっと気づいた。
「グリーン・ドールズって、グリドンだ」と。「グリーン」という色のイメージに引きずられすぎていた。なぜ音の響きで気付かなかったか。

そして見ているうちに気付くが、
アイム→葛葉紘汰
グラシャ→駆紋戒斗
を意識したキャラクターになっている。振舞いや言動、変身アーマーからして、完全に私たちの知っている彼らと重なるのだ。
ならばフォラスは城乃内か? と思われたが、ここが舞台の上手いところだったと思う。
フォラスは、途中でインベスになる。
プロトタイプ戦極ドライバーは完成品のような「ヘルヘイム果実の毒性を無効化して養分だけを摂取できる」段階になく、毒性が身体をむしばんでいく代物である。
それゆえ、フォラスのみならずプロトドライバーを使用しているアイム、グラシャも身体の不調を訴えている。
そして同じく身体の不調を訴えていたオレンジ・ライドの前リーダーは、最近行方不明になったという。
それはヘルヘイムの果実を食べてインベスになったことが明かされた角居裕也を連想させたし、フォラスが正気をなくしてインベスに変化していく姿は、13話の初瀬亮二を彷彿とさせた。
フォラスは城乃内であり、初瀬である。二人を合わせた存在と言っていい。
そして鎮宮鍵臣なるトルキアを牛耳る男(呉島兄弟の父・呉島天樹に権力争いで敗れたらしい)が、プロの傭兵である雪叢・ベリアル・グランスタインに貴虎抹殺を依頼する。
言うまでもない。このベリアル、本編で言う凰蓮・ピエール・アルフォンゾだ。

TV本編を知る人には、どこかで見たような、しかし少しだけ異なった物語が。
TV本編を知らない人には、巨大な力に抗い戦う、青年たちの物語が。
激しく目の前で展開されていく。
本編を知らない人が、この「本編をなぞっていく」仕掛けにどこまで気付いたのか私では推測できないが、多分、貴虎のアイムに向けた「お前に似た青年を知っている」という台詞や、アイムに紘汰が乗りうつったシーンで、何となく「本編でもこういうことがあったのかな」くらいに察してくれたのではなかろうかと思っている。
本編を知らない人でも、かつて本編で起きたことを何となく察して、置いていかれないようにする工夫があった。
もし察せられなかったとしても、アイムとグラシャの戦いの行方がどうなるか、ハラハラしながら純粋に楽しめたはずだ。
TV本編を知る人たちにとっても、紘汰と戒斗の戦いの単なる焼き直しではないため、どうなるか、最後までドキドキさせられた。
アイムは紘汰だが、紘汰ではない。グラシャも戒斗だが、戒斗ではない。
「鎧武」の物語をなぞりながらも、彼らには決定的な違いがある。
それは「人間の命を奪ったことがあるかどうか」だ。
殺し合うのが日常のアイムたちと、手を下したインベスが元々仲間であった人間だと知って苦悩する紘汰。
しかしアイムも、人を殺すことを何とも思っていないわけではない。仲間と共に生き延びるためにやっている。
ダークなキャラ設定だが、仲間思いの一面を見せ、役者さんの爽やかな容姿も含めて、好感度と共感性を持たせている。そのバランスが上手く作り込まれている舞台だった。

