生きてるものはいないのか
今回は完全な日記になってしまう。タイトルの「生きているものはいないのか」と同一タイトルの映画とはなんら関係はない。↓これ
今朝、家の近くの人通りの少ない住宅地の道に猫がいるのが遠くから見えた。
家の周辺は比較的猫の少ない地域で(たまに見る程度)さらに、自動車も自転車も歩行者も通るような道路の真ん中にその猫がいたので
「あれ?」となんだか違和感を感じたのだ。
近くに寄って行くと身体の上半身は薄汚れていて、よく見ると両目が無い状態だった。もうすでに瞼はしっかりと閉じられていたので、両目を失ったのはかなり前のことだとわかる。
その時は道の真ん中でゴロゴロしているだけかな?と思って、「そこは危ないよー」だなんて言って通りすぎ、家に帰った。
家に帰りシャワーを浴び、出かける支度をしてもう一度家を出ると
近くの家の玄関先にダンボールと新聞紙が用意されていて、その中に先ほどの猫が入っていた。その時に気がついたのだ。その猫が瀕死状態だったことを。
猫は体をぐったりと床に力なく横たわらせて、あばらの浮き出たか細い腹は、微弱ながらもひっこんだり膨らんだりを繰り返して、かろうじて呼吸をしているようだった。
その家の人が用意してくれたであろうダンボールの中に、脱糞をしており、猫をもう一度よく見ると上半身の煤汚れていた範囲の肌は、爛れきっていた。
私は、どうして良いかわからなかった。
まずダンボールを用意してくれた家の方が、獣医を頼んでいるかもしれない。
車も金もない私より、この立派な家の人の方が上手に猫を助けれるかもしれない。
でも、もしそうでなかったら?と悩んでいると、通りすぎた自動車にクラクションを鳴らされる。もうこの時点でパニックだ。
とにかくグーグルで近所の動物病院を検索し、病院先に訪ねてみると「これから家族で出かけるから、ごめんなさいね。」と門前払いされてしまった。
他に近所にある動物病院も本日は閉店していた。
とにかくパニックだった。涙が止まらず、家の近所を往復する私。
私はこんな小さな猫のひとつの命さえ、助けることができないんだろうか。
でも、
私は昨日、ゴキブリを殺虫剤で殺したんだ。
ゴキブリの命と、あの猫の命、どう違うと言うのだろうか。私が芝生で踏み潰した、植物の命や毎日の食事の命と、あの猫の命と、何が違うだろうか?
平気で他の生物を殺して生きている私に、あの猫を助ける権利なんてないんじゃないだろうか?
ゴキブリなら殺してよくて、猫ならほとんど死にかけの状態を必死に「助けたい」と思うのは、他でもなく、猫が私と同じ哺乳類だからだ。
同じ哺乳類が死にそうだからって、命に違いはないって自分でわかりながらも、気が動転して、泣いている自分の理不尽さに呆れた。
それに、もしこのまま病院に持っていったとしても、私には引き取ることはできない。きっとこのダンボールを用意してくれた家の人の方が私より上手くやれる。
と、自分の中で責任を転嫁していることにも腹が立った。
これじゃ、電車で倒れている人を見ても助けない、隣の乗客に責任転嫁している現代の冷酷な人間と一緒じゃないか。私は、そんな人間にはなりたくないのに。
悲しくなった。
さらに、私が猫を見守ってる間にクラクションを鳴らしてきた車の運転手、「これから出かけるから」と門前払いをしてきた獣医の冷たさをはじめとして、
きっと私の大好きな友達だったら、きっとなんの迷いもなくすぐバスタオルで猫を包み、病院に連れていったかもしれない。
もっとお金があって、安定している家庭だったら、猫を保護して飼うことができたかもしれない。
この自分の不甲斐なさ。
人間と同じ哺乳類だからって、それが“大切な命”なんだと自動的に認識してしまう自分の中に差別的意識の存在を見つけたのも、ショックだった。
そして、瀕死の猫を見ても、自分の条件の中でしか葛藤できない、反省できない、この私がいかに自己中心的人間なのかが見えてしまったのだった。
私は、今日あの瀕死の猫の前でどうすればよかったんだろうか。
何をするのが正しかったんだろうか。
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