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NHKスペシャル『OSO18 “怪物ヒグマ”最期の謎』を観て。

昨夜、NHKスペシャル『OSO18 “怪物ヒグマ”最期の謎』を観ました。
OSO18とは、2019年7月からの約4年間で66頭の牛を襲い、モンスターと恐れられたヒグマのことです。最初の被害が標茶町オソツベツという場所だったことと、足跡の横幅が18センチだったことからOSOオソ18と名付けられたそうです。
人間を警戒して足取りを掴ませず、専門家もなかなか見つけられずにいたこのヒグマが、実は今年7月末に駆除されており、OSO18とは気づかれないうちにジビエ用の熊肉などとして市場に流通していた、との特集でした。

なにげなく番組を見始めた時は、なぜヒグマ1頭がこんな特集になっているのかわかりませんでした。足幅18センチと言われていたのに、駆除後に測ったら20センチあったという説明を聞いて、やっと「ネットニュースか何かで見たかも?」といった程度。
そして番組を見終わって。なんというか、「業が深い……」としか言えなくなりました。ものすごく気持ちが沈んでしまって、一夜明けた今日もテンションが低いままです。

保護活動によって、北海道ではエゾシカの数がとても増えているそうです。多すぎるので年間10万頭が駆除されるのですが、撃った後その場に放置されることも多く、そのシカを食べたヒグマが肉の味を覚えてしまうとのこと。
そして肉食の生活スタイルに適応したヒグマは、家畜の牛を狙いにやってくるようになります。野生のシカより仕留めやすいとわかるのでしょう。今回のOSO18も、ごく若い頃に肉の味を知ってしまって、ヒグマが本来好んで食べる木の実や植物をほとんど食べなくなっていたそうです。
そして今年の7月、放牧地で動けなくなっていたところを撃たれました。他のオスによって縄張りから追い出され、空腹すぎて牛を襲えず、かといって植物を食べられる体ではなくなっていて……。死亡時の年齢は9歳だそうで、まだまだ元気なはずの個体でした。それなのに、年取ったかのように痩せていて、足の裏全体が腫れていたそうです(腫れのために足幅が大きくなっていた)。

駆除された個体がOSO18だったと後で判明したものの、すでに解体業者に回され、商品として販売されていて、詳しい調査は困難な状況でした。番組では、その死の謎の手がかりを求めていく過程をカメラが追っているのですが……きついです、色々と。
モンスターと呼ばれているこのヒグマは、人間を襲ったわけではありません。けれど、肉の味を覚えてしまったからには駆除するしかなかったと思います。経済的損失のことだけでなく、「弱そうな奴」と学習したなら牛に限らず人間だって狙われた可能性も視野に入れるべきでしょう。しかし、そもそもOSO18に肉食の生活スタイルを教えてしまったのは人間なのです。

私は、動物の駆除そのものについては否定しません。山野を切り拓き、野生動物のテリトリーにまで人間の生活圏を拡大したのだから、両者の衝突は必ず起こります。そして相手のテリトリーに足を踏み入れたのが人間側である以上、駆除という行為もまた、人間が背負うべき業であろうとは思います。
ただ、このNHKスペシャルは、そんな理屈や感情が全部めちゃくちゃになったような感覚がしました。OSO18をモンスター呼ばわりしながら、人間は同じ牛肉を目の前で焼いて食べているよね、とか。被害にあった牛を痛々しいと思いながら、「でもこの牛はどうせ数ヶ月後には肉になってスーパーに並んでいたよね…」とか。ジビエにするのは結構だけれど、解体業者の廃棄場が雑な扱いというか、なんの尊厳も無い感じで山積みになっているのはどうなのか、とか……。
人間なら良くて、ヒグマだと駄目なのか。ヒグマだと可哀想で、家畜の牛なら平気なのか。色んな価値基準がぐちゃぐちゃになって、ひどく疲れた感じがしました。そんな中で1番強く思ったことは、「ヒグマの死の謎がテーマなのに、なんか人間の汚い部分を目の当たりにしたような気がする」でした。



宮沢賢治の童話に『なめとこ山の熊』というものがあります。

貧しい家族を養うために熊を撃つしかない小十郎。彼は熊たちの言葉までわかりそうなほどで、熊たちも小十郎のことが好きです。それでも生きるための宿命として、彼らは命のやりとりをします。そして最後には相手の前に命を投げ出し、相手はその死を悼みます。それは熊であっても、人間の小十郎であっても同じこと。動かなくなった小十郎の前で、たくさんの黒いものがひれ伏して祈っているラストシーンは、いつまでも重い余韻を残します。  

『なめとこ山の熊』の物語でも、山の麓の町にはすでに資本主義が入り込んでいます。熊の毛皮と胆を売りに行く小十郎は、人間社会ではわずかなお金のために卑屈になるしかない惨めな存在です。しかし、山に戻ったならまた、輝くような命と命のぶつかり合いがあります。誰もが生きるために他者の命を頂き、他者を生かすために自分の命を捧げる。そこにあるのは悲しい宿命であると同時に、自然のあるべき姿でもあるのだと思います。


私はこの物語を小学生の頃に読んでいて、猟師と熊の関係性を神聖視していたところがあったのかもしれません。資本主義の波も、山奥での命を賭けた対峙には影響を及ぼさない気がしていました。そうでなくても最低限、ありがたい山の恵みを頂く感じで供養などがされているのだと思っていました。
だからこそ、人間にとって目と鼻の先の放牧地で、人間のせいで食生活を狂わされたヒグマが、弱った末に無抵抗で撃たれて、商品となった後に残った骨やら内臓やらが無造作に捨てられて発酵しているのを映像として見てしまって……なんというか、いたたまれなくなったのでした。
この迷走している感情をどうしたらいいのか、まだわかりません。答えが見えないまま、心から去ってくれない衝撃を、今はただ見つめています。

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