そして記憶喪失の貴虎が、記憶を取り戻していく過程で回想の中に出てくる謎の男、鎮宮雅仁。
自らを貴虎の弟だと名乗って記憶喪失の貴虎に近づく、鎮宮影正。
これまでアイムやグラシャが紘汰や戒斗であったように、この兄弟にも重なる人物がいる。
貴虎と、光実だ。
この名前の重ね合わせ方が実に意味ありげで良かった。
「雅仁」といういかにも優雅でイケメンな字面の名前(演じていた方ももちろんイケメンだった)は、「貴虎」といういかにも高貴で強そうな名前と対になるし、「影正」の≪影≫は光実の≪光≫と対になる。
ついでに言うなら影正という名前は、36話の「お前は俺の影だ」も思い出させる。
雅仁は、貴虎の親友であった。
しかも雅仁は、かつてトルキアでスカラーシステムのボタンを押して、国ひとつを焼き尽くし、自らも業火に焼かれて死んだ。
貴虎は、親友をそんな経緯で亡くしていたし、国ひとつが滅ぶ姿を知っている。
そう明かされた今となっては、22話の、
凌馬「君がスカラーシステムのボタンを押すんだ」
貴虎「……ああ」
という台詞も、重みが違って見えてくるというものである。
そうだ。私は、こういう過去が明かされるのを待ち望んでいたのだ、と心が震えた。

原作ファンは、新しい物語を求めている。
今まで愛してきた物語に、新たな一ページが加わることを期待している。
貴虎の過去が明かされた舞台『仮面ライダー斬月』は、まさにその欲求を満たしてくれた。
さらに基本の時間軸を「8年後」にすることで、「その後」の物語も見せている。
何て贅沢なんだろう。
見たいもの全部、見せてもらった。
「記憶喪失」という設定で、過去の物語を思い出す形を取りながら掘り起こしていく手法を、ここで使ってしまうと、もう後続のライダー舞台では二度と使えない。
何てことをしてくれたんだろう。
やはり「記憶喪失」という設定はあまりにも天才的だ。

さらに「人間ドラマを見せてくれた」のが良かった。
先ほど「とても豪華なヒーローショー」と言ったが、ヒーローショーは「変身ヒーローが強大な敵に立ち向かい、苦戦しつつも最後はかっこよく勝利する」カタルシスが売りだ。
脚本がめちゃくちゃ丁寧でこれが正規の外伝で良いのでは? と思うほど作り込まれているショーもあるが(特オタの間で名高きひらパーとか)、ヒーローが対峙するのは基本的には常に「怪物」だ。
舞台『仮面ライダー斬月』は、確かにヒーローショーの要素を持っている。
呉島貴虎は変身し、オーバーロードとなったかつての友に立ち向かい、苦戦しながらも最後は勝利をおさめ、これからも戦い続けることを誓う。
しかし、その根底には「友との対決」「罪を償うこと」「戦い続ける意味」というテーマがあり、紛れもない「人間ドラマ」だった。
そこが、普通のヒーローショーと一線を画するところではないだろうか。
素面の役者がやるからこそできるドラマでもある。

脚本の毛利さんにも、監修の鋼屋さんにも、こんなに素晴らしく練り込まれた物語を新しく用意してくださって、感謝しかない。
本当に、ストーリーが純粋に面白かった。

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【舞台でしかできない表現】

前の記事でも書いたが、呉島貴虎の素面殺陣は、とてもかっこよかった。
「アクション・殺陣が得意な久保田悠来」をこれでもかと観客に見せつけた。

久保田さんの殺陣は、説得力のある殺陣だ。
「こう動くと手順で決まっているからこう動いた」と観ている側に感じさせない。
ちゃんと「相手の動きを見て、こうかかって来られたから、こう切り返した」ように見える。
そして、そのときどきの役に合わせたアクションを器用に使い分ける。
特撮クラスタなら、キュウレンジャーのスコルピオが記憶に新しいと思う。
銀河系最強と名高いサソリ座系出身で、故郷を壊滅させた凶悪な強さは、スティンガーのVシネでちょこっと披露されていたが、向かってくる者を片っ端から容赦なく仕留めるアクションをしていた。
さて今回の舞台での呉島貴虎のアクションはというと、「実戦向きで、生々しい」だったと思う。
華やかさはあるが、重さもある。そして無駄な動きがない。
冒頭の、複数の刺客に襲われながらも相手を殺さないままあっという間に撃退してしまう殺陣に、見惚れなかった人がいるだろうか?
呉島貴虎という人の能力は、貴虎贔屓の私からしても、未知数なところがあった。
前の記事でも言ったが、貴虎は合理主義者なので、戦闘時は変身してしまう。変身時は能力値が全体的に向上する。生身でもきっと強いは強いのだろうが、どの程度戦えるのかは分からなかった。
それが、ナイフもピストルも扱えれば、体術まで心得ている。
生身でも強い。めちゃくちゃ強い。そしてかっこいい。
この殺陣、映像で見てもかっこいいのだろうが、舞台で、カットの掛からないアクションを目の前でやっているから、かっこよさ五割増しだ。
本当にあのアクションだけでも一見の価値があるので、都合がつく人はぜひ観に行ってほしい。

