砂漠の果てに見る色は ~舞台『BASARA』を観

文明の滅びた日本を舞台に、「運命の子供」として生まれた少女が革命を巻き起こしていく。
マンガ史に残る不朽の名作として名高い、田村由美先生の『BASARA』。重厚で波瀾に満ちたそのストーリーは、発表から30年以上経った今なお色褪せず、読む者を魅了し続けている。
その作品が、舞台になって、私達の前にやってきた。

2012年、『BASARA』は一度舞台化されている。その続編の関東編と紀州編も2014年に。さらには外伝も2019年に。
しかしこのたび、前回の続きでも再演でもなく、全く新しい作品として、再び『BASARA』が舞台になった。
今回の一番の目玉は、やはり何と言っても、2012年版で揚羽を演じた久保田悠来さんが再び揚羽を演じるのみならず、初めて舞台演出をなさる、ということだろう。

もし今、「観た人の感想を見てから観るかどうか決めよう」と思っておられる方がいたら、おそらく後悔はしないので、ぜひ観ることをおすすめしたい。
原作が好きすぎて、舞台版にも興味はあるけど観るのが怖い……と思っている方にも、騙されたと思って観てみてほしい。原作のファンをきっと裏切らない。
アクシデントのため、現在一部公演が中止となっており、再開されるのは21日17時公演からだが、配信もアーカイブ付きで販売されているため、ぜひご検討いただけたらと思う。

推しが演出をしていようが、もし良い作品だと思わなかったら私がここまで手放しでおすすめすることは絶対ない。
とても丁寧な良い作品なので、ぜひ多くの人に見てもらえる機会があればとファンとして思う。


さて、この感想を読んでくださっている方ならご存知の方も多いかもしれないが、私は久保田さんのファンである。
演じている姿を初めて拝見したのが、ちょうど十年前の舞台『戦国BASARA』の伊達政宗役。その後、『仮面ライダー鎧武』の呉島貴虎役ですっかりファンになって今に至る。
演じる役に対していつも丁寧に向き合って、俯瞰するような冷静な視線を持ちながら、熱い血潮の通ったキャラクターを好演される。その説得力を持つ演技を好きになった。
そんな久保田さんが、今回初めて、演出家として舞台を手掛けるという。

私のような演劇論も知らぬ素人が言うまでもなく、「役者」として優れている人が「演出家」として優れているとは限らない。演出家は座組の舵を取り、向かうべき方向を指し示さねばならない。一人の役者でいるときより、ずっとずっと重責の伴う立場に置かれることとなる。観る舞台を演出家で選ぶ人だっているほどだ。その手腕は常に評論の的となる。
役者としての久保田さんをずっと見てきて、どんな役であろうと彼が演じるならば間違いない、と信頼してきた。
しかし、そんな彼が初めて演出をすると聞いたとき、演出家としてはどれほど信頼できる人であるのか、実際に舞台を観てみないと未知数だとも思った。
それは、推しへの贔屓目で「推しがやることなら何でも素敵」と思ってしまう自分を律する気持ちもあったかもしれない。
推しがやることは、相手が推しだという時点で、絶対最高に決まっている。でも、彼を推しているわけではない人から見ても素晴らしいと評価されてほしいと思う。もし今後、俳優としてだけではなく演出家としても活動の幅を広げていかれることになるなら、ファン以外の人からも高く評価されることこそが肝要になってくるに違いない。
一ファンの分際で何を偉そうに、という感じなのだが、推しの今後の益々の活躍を祈念すればこそ、贔屓だからという理由を抜いた場所で、実力を純粋に高く評価されてほしいと思う。
だから私も、推しが推しであることをいっとき忘れ、その未知数の実力を拝見したい。そんな思いを抱きながら、開幕を心待ちにしていた。

そんな心持ちで迎えた舞台『BASARA』。
久保田さんが揚羽を演じる回を先に観たらどうしても贔屓してしまうと思い、瀬戸さん揚羽回を先に1回、そして翌日久保田さん揚羽を1回。それぞれ1回ずつと決めて劇場に向かったが、大変良い舞台だった。
一言で表すなら「誠実」そして「真摯」。何より、舞台演劇の面白さを引き出して魅せようという演出家の熱い志が端々に光っていた。

結論から先に言おう。
久保田さんは、役者としてのみならず、演出家としても、とても信頼できる人だ。


・・・・・・・・・・・・・・・

※この先、舞台のネタバレのみならず、原作『BASARA』の最終巻(外伝など含む)までのネタバレを含みます。
原作未読で、その先の展開をまだ知りたくない方は、どうぞご注意ください。

また、贔屓目をなるべく忘れるとは言ったものの、どうやっても「推しがやることは何だって素敵!」に見えるファンの個人的な意見なので、自分はそうは感じなかったな違うなと思う部分があっても、贔屓目のもたらすものとしてご笑納いただけると幸いです。


