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寡黙なる巨人 半身不随の気持ちを知る

多田富雄著 集英社文庫 2010/7/15出版 2023/4/28読了

国際的な免疫学者である著者が、突如脳梗塞で倒れ、右半身麻痺・言語障害を抱えたことからリハビリ闘病のありのままを綴る。

倒れる前は世界各国へ出張し研究活動を重ね、それによる本を出版したり、絵画鑑賞を楽しんだり、仲間と酒を楽しんだり、人並みの人生を送っていた。

それが突如として、意識不明に陥り、目覚めたら何の言葉も発せない。
麻痺の身体は休むことなく緊張状態が続く。
揉み解さなければ手の指が食い込み、背中が曲がり、足首が伸びっぱなし、首と肩が言うことを聞かない。
自ら立ち上がれないだけでなく、喉の麻痺は言語障害と嚥下障害を伴う。
意思表示ができないから、献身的に世話をしてくれる妻に感謝の言葉も発せない。
それどころか口が思うように閉まらず、思うように飲み込めない涎がだらしなくたれ続ける。
大好きな食事もうまく飲み込めず喉に詰まって、大体が誤って器官に入るため一口ごとに咽せる。
筋肉が思うように動かないとは、咳をして喉に詰まった異物を吐き出すこともままならないことなのである。
一度の食事を終える度、悪い時には痰が絡み燻って数時間の苦しみが続く。
さまざまな管や容器に繋がれた肉体を俯瞰し、糞尿排出機にでもなったような気分に陥る。

ようやく体調も落ち着き、あとは後遺症との戦い、となりリハビリを開始するも、一歩も歩けない。人の支えがなければ1人で立つことさえもできない。
車椅子の何が悪いのか、寝たきり老人の何が悪いのか問われれば、最も単純に思える自分の意志で二足歩行できることこそが、人間の尊厳にも関わるという。
車椅子になって初めて見える景色は、立っていた時のものと全く別物である。
スーパーの商品棚も、新幹線の通路も、車椅子用にはできていない。

リハビリ生活を通して、自分で立ち上がれる、一歩歩ける、食事を一度もむせないで楽しめる、以前の自分からすれば途方も無いほど遅いペースではあるものの、ほんの少しの進歩に感動する。
自分の生を実感する。
他人とは比べられない、自分が自分の中の別の誰かを応援するように、その成長を見守りつつ、今この時点の自分の姿をありのままに受け入れる。

一度死の狭間を体験し、目覚めたら自分の知っている肉体ではなかった著者ならではの視点である。
できることに目を向け、自分の中の新たな誰かと付き合っていくしかない。
それは勇気のある覚悟であり、新たな人生への目覚めでもある。
以前の人生とは全く異なる肉体と、精神がそうさせるのであろう。

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