そして貴虎の生々しい殺陣とは逆に、青年たちの殺し合いの抗争は、ダンスによって表現される。
貴虎の殺陣は、あくまでも牽制・撃退のための相手を殺さない殺陣であるし、生々しさがあってこそだ。
しかし青年たちの命をかけた殺し合いの殺陣には、逆に生々しさは必要ない。生々しくやられたら、多分ちょっとえぐかったと思う。
ただ、これが映像作品なら、いきなり踊りはじめたらポカンとしていたと思う。
ダンス表現での殺陣が成立するのは、舞台なればこそ。
リアリティを出すべきところと、敢えて概念的な表現に差し替える部分の使い分けが上手かった。
そしてダンスという表現は、TV本編のダンスバトルへのオマージュでもあった。
こういうところで、原作ファンを喜ばせるのが実に上手い。

今まで映像だったものを舞台にするなら、映像ではできないことをやるべきだ。
ダンス殺陣は、その点を見事にクリアした。
後続のライダー舞台が作られるなら、またこういう「舞台ならでは」の表現があればいいなと思う。

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【変身シーンとカチドキ斬月】

変身シーンについては、戦隊シリーズやライダーの素面ショーを見たことがある人なら、「あ、いつものやつ!」と思ったかもしれない。
衝立(今回は岩の装飾が施されていた)や、スクリーンとプロジェクションマッピング、暗転を利用した変身シーンの工夫については、以前の記事でも少し触れた。
こういったノウハウは、他の素面ショーの現場でも使われていて、ヒーローショーの十八番とも言える。
しかし、それらの手法を手を変え品を変えバリエーション豊かに見せてくれるのは、素面ショー慣れした身にも珍しかった。
変身シーンは、素面ショーを見たことがない人にも楽しんでもらえたのではないだろうか。

なので変身シーンがあったことについては、ここでは詳しく掘り下げない。
それより、カチドキである。斬月のカチドキアームズである。

カチドキ斬月(正式にどう呼べばいいのか分からないので便宜上そう呼ぶ)が出てきたとき、心臓が止まるかと思った。
かっこよすぎた。
しかも、かっこいいだけではない。カチドキとは、鎧武の物語において、とても特別な位置づけにあるアームズなのだ。

公演初日、物販情報やフライヤーでDVD販売についてまったく告知がないので、「どうせ公演中日辺りで情報出すのかな」くらいに思っていたら、まさかの「DVD/Blu-ray申込書がネタバレ」という、「伏せておいてくれて本当にありがとう」としか言いようのない展開が待っているなんて、思いもしなかった。
申込書にはがっつりと「カチドキ斬月のライドウォッチ付き円盤の予約受け付けるよ」と書いてあったのだ。
これを公演前に見ていたら、あんなに驚けなかった。
前もって知らされていたら、こんなに嬉しくなかったかもしれない。いや、呉島主任の最強アームズなら何だって嬉しいんだけど、やはり「隠しておいてくれたからこそ」の嬉しさというものはある。
驚きには、付加価値があるのだ。