舞台の感想に入る前に。
残りは全部褒めているので、どうか最初に一つだけ、愚痴のような要望をお目に入れることを許してほしい。
次作があるならどうしても、これだけは改善されたらなと思うことが一つだけある。
それは発表のタイミングとチケット販売スケジュールのことだ。
今回の舞台、開幕まで1ヶ月半もない状態での突然の発表とチケット販売開始という、怒涛のスケジュールだった。
1ヶ月半前ともなると、先に発表されていた別の舞台のチケットを取ってしまっていることもあろうし、遠征組にとっては交通手段や宿の手配など、もう少し早く分かっていれば安く抑えられたのにということだってある。シフト勤務の人ならば休みの希望が締め切られていることもあるだろう。なおまるで一般論のように言ったが、半分くらいは今回の私のことである。
無論、舞台というのは多くの人が関わって作られているものなので、私には計り知れない大人の事情だってあると思う。あれが情報を出せた最速のタイミングだったのかもしれない。
それでも「大体何月頃にこの演目をやる」という情報だけでも、続編が無事に作られるならば、もう少し早く出てくれたら助かるなと思った。
それだけが、今後運営に改善点として望むこととして残った。

しかし逆に言うと、スケジュールの唐突さ以外、その内容に関しては不満らしい不満や引っ掛かりのおよそ残らない、見事な舞台であったとも言える。


【原作を取りこぼさないストーリー】
まず何よりも安心したのは、「原作を大切にしたストーリー展開」だった。
原作コミックである『BASARA』は、読んだことのある方ならご存知の通り、壮大な大河ロマンである。エピソードのひとつひとつがヒロイン・更紗の成長に必要不可欠で、どんな小さな出来事でもひとつ取りこぼしただけで、あの結末に辿り着くことは叶わない。
原作ファンは、あのエピソードもこの台詞も、大切だから削ってほしくない! とわがままなことを思うものだ。長く愛され続けている作品であるならば尚のこと。
舞台『BASARA』はそんなファンのわがままな期待を、裏切らないストーリー展開であったと思う。
あの台詞も、あの場面も。細かな目で織り上げられた布で砂漠を丸ごと包み込んで、一粒の砂もこぼさぬように運んできたがごとき丁寧さで、2次元に広がっていた原作の世界が、3次元の舞台の上に立ち現れた。
言葉の通り、まさに「2.5次元」舞台。
原作のあの場面が今目の前にあるという感動。「大好きな作品の中の彼らが、今ここに生きている!」という、初めて2.5次元舞台を観たときに抱いた胸が高鳴るほどの新鮮な感動を、改めて思い出させてくれた。

ストーリーに関しては、取りこぼさないようにした分、ぎゅっと詰め込んであって、原作未読の人には少し忙しかったかもしれないとは思う。
そもそも、台本が最初3時間半ほどあったのを、2時間20分に縮めたというのだ。多少の駆け足感は覚悟の上の構成なのだろう。

それでも、久保田さんがこのインタビューで「数々の名言をこの時代に伝えていきたい」と仰っていた、その言葉の通り、原作を読んだときに心に残った愛するあの台詞が、ひとつ残らず入っている。大切なものを全部取り込んで、本当に必要なものは無くなっていない。それが原作ファンとして嬉しかった。原作を大事にしようという、スタッフ・役者一同の思いが感じられるようだった。

また、舞台のストーリーが本編最終話の、ナギの昔語りから始まるのには驚いた。
「最後までしっかり終わらせる構想」とはインタビューで久保田さんも仰っていたが、その決意の固さや意気込みを最初に見せつけられた思いだ。

今回は九州に行って、朱雀の宝刀を手にしたところまで。日本全国を駆け巡る更紗の旅はまだまだ続く。
どうかこのまま続いていって、数年後、最終章の舞台の上で、今回の冒頭のナギと角じいの昔語りが再び聞けることを願っている。

さらに、舞台上で台詞として説明はされないが、四道の最期の走馬灯のような回想シーンで、過去の揚羽が出てきたとき、アロを出してきたのには驚いた(これは舞台を観て気付いたのではなく、事前にアロ役の方がいらっしゃることを知っていたからアロだと分かったのだが、もし事前に知らなくとも「おっ! あれはもしや!」と思ったんじゃないかと思う)。
アロは揚羽が今の揚羽になるために欠かせない、揚羽の初めての大切な女性だ。しかし更紗と朱理の物語をしているところで揚羽の過去を語ってしまえば、話のピントがぼやけてしまうだろう。そこで、ああして「何かあった」ことをさらっとイメージシーンで匂わせてみせたのは、とても上手いと思ったし、原作ファンへのご褒美だった。

今後、物語はさらに複雑さを帯びて、現在地も勢力図も目まぐるしく塗り替わっていくこととなる。
その物語が今回のように、丁寧に、こぼさずに、この先も展開していってくれたらよいなと思う。


