豆パン

往来の多い街中で、男女が駆け寄り抱擁を交わす。なんて感動的なシーン。たくさんの人の中でも、ひと目を気にする余裕もないほどの抱擁。よっぽどこの男女に何かがあったんだろうな。長い長い遠距離恋愛の終わりか、ハリウッド映画よろしく命を懸けた秘密裏での戦いのクライマックスか。

スクランブル交差点を見下ろす、パイが美味しいと人気のカフェの窓際の席で少しだけ口元が緩む。もちろん彼らの再会に本当に感動したわけではない。全く知らない他人の抱擁を見て幸せな気持ちになれるほど私の器は大きくない。むしろ、けっと悪態をついてしまうタイプだ。ただ、売り切れていることも多いお気に入りの豆パンとコーヒーを買って、お気に入りの日当たりの良い席が空いていて、なんていい日だと思っただけ。パイが美味しいと皆言うけれど、私は昔からここの豆パンがお気に入りだった。そう言えば昔、誰かとここに来て、「ここはパイもいいけど、豆パンがおすすめだよ。」と教えてもらったことを思い出す。

そんなうきうきした気持ちのまま何気なく交差点を見下ろした。あ、あの人のコート可愛い。あ、あの人の髪色綺麗。そんなどうでもいいことを思いながら往来を見ていた。

「ごめんお待たせー。」往来の中を走ってきたのだろう。彼はいつもヘアアイロンで伸ばしている天然パーマの髪の毛を汗の湿気でくるりとさせながら両手を合わせてごめんのポーズをする。

「大丈夫、おかげでいい席取れたから。朝から何も食べてなかったから、お昼ご飯にもちょうどよかったし。あなたも何か飲みなよ。」特等席に腰を下ろして、お気に入りの豆パンとコーヒーを装備した私はいつもより器が大きいのだ。彼の1時間の遅刻なんてあっさり許してしまう。他人の抱擁は許せないけれど。

「カフェラテ買ってくるー。」と言ってレジに向かっていく背中を見ながら、初恋の彼の名前を思い浮かべた。松田恵。名字と名前の頭文字を取るとまめ。恵と書いてめぐむと読むんだったな、確か。恵なんて女の子っぽい漢字だと、昔からあの人は気にしていたっけ。彼がそう言うたび、私は嬉しくなった。私の名前も恵という漢字が入っていたから。彼に私は女の子だ、と言われているような気がしてちょっとだけ照れたりもした。小学校からずっと空手を習っていた私には程遠かった女の子という言葉。それを初恋の人に言われた日には、嬉しくなっちゃうじゃないの。なんて昔を振り返る。

「お待たせー。」

カフェラテを持った彼が私の向かいに座る。彼は、私の彼で、つまり、彼氏で、間宮芽斗という名前だ。また豆。初恋の人の名前も、好きな飲み物も、好きなパンも、彼氏の名前も豆。

「さっき下の交差点のど真ん中でめっちゃ熱い抱擁を交わしてるカップルがいてさー、映画みたいだったよ。」

「この人通りで?爆発すればいいのに。」

芽斗も他人の抱擁は許せないタイプらしい。

「芽斗の名前ってさぁ、名字と名前の頭1文字とれば豆だよね。」

初めて出会った日に気づいたことを、付き合って2年になるこのタイミングで話したのは、豆パンとコーヒーにでも酔わされていたのだろうか。168センチと、決して身長が大きいわけではない彼はもしかして気にしているんじゃないかなんて思ったりして、今までずっと言わなかったのに。

「うわ、それ気づいた?俺ちっさいからよくそれでからかわれてたんだよねー。まぁ枝豆とか好きだったからそこまで気にしてなかったけどさ。」

からからと笑う彼は本当に気にしていないようだった。

「そんなこと言うならさ、つむぎって名前、小麦みたいだよな。俺ら足したら豆パンになるよ。」

全く気づかなかった、というか気にしたことなかった。むぎ、と呼ばれていたことはあるが小麦と呼ばれたことはなかった。

「だから私、あなたを好きになったのかな。」頭の中の声がそのまま外に漏れていた。「あなたと一緒になれば、大好きな豆パンになれるからね。」

「俺材料扱いかよ」

大好きな彼と私で豆パンを食べている。豆パンの共食いと言うやつか、そもそも豆パンは共食いするの?そこまで考えてふっと笑みが溢れた。

大好きなものに囲まれた生活、悪くない。

「ねぇ、将来は家で豆パンを作ろうよ。」

ぼーっとしていた私に、彼が言う。

「将来じゃなくても、今日でもいいよ。」

私がそう返すと、いや、そういう事じゃなくて、、と彼が口ごもる。

「結婚しようってこと。豆パンは俺達の子供。」

私達は豆パンファミリーになるらしい。豆と小麦が結婚して、豆パンを産んで、生活する。悪くないね。

滑ったと思ったのか微妙な笑みを浮かべる彼に私は笑いながら言った。

「是非。でもプロポーズはやり直しね。」


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