そしてまあ、カチドキ斬月のかっこいいこと!
斬月は素体が白なので、大抵のアームズを難なく着こなす。
それはハイパーバトルDVDのマンゴー、ブドウ、イチゴが似合っていたことからも頷けるはずだ。
マンゴーは華やかだし、ブドウは高貴だし、イチゴとかショートケーキみたいで本当に可愛かった(貴虎本人が「可愛すぎる」と言ったくらいだ、「可愛い」と評することを許してほしい)。
あとAC(アームズチェンジ)コレクションシリーズの玩具で、鎧武の着せ替えごっこをして遊んだ大人は、私だけではないだろうと信じている。
どのライダーもそれなりに、どのフルーツでも一応似合いするのだが、何となく色合わせがしっくりこない組み合わせもいくつかあった。
その中で、斬月ときたら何でも似合う。
「さすが呉島主任だ」と言いたくもなるというものだ。
斬月は、リンゴだってドラゴンフルーツだって着こなしてしまう(なおACドラゴンフルーツをまとった斬月はめちゃくちゃおすすめです。すっごく高貴で強そうでした。リンゴも気高くて素敵だった)。
小説版では、本編に未出のまま終わったジンバーメロンを纏っていた。ジンバーメロンが本編に出なかったのは、貴虎専用アームズになるためだったんだなあ、などと贔屓目に感慨深く思ったものだ。
ジンバーメロンはS.I.Cで立体化したわけだが、これが本当にかっこいい。見た目からして最強の鎧武者でしかない。
話は逸れたが、これまで何でも着こなしてきたけれど、本編ではメロン一筋でやってきた呉島貴虎に、新規アームズを用意するとしたら、そう、やはりメロンしかないだろう。
でも無印も、夕張も、ジンバーもやってしまった。
なら残されるのはひとつ。
カチドキだ。
何でも着こなす斬月は、当然カチドキだって似合ってしまう。

先ほど「カチドキが特別」と言ったが、どう特別なのか、本編未視聴の人にも簡単に説明するなら、
「ヒトが、ヒトのまま使うことを許された、最強の力」
なのである。
鎧武とは、「ヒトの力では手に余るものを、ヒトを超えて神になった者が引き受ける」話だ。
何者でもなかった青年が、「変身」してやがて神の力を手にし、世界を救う話であった。
TVシリーズのメイン脚本を書かれた虚淵さんが同じく手掛けたアニメゴジラ映画でも、どこか共通するテーマが描かれていたように思う。
それは「ヒトは、ヒトとして、どこまで戦えるのか?」というテーマだ。
これは裏返すと「ヒトならざるものに真に対抗するとき、ヒトはときとしてヒトでなくなる」でもあると思う。
紘汰は、ヒトでなくなることを選び、神となった。そしてすべてを引き受けていった。
貴虎は、神になることを選ばなかった。彼を神にしようと画策する者までいたのに、それを二度もふいにして、ヒトの力で可能な限りヘルヘイムに対抗しようとした。
それが貴虎の良心であり、信念であり、限界でもある。
そんな貴虎の最強フォームとして相応しいのは、「ヒトがヒトのまま」使える姿であるカチドキをおいて他にない。

さらに付け加えるなら、友人が言っていたので気付いたのだが、カチドキはかつて貴虎の絶望を打ち砕いたアームズでもある。
23話を思い出してほしい。
長く貴虎を悩ませていたスカラーシステム。それはヘルヘイムの浸食を食い止める最後の手段だが、街ひとつを焼き尽くす悪魔の兵器だ。
そのボタンを押すか否かの決断は、貴虎に一任されている。
貴虎にとって、スカラーシステムは、最後の手段であると同時に絶望の象徴でもあった。
しかし。
「どんな決断にも犠牲はつきものだ」
そう言った貴虎を思い出しながら、紘汰はカチドキに変身しつつ、こう言った。
「そうだ。あの言葉をぶち壊せるなら――お前たちの諦めを、絶望をぶち壊す方法があるのなら!」
そしてカチドキに変身した紘汰は、スカラーシステムを破壊した。
貴虎はそのとき、「愚かな……性懲りもなく」と言いはしたし、最後の防衛線ともなるスカラーシステムを破壊されて、心底怒りを煮えたぎらせていた。
しかし冷静になったとき、どこかでホッとしていたのではないだろうか?
そのボタンを押す選択肢が、永久に失われたことに。
カチドキが、絶望を打ち砕いてくれたことに。