【舞台ならではのアナログさの魅力】
今回の舞台で印象に残ったのは、最近の2.5次元舞台ではもはや必須装備のようになったプロジェクションマッピングが使われていないことだった。
特に関門トンネルのシーンの獅子など、プロジェクションマッピングでリアルな獣の映像を投影することだってできただろう。温泉のシーンだって、海のシーンだって、映像で背景を作ることはできたはずだ。
精緻な映像を使うことで、近年の舞台はその表現の幅と可能性を大きく広げた。
しかし、リアルな映像を使わないからこそ想像力が掻き立てられることもある。どんなものだってそうだけれど、良い面と悪い面が必ずあって、プロジェクションマッピングの良い面は、よりリアルな情景のイメージを全員が等しく共有できること。悪い面は、見える映像が全てになってしまうことだと思う。
更紗が暗いトンネルの中で対峙した猛獣の姿。もしそれがリアルな映像で表されていたら、きっと観客全員がそれをライオンだと一瞬で理解できたことだろう。しかし意地の悪いことを言ってしまえば、その瞬間、それは「ただのライオン」になって、原作で描かれたような、「暗闇の中で唸り声を上げ目を炯炯と光らせ獲物を狙う、大きさも正体もうかがえない恐ろしい敵」ではなくなってしまう。
――無論、映像を使おうが使うまいが、最終的に決め手になるのは役者さんの演技力だろう。そこに実際にはいないものを、自分のリアクション、演技を通して観客にも見えるようにする。何もないはずの場所に、何かが見える瞬間が訪れる。それは舞台演劇だからこその表現で、舞台演劇の楽しさ、想像する楽しさだ。
こういった舞台演劇だからこその表現方法を、久保田さんは今回敢えて選んでいらっしゃるようだ。

https://theatertainment.jp/japanese-play/93055/

「ミロのヴィーナス像は、腕がないからこそ美しい」と言われる。
そこにあったかもしれない腕がどんなポーズを取っていたのか、人はそれぞれに自分の思う理想の美を投影するからこそ、ミロのヴィーナスは愛され続けるし、人の興味を引き続ける。
この舞台『BASARA』もきっと同じだ。観客の想像力を膨らませようとするアナログな演出を選んだからこそ、原作ファンは原作通りの光景を舞台の上に見られるし、原作を知らない人には想像力をフル稼働させる楽しみを与えてくれる。
揚羽も言っていたではないか。「何か欠けてるものの方が、完璧なものより美しいってね」と。
舞台『BASARA』は、舞台ならではのアナログな表現を使ったからこそ、却ってリアルな手触りを得ることに成功しているのではないかと思う。映像で完璧に見せようとしないからこそ、観客は舞台の上に、遥かに広がる砂漠を、まほろばのような蘇芳の都を、更紗が初めて見た青い海を、火を吹く桜島の姿を、美しく自由に思い描くことができる。
舞台でしかできない、舞台化だから意味のある表現をやる。
そんな気概が感じられ、とても好ましく面白く思った。


【演出について】
本来、私のような素人の観客が演出家の仕事をどれほど見抜けているものなのか、私には判断が付かない。私たちは演出家が稽古場でどんな指示を出し、どんな構想を以てどんな舞台を作ろうと思い描いているのかを、役者の演技を通してしか知ることができないからだ。それが役者の工夫なのか、演出家の指導によるものなのかを、舞台上を見ている限り、判別する目を私は持っていない。
それでも舞台を見ているうちに、何か根底に流れる「思想」や「意思」のようなものを、漠然とだがフッと感じる瞬間がある。もし他の演出家さんがこの舞台を手掛けていたのなら、役者さんが同じでもきっと違う雰囲気になったのではないかと思う瞬間。この場面の感情を、こんな風に付けるのか。この台詞をこういうトーンで解釈したのかと思う瞬間。
それを演出家の「色」だと判じて良いのなら、確かに久保田さんのカラーを感じさせられる瞬間がこの舞台にはいくつも存在した。
たとえば四道の最期のシーンの激しい慟哭の見せ方や、運命の子供としての使命を背負いながらも新しい景色に目を輝かせる初々しい少女としての更紗の様子。また、ここぞという場面でのキメのポーズの作り方や、観客からの視線の集め方。
役者として板の上に立ってきた時間の長い久保田さんならではのノウハウが、そういった細部に活かされているように感じた。そして時折挟まれる、嫌味のないクスッとさせてくれる笑いも、久保田さんの演出であればこそ生まれたものだろう。

そしてお名前を引き合いに出すことをどうか許してほしいのだが、私はこの舞台の演出、西田大輔さんの影響を色濃く受け継いでいるように感じた。
久保田さんに細貝さん、殺陣師が中村誠治郎さんと新田健太さんという、かつて西田さんの演出する舞台『戦国BASARA』で縁のあった方々が集結した舞台だからというのも一因としてあろうが、そう感じた理由はそれだけではない。
アンサンブルさんのダンスが場面作りに果たす役割や、激しい殺陣に感情を載せて物語を進行させていく見せ方。ここぞという盛り上げどころで流れる音楽の効果的な使い方。そういう西田さんが得意とする手法を思い出させるところが、この舞台『BASARA』にはあった。
一応補足をしておくなら、似ているとか真似だとかいう意味では決してない。久保田さんが「恩師」とまで呼んでいらっしゃる西田さんの演出を受けて長年かけて蓄積してきた「良い経験」が結晶となって、ここに披露する機会を得た、と感じたのである。
無論、西田さん以外にも、薫陶を受けたと感じておられる演出家さんは多くいらっしゃるだろうが、舞台『戦国BASARA』時代の記憶がある観客の目には、あのときの経験がこの場所に確かに繋がっているのを感じ、まるで伏線が回収されたひとつの物語のようで、とても嬉しく思ってしまった。

そして演出の面白さとはまた別に、演出の丁寧さ、真摯さがワンシーンごとに伝わってきて、それが観客として心地よかった。
先にも述べたように、原作を大切にした、取りこぼさぬようにしようという意思の見える舞台で、インタビューでも仰っていた「全員に見せ場を」という言葉の通り、原作をただなぞるのではなく「原作の魅力を伝えよう、魅せよう」という確かな心意気を感じた。その丁寧さは原作ファンがとても重視し好むところだろう。
それに観終えたとき、「あの場面はちょっとどうなんだろう」と悪い引っ掛かりを覚える部分が個人的になかったのだが、これはすごいことだと思った。
どんなに好きな良い作品でも、ちょっとした表現が肌に合わないなと感じる部分の一つや二つがあることは決して珍しくないのだが、そういったモヤッとする部分が、この舞台では不思議なほどになかったのだ(但し、これは私の贔屓目がどうしても入っている感想なので、いやそうは思わなかったぞという方がいたら申し訳ないです)。
ツイッターでもちょっと言ったが、久保田さんがこれまで役者として、出演する作品や演じるキャラクターだけではなく、そのファンまでもを大切にしてくださる方だと感じてきた。その真摯さは、演出家という立場を得たとき、こんなにも優しいまなざしとして作品を包み込むのかと思った。
この人は観客を大事にしてくれる演出家さんだ、という信頼の情が、観終えたときに残った。
この方の演出なさる舞台なら、きっとどんな作品だって安心して観られるんじゃないか。
そんな風に思わせてくれるだけの誠実さを、(贔屓目はどうしたって多分あるのだが)私はこの舞台の向こうに見た。

舞台『BASARA』の続編のみならず、もっと多くの作品の演出を手掛けていかれることになるかもしれない。
そのときが、今からとても楽しみでならない。

・・・・・・・・・・・・・・・

さて、特筆すべきだと思った部分は上記の3点であるのだが、何せ推しが演出した舞台である。あれも良かった、これも良かったと語りたいことはまだ山程ある。

私はこういう感想を書くとき、なるべくメインキャスト全員についての感想を一言なりとも述べるようにしている。この長くくどい文章を読んだ挙句、自分の推しについて一言も書かれていないと分かったとき、読んでくださった方ががっかりすると思うからだ。
ただ今回はWキャストで、劇場で観た2回どちらでも相沢さんの茶々を拝見できなかったのと、つい贔屓目や記憶のキャパの限界で分量の多寡はあるのだが、その辺りはどうぞお目こぼしいただきたい。

まずは主人公の更紗。
舞台は2回目で初主演という田中珠里さんは、上演時間2時間20分のうち、ほぼ出ずっぱりに近く、「更紗」と「タタラ」の演じ分けや殺陣もあり、とてもハードな役をこなしていらっしゃる。
一瞬たりとも気が抜けない主役を懸命に生きる彼女の姿は、運命を背負って一瞬の油断も許されない戦いに臨む更紗――タタラとしての更紗の姿とそのまま重なった。
一方で、蘇芳の都の活気に目を輝かせたり、初めて見る海に抑えきれない喜びを表したり、朱理との出会いに小さな胸のざわつきを覚えたりといった、普通の少女・更紗としての顔を覗かせてみせる。そのかわいらしさを見ていると、つい応援したくなった。
このずっと後の話で、茶々が更紗に言うことになる。「この中の誰も、あんたが『タタラ』だからついてきたわけじゃないよ。あたしらが好きなのはあんただからね」と。それを思うと、「応援したくなる更紗」だと観客に思わせられるかどうかは、おそらく更紗役の重要な勝負どころだ。
田中珠里さんは、その点、見事なまでに更紗の資質を備えた更紗だと思う。周りに支えられて、愛されて、信頼を集めながら皆を率いていくパワーのある更紗だ。
冒頭でも述べたが、どうか無理せず休養なさって、今後も更紗として舞台に姿を見せてくださったらと思う。