舞台では、スカラーシステムを実際に使用した男であり、オーバーロードとなった雅仁に対抗する力として、カチドキが斬月に与えられた。
そう、スカラー兵器が生んだ悲劇を止められるのは、カチドキの力だ。
他のロックシードは、凌馬の発明によって人間の力で生成可能である。
しかしカチドキは、ヒトを超えた者がヒトにもたらすロックシードだ。
神となった紘汰が、貴虎に与える力として、これ以上相応しいアームズは他にない。
カチドキ斬月には、こうした作劇上の必然性があった。
鎧武オタクとして、このチョイスがとても嬉しかった。

相変わらず、旗が武器になるのがファン目線からしても謎だが、斬月が持つとあの旗が剣より強そうに見えるだけの説得力があった(贔屓目です)。
銃より剣が使いやすいという(ハイパーバトルDVDネタなので公式扱いしていいのか分からないが)斬月らしく、大剣モード使用が多かったのも嬉しかったところだ。
鎧武のカチドキアームズと前立ての形が違っていたのも嬉しかった。斬月のためにわざわざデザインしてくれたんだな……と思うだけで感謝が止まらない。
そして最後の素面貴虎に大剣モード……!
「半ガワ」とでも呼ぼうか、変身スーツ姿のまま顔だけ素面、という状態は「マスク割れ」と共に特撮オタクが大好きなシチュエーションだが、貴虎の「半ガワ」は冬映画(フルスロットル)で実現してしまっている。
そこで、これだ。素面×武器。
夢にまで見たシチュエーションで、特撮オタクが大好きなやつだ。
大剣モードのDJ銃を素面で振り抜き、斜めに振り上げた形のままピタリと止める。
あれ、めちゃくちゃ力がいると思うんだけど、久保田さんの腕はどうなっていらっしゃるのだろう。
初見のときは「こんなに長く静止してるのすごくない!?」と思ったが、二回目見たときも「やっぱりあのポーズで止まってるのすごいよね!?」と思った。
最後の最後に、本当にかっこいいシーンだった。最後にもう一度、惚れ直した。

そういえば大剣モードを使っていた姿は、ロシュオのジョエシュイムを思い出させた。
雅仁がレデュエ姿なので、それとの兼ね合いで、もしかして狙ってロシュオっぽくしていたのだろうか。だとしたらすごいと思う。

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【適度な尺】

今回の舞台の観客は、決して舞台慣れしている層ばかりではない。
舞台というと、3時間くらいあるものも多い。
休憩を挟むにしても、3時間じっと座りっぱなしになるのは、舞台慣れしていてもしんどい。
だから「舞台はちょっと……」と気が引けてしまった人もいるんじゃないかと思う。

でも舞台『仮面ライダー斬月』は、休憩なしだが1時間50分。
映画と同じくらいの尺だ。
そう思うと、舞台慣れしていない人でも行きやすいのではないだろうか。

しかも初日が終わったときに時計を見て感心したのだが、本当にきっちり1時間50分を守ってくる。
舞台というと、何だかんだで時間が長引いて、劇場を出たら予定より30分くらいオーバーしていた、なんてこともザラにある。
その点、この舞台は安心できる。
遠征組が、帰りの交通手段に間に合わなくなることもない。
私はこの点を地味に評価している。
きっちり時間通りに終わらせるのって、結構大事だ。

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さて、盛大に脱線しつつも、「こういうところが偉かったぞ舞台『仮面ライダー斬月』!」という話をしてきたが、実はまだまだ褒め足りない。