朱理の宇野くんは、キャストが発表されたときにものすごく喜んでしまった。
私が宇野くんを知ったのは、久保田さんが主演の舞台『仮面ライダー斬月』だ。宇野くんは振り切った全力の演技を毎公演見せてくれていた。こうしてまた久保田さんと共演してくださったのが嬉しい。
彼の魅力は何と言っても、あの力強い目だろう。くっきりと切れ長の、強い意志の光を宿した瞳。「目力」という言葉がとても似合う目をしている。
その彼が、苛烈な赤の王・朱理を演じて似合わないはずがなく、ビジュアルからして満点でしかない。
無論ビジュアルだけでなく、演技だって今回も全力のものを見せてくれた宇野くんだが、彼が赤の王を演じているとき、まばたきが驚くほど少ないことに気が付いた。
一般的にまばたきの少なさとは、心の揺らがなさ、無機質さ、人間味の薄さを表現する手段の一つであると思う。赤の王でない一人の男・朱理を演じるシーンでも、まばたきが急に多くなることはないのだが、それにしても赤の王は、まばたきのタイミングをとても意識的に調整しているように見えた。それを私は、更紗にとっては非情な暴君である赤の王の、人間味の薄さを表すための工夫だろうかと思ったりした(元々の癖としてまばたきが少なめだという可能性もあるのだが)。
つい小さなところばかりに言及してしまったが、それだけではない。宇野くんの朱理には圧倒的なまでの、支配者としてのオーラを感じる。彼もまた「運命の子供」なのだと思わせてくれるだけの、更紗に負けないほどの引力がある。
台詞のひとつひとつも歯切れよく、動きに華がある、堂々たるはまり役な朱理であった。


ナギの岩永さんは、ニチアサクラスタでもある私にとっては何と言ってもエグゼイドの檀黎斗役の印象が強い。ドラマや映画で他の役もいくつか拝見しているが、檀黎斗が色々な意味で群を抜いて強すぎる。
岩永さんを舞台で拝見するのは今回が初めてだったのだが、驚いた。檀黎斗を演じた人と、同一人物だと全く思えないのだ。役者さんというのは本当にすごい。
静かで深みのある声と語り口。ひとたび戦闘になるとまったく非力で、まっしろで、まっさらで、神秘性を兼ね備えていて、でもどこか温かい。
原作ファンであるという岩永さんらしく、緻密に作り込まれている、ファンが夢に見るようなナギだと感じた。
ときに、ナギの台詞で原作との違いに「おっ?」となった部分があった。
それは柚香を「タタラの花嫁候補ですから」と揚羽に説明する台詞だ。
原作では、ナギはつい「花嫁候補だったですから」と口にし、揚羽は「だった?」と小さな引っ掛かりを覚える。しかし、舞台のナギは「だった」を言わない。
台本からそうであったのか、稽古の中でそう決まったのかは分からないが、もし台本時点で「だった」の一言が抜かれていたのだとしても、これほど原作を重視するチームがこの「だった」の微妙なニュアンスが持つ重みを見逃すはずはない。
となれば、稽古の段階で、「ナギは更紗をタタラとして扱っているのだから、『だった』と言うのは本来失言である。原作ではナギですらまだ更紗がタタラという現状に心の中では対応しきれていない混乱を表すために『だった』としたのかもしれないが、舞台ではストーリーの進行的に、更紗を完全にタタラとして扱っている方が、観客にも混乱が少なく都合が良い」としたのだろうかと、完全なる妄想ではあるが、想像した。もしくは、「だった」と過去形なら柚香が今はフリーで、揚羽の運命の女性である可能性が残されてしまうかもしれないから、「だった」を抜こうと決めたのかもしれない。
――どのような経緯で「だった」を言わない選択をしたのかは分からないが、この小さな違いを私はとても好意的に受け取った。一言一句を違えず原作通りにやってくれるのも嬉しいが、変わったときにその裏に制作側の意図が見えて、原作の良さを損なわず筋が通っているならば、それは歓迎すべき「解釈」だと私は考える。
もしどこかで機会があるならば、あの「だった」を抜いた経緯について、どこかの媒体がインタビューなどで聞いてくださらないかなと期待している。


ハヤトの野口準くんについては、MANKAI STAGE『A3!』の向坂椋役として、友人から借りた円盤で拝見したことがあった。
向坂椋という役は、控えめでちょっと気弱で、自虐を暴走させるけれど確固たる夢を持つ、目が離せないかわいらしいキャラだと私は思っており、そんな椋を好演していた野口くんが、元気でちょっとお調子者なところもあって、でも素直で明るいハヤトという役をどう演じるだろうと思っていたのだが、本当によく似合っていた。
これほどアクションができる方だというのを知らなかったので、刀や弓を器用に扱い大きく立ち回ってみせる姿に驚いたし、彼がハヤトを演じてくれて良かったと、舞台を観ていてしみじみした。
ハヤトのひとつの見せ場である、亡くなった母親の手紙に背を押されて旅に出ることを決意するシーンが、個人的にとても印象に残った。というのも、これまで原作を読んでいたときは迂闊なことに考えもしなかったのだが、予言を受けていないだけでハヤトもまた朱雀の末裔としての使命を課された「運命の少年」であることに、舞台のハヤトを見ていて初めて気付いたからだ。
更紗も朱理も、生まれた瞬間から「この子は運命の子供」だという予言を以て、逃れられぬ呪いを受けている。ハヤトは予言を与えられた子供ではないが、「木曜に生まれた子は旅に出る。自分の血を信じて進め」という言葉を母から遺され、「血」という逃れられぬ一種の呪いを背負って(自分で選んでではあるが)旅に出る。そんなハヤトというキャラの特殊性に、この舞台を観ていて気付かされた。
原作を読破した方ならご存知の通り、更紗と朱理の決着がついた後、ハヤトはとても大切な役目を果たすことになる。
予言を持たぬ運命の子供・ハヤトが、今後舞台でどう描かれていくのかが楽しみだ。


千手姫はどちらの方も、漫画から抜け出て来たかのような美しく凛とした千手であった。
Wキャストの細かい違いをどれほど見抜けているか自信がないが、ふわっとした印象で語って良いなら、田中美麗さんの千手姫には「深窓の姫」という形容が相応しく、世間ずれしていない育ちの良さと四道を一途に慕う純粋さ、かわいらしさを感じたし、上西恵さんの千手姫は「賢い女性」という印象が強く、四道を困らせまいとわがままを抑えようとするいじらしさと、それでも雨の中駆け付けてしまう激しさが共存していたように感じた。


茶々と座木の再現率は、感動するほどクオリティが高かった。
私が拝見したのは原あや香さんの茶々で、あの奇跡のような美しいボディラインはもはや2次元でしかなく、出てくるなり思わず見惚れてしまった。
くっきりキリッとしたお顔立ち。海賊の頭領として仲間を率いる豪快さ、気風の良さ。誰にも負けない剣の腕。
どこを取っても完璧な茶々で、よくぞこれほどピッタリな方をキャスティングしたものだと思った。
座木のお二人も北村さん、熊沢さん共に格好良く、寡黙に茶々に寄り添う様子は、原作の雰囲気そのものだ。
またしてもふわっとした印象で語ってしまうが、北村さんが相手の茶々は自由奔放に生きる女頭領の勇ましさをより強く感じたし、熊沢さんが相手の茶々は座木への信頼と親しみをより強く感じるように思った。
あくまでもふわっとした印象でしかないので、円盤が出たら細かい違いをじっくり確認してみたいと思う。

角じい、錵山将軍、亜相の三人は、ビジュアル公開されたとき、ひたすら「すごい」の一言だった。よくぞこれほどビジュアルを原作そっくりに寄せたものだ。
特に亜相の赤塚さんは、本物の亜相かと思った。計算高くちょっと嫌味で良い意味で小物感のある(しかしどうにも憎めない)亜相。歩き姿のちょこちょこした感じも、亜相なら絶対こんな動きをする! という想像の通りだった。
阿見201さんの錵山将軍はまず存在感が圧倒的で、存在感とは説得力でパワーなのだな……と思った。威圧感のある風貌のはずなのに、ふとした瞬間に緩んで優しげな雰囲気を醸し出し、人間臭さのある錵山を原作より少し強めに感じた。
そして角じいは厳しさと優しさを兼ね備えた(時々コメディリリーフ的役割も担う)角じいで、更紗の横にナカヤマムブさんの角じいの姿が見えるとホッとした。茶々との飲み比べのときに、更紗を「息子みたいなもんでして」と庇うその台詞の通り、親と離れた更紗にとって頼れる大人で親代わりであるのだが、とても頼もしくてお茶目で、愛すべき角じいだった。今から網走での活躍が楽しみでならない。