ライダーキックこそないものの、特撮らしいアクションが満載で、満足度が高かったこととか。
キレッキレに踊るガワが見られたこととか。
特撮らしい「戦い続ける意味」を問うようなテーマ性を持ったストーリーだったこととか。
物販がバーコード読み取り方式でとても信頼できたこととか(電卓での計算は、いつも間違えないかと冷や冷やするので、バーコード管理はありがたかった)。

あと呉島貴虎が、紛れもない呉島貴虎だったことに、改めて感謝したい。
私の知っている呉島貴虎は、やたらめったら規格外に強くて、そのくせこの世の苦悩を一身に背負ったような儚げで寂しげな表情を不意に見せるし、育ちがいいけどお坊ちゃんぽくなく、仕草にときおりぞんざいさが混じるし、尊大な態度を通すくせに、押しに弱くて言いたいことが上手く言えないことが度々ある。
そういうところが大好きで、目が離せなくて、どうしようもなく惹かれてしまう。
その貴虎が、そのまま舞台の上にいた。
アイムたちに「おっさん」と呼ばれて、「そんな歳ではない……はずだ」と不服を申し立てるも(この不満そうな様子が本当に可愛かった。年上の男性にこういう表現もなんだが、可愛いとしか言えなかった)、結局「おっさん」呼びを押し切られてしまう。
こういう笑いの取り方、とてもよかった。貴虎にはこういう笑いが似合う。
斬月のちょっと足癖悪めな戦闘スタイルが好きなのだが、それが見事に再現されていた。素面のときも、斬月姿のときも。
華麗な回し蹴りが見られたのも嬉しかった。かっこよかった。

貴虎が「変身」できていたのも、それを紘汰に見せられたのも嬉しかった。
46話で目を覚ます前の貴虎にとって「死ぬことは楽になること」だった。
でも弟を導くために、死の淵から帰ってきた。
そのときの貴虎にとって、生きるのは多分、半分以上弟のためだった。
その貴虎が、冬映画(フルスロットル)や小説版では「世界を蝕む悪意に、二度と屈しない」「無謀な戦いでも諦めない」という覚悟を見せた。
生きることに、戦うことに、別の意味を見出だしはじめた。
そして舞台では「生きることでしか、罪には抗えない」と言う(一度目観たときと二度目でここの台詞が「罪をあがなえない」と微妙に変わっていた気がするのですが、聞き間違いでしょうか。今はどちらになっているのでしょう?)
戦いの末に、貴虎が導き出したひとつの答え。
生きて、戦い続けるという決意。
それは私が知っている貴虎じゃなかった。
私が知っている貴虎より、ずっとずっと先を歩いている、「変身」した姿だった。
その姿が見られたのが、本当に嬉しい。
本編も映画も小説版も終わって、そこから数年経った今、やる価値のある話だった。

ファイナルステージや舞台挨拶などのイベントで、「呉島貴虎役の久保田悠来」を観られることは今までも何度かあった。生アフレコや、寸劇のような掛け合いをやってみせてくれたこともあった。
しかし「久保田悠来が演じる呉島貴虎」を直接見られるのは、これが初めてだった。
このニュアンスの違い、伝わるだろうか。
「いまいち分からない」という人はぜひ舞台『仮面ライダー斬月』を観に行ってその意味を確かめてほしいし、「分かる~!」という人も、ぜひ残りの公演もしくはライブビューイングなどで、最後まで斬月の勇姿を一緒に目に焼き付けましょう。

あくまでも評論ではなく、感想なので、まとまりきっていない部分もありますが、舞台『仮面ライダー斬月』は本当に名作なので、普段舞台に親しみがない人もぜひ気軽に足を運んでほしいです。

あと残すところ、東京公演5日間と、京都公演のみ。
最後まで無事に駆け抜けて、仮面ライダー初の舞台化として大成功をおさめますように!

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