四道が細貝さんだというのは、舞台『戦国BASARA』時代の蒼紅を観た者にとっては、言い尽くせぬほどの感慨があった。感慨深すぎて、「いいから細かいことはパンフの対談を読んでほしい。それがすべてだ」としか言えないくらいだ。
更紗が赤の王に向かっていく中で初めてぶつかった大きな壁であり、朱理の無二の親友且つ腹心であり、揚羽がひとかたならぬ複雑な思いを抱く相手である四道は、今回のストーリーの中で、主役の更紗と朱理に次いで重要な役である。
その重要な役に久保田さんが揚羽として、そして演出家として細貝さんを選んだこと。そしてとてもお忙しい中、久保田さんの初演出作品にならばと細貝さんが参加を決めてくださったこと。お二人がこんな形でまた共演してくださることに、蒼紅時代のファンとしては感謝しかない。
細貝さんの四道は、「仏の四道」の穏やかさと冷酷さの両方を見事に表現されていて、千手姫や朱理を前にしたときはあれほど優しげな顔をしているのに、タタラの話になるとピリッと纏う空気を変える。
四道のシーンはどれも印象深いのだが、特に好きなのがタタラと対峙する場面だ。
朱理のためならいくらでも非情になれる男が、目の前のタタラを討たんとするが、そのタタラは朱理が思いを通わせる少女と同一人物だと気付いてしまい逡巡する。原作序盤の中でも屈指の名場面だが、それを舞台で細貝さんの四道が演じたら、こんなにも胸に迫る場面になるのかと思った。
朱理のために殺さねばならない。
しかし殺してしまえば朱理は悲しむ。
「仏の四道」は人として迷い、その迷いが命取りとなった。
あまりに哀れな、しかし見事な四道の最期を細貝さんは演じてくださった。
今後、今回の舞台『BASARA』のことを思い出すとき、四道の「朱理よ……!」と叫ぶあのシーンがきっと真っ先に浮かんでくるだろう。そのくらい強く印象に残る、無二の四道だったように思う。
あと、原作で絶対ファンがいるであろう四道のサングラス姿をやってくださったのは嬉しかったし、それをさらっと小ボケのネタにしてしまうところも楽しくて好きだ。さらに細かいところを言うと、あの身の丈ほどもある長いマントを美しく捌く身のこなしもさすがすぎるの一言だった。四道のマントが翻るたびに、思わずうっとり見つめていたのはここだけの話だ。
原作の展開的にありえない話なのだけれど、この四道がもし倒されず、あの朱理とこの先も共に駆けていったなら、どんな国になったのだろうと夢想させられた。


揚羽をWキャストで演じた瀬戸さんを、私は斬劇『戦国BASARA』ぶりに拝見した。
ビジュアルが出た時点で素晴らしく美しい揚羽だと感じたが、舞台で姿を観た瞬間、涙ぐむほどに感動した。
本当に、本当にかっこいい。
久保田さんが、細貝さんと並んで名を挙げた、長く共にやって来た戦友のお一人だということで、彼が出てくるシーンは空気の安定感が一味違う。衆目を一気にかっさらい、場の空気を作り上げる姿は、まるで揚羽その人だ。
身のこなしが常に軽やかで、「風の人」としての揚羽を立っているだけで感じさせてくれて、軽快で、なのにどっしりしていて、殺陣はおそろしく鋭い。
帰蝶姿の妖艶さに至っては、圧巻と言う他あるまい。あんな女装なんて漫画だからこその表現なはずなのに、3次元で再現してしまってまるで違和感を抱かせないなんて、何ということか。
久保田さんの帰蝶と比べて、より女性的で可憐さのある帰蝶だったように思う。


そして久保田さんの揚羽。思い切り贔屓して語るが許してほしい。
そもそも私が原作の『BASARA』を読んだきっかけは、『仮面ライダー鎧武』放送当時、呉島貴虎好き仲間の友人と本屋に行って、内容すらミリしらだった『BASARA』を見かけ、友人に「これの揚羽という役を久保田さんが以前舞台で演じたらしい」と教えたところ、「揚羽に久保田さんはぴったりすぎる。そしてこの作品はとても良い」とすすめられたのが始まりだ。
そのすぐ後に原作を大人買いし、友人の言葉がとてつもなく正しかったことを痛感し、久保田さんの揚羽を生で見られず勿体ないことをしたと思いながら生きてきた。

しかし今回、久保田さんが再び揚羽を演じる姿を観られるという。
しかも、初めて演出にも挑戦なさるという話だ。
観に行かないという選択肢がなく(と言いつつ、実際は予定が苦しくて行くかどうかさんざん悩んだのだが)、もし行かなければ今後の人生絶対後悔し続けると思って、無理を通して予定を空けて、無事に観に行くことが叶った。
悲願と呼べるほどに焦がれていた久保田さんの揚羽姿は、それはもう最高だった。
一番好きだと思ったのは、久保田さんの揚羽のまなざしだ。サンモールの劇場内を通り越して遥か遠くを見つめるような遠い目をする久保田揚羽を見て、私はその視線の向こうに、遥かに広がる砂漠を感じた。
こんなまなざしひとつで、自分が見せたい光景を観客に正しく見せられるなんて、演劇漫画のワンシーンのようだった。本当にこんなことができる人がいるのか、と思った。
瀬戸さんの帰蝶を先ほど「久保田さんと比べてより可憐で女性的」と言ったが、久保田さんの帰蝶はというと、決して「女性的」ではないと思う。しかし帰蝶らしい色気を有していて、何より原作から感じる「ごつい美女」感が満載で、凄みがあって素晴らしかった。本当に私がずっと思い描いていた通りの帰蝶さんだった。

W揚羽の違いは他の部分もとても面白くて、まずひとつは赤の王に目を切られたときのリアクションの違いが印象深かった。
瀬戸さんの揚羽は黙って痛みに耐えながら、平気な顔をして去っていく、まさに「屈辱になら耐えてみせてやる」と言わんばかりの揚羽だが、久保田さんの揚羽は怪我の具合を探りつつ、ここで片目を失うのも運命だったとあっさり受け入れたような、飄々とした揚羽に見えた。
どちらも実に揚羽らしいリアクションだったように思う。
そして最も注目すべきは、おそらく四道との最後のやりとりだろう。
これは私の勝手な感情移入と思い込みかもしれないが。
瀬戸揚羽から感じたのは「最後の一瞬まで理解し合えなかったことへの哀しみと断絶感、対等になれなかったことへの恨み」で、久保田揚羽から感じたのは「相容れぬ相手への断ち切りがたい未練と、深すぎるがゆえに怒りにとても良く似た形を取った嘆き・哀しみ」であった。
重ねて言うが、人は自分の見たいものしか見えない生き物であるからして、これはあくまでも私の勝手な妄想である。そして、どちらの解釈がより良いとか、より好きだとかいうわけではない。
どちらもが正解で、最高だ。

再び久保田揚羽の話に戻るが、それはそれはかっこいい。
誰よりも強く、気高く、大胆で飄々としていて自由。殺陣は年々キレを増し、まるで衰えを知らない。何気ない動きのひとつひとつがまるで舞を舞うように華やかで軽やか。観た者が思わず魅了される揚羽だ。
さらに日替わりのアドリブであろうか。私が観た回では、ふと肩を気にする様子を見せたかと思ったら、「お? 蜻蛉! 蜻蛉!」と蜻蛉を探しながら捌けていったシーンがあって、めちゃくちゃに感動してしまった。
こういうことをわざとらしさ無しでサラッとやってくださるから、久保田さんという役者を尊敬するし、大好きだ。観客とファンが喜ぶものを本当によく知っていらっしゃる。
ちなみに原作未読の方に向けて念のため説明しておくと、原作の揚羽は通信用に「蜻蛉(かげろう)」という名のフクロウを飼っているのである。その息子である「新橋」という名のフクロウと、兄・タタラの愛馬だった「夜刀(やと)」が、原作においては更紗の旅の相棒であるのだが、さすがに舞台上で出すことは難しく、省かれてもやむなしと思っていたが、久保田揚羽の一言で、蜻蛉は今ちょっと留守にしているだけでこの世界にいるのだと分かり、あの台詞に喜んだ人はきっと多かったんじゃないだろうか。

今回、久保田さんが初めての演出をなさるということで、細貝さんと瀬戸さんという長いお付き合いのある戦友が四道と揚羽という重要な役を演じ、舞台『戦国BASARA』で共演し刀を交えた中村さんと新田さんが殺陣師として参加され、共演したことのある宇野くんが主役の片方として立つこととなった。
そもそもの元を辿れば、2012年版の舞台で久保田さんが揚羽を演じたときの縁があったからこそ、今回の新生舞台『BASARA』も実現した。
これまで大切に育まれてきた絆と縁が集結し、新しい挑戦のもとに舞台を作り上げる。
それはまるで更紗が四神の刀を集めながら呼応する人を集め、絆を結び、革命を起こしていく姿とそっくりだ、とは言いすぎだろうか?
だが言いすぎでもいい。贔屓目で言わせてもらうが、今回の舞台は久保田さんの積み重ねとお人柄あってこそ、これほどのものになったと思う。


中村さんと新田さんの付けた殺陣がさすがのかっこよさだったこととか、タタラの人相書きが多分日替わり(?)でその芸の細かさに感心したこととか、本当はまだまだ語り足りないのだが、止めどころが分からなくなりそうなので、ここで一旦切っておく。

『BASARA』の物語はまだまだ続く。物語の結末から舞台の最初のシーンを始めたくらいだし、関東編をほのめかす終わり方をした以上、続編をきっと作ってくれるものと信じている(ついでに言うなら浅葱に誰がキャスティングされるかを私はとても楽しみにして勝手に予想までしている)。

舞台は、これから見に行く新しい景色へ期待を寄せる更紗の笑顔で締めくくられた。
しかし彼女の目の前に広がるのは、わくわくする美しい光景ばかりではない。ときに過酷で厳しい試練の道だ。
故郷の砂漠を飛び出した彼女の瞳に映る新しい世界は、果たしてどんな色をしているのだろう。
一緒に観に行きたいと、心から思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?