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2年目の週次のひとりごとです。
週次からはみでたひとりごと。
週次のひとりごとです。
つぶやき
【ままならない。】という名義で曲を量産しているプロジェクトの歌詞など
About いまは未だ、あるいはこの先も、とくに何者でもないです。特技や特徴もなし。強いてあげるのであれば特技や特徴というようなものごとは身を置く集団のなかで相対的に決定されるものだと思っているところがひとつ特徴かもしれない。つまり、どこか集団に身を置かない限り特技や特徴というものは立ち現れてこないのだ、と思います。そして例えば自己肯定感なんかと同じように、特技や特徴はあくまでもアディショナルなものであり「それがないとどうしようもない」という類のものではないのだと思います
僕は歩くのが速い。とても速い。 歩くのが速いひとに対して、「どうしてそんなに急いでいるのか?」という疑問を抱くひとはいると思う。 僕はその疑問が理解できない。 歩くという行為は、意識的に行われる行為ではない。多くのひとが、ひとつ年を跨ぐか跨がないかの幼さのうちに、外界とのインターフェースたる自身の輪郭を理解し、その能力を手に入れる。右足を前に出す、左足を前に出す。それだけではない、上半身の傾けかた、頭の位置、明示的な意識を身に宿すよりも早く、「歩く」という名称に
自分へのご褒美、というものが僕にはよくわからない。 欲しいものがあり、そのときの金銭状況とその必要性を照会して問題がなければそのまま手に入れてしまうし(もちろんそれがお金で買えるものであれば)、その他食べ物や飲み物には日常的に制限をかけていない。もっとも、それはふだんからあまりたくさんものを食べなかったり外食する機会がなかったりする、という前提条件あってのことだが。 つまりどちらかというと僕は浪費家であって、煙草はたくさん吸うし酒もそれなりに飲む。もしかしたらそれは
冬に出社するとき、僕は両親からもらったマフラーを身につける。 僕はネクタイやマフラーの類をうまく結ぶ/巻くことができなくて、ストールというのか、ネックウォーマーというのか、頭を通すだけで済む防寒具が好きだ。 大学に入学するときに両親からもらったそのマフラーがフォーマルだったこともあって、僕は学生時代そのマフラーをあまり身に着けなかった。 ふと、この先のすべてはいまの延長であるような感覚のまま進んでいくのだろうな、と思うときがある。いまの感覚の延長のまま、経験しう
引き続き「夢」について述べる。 子どもが期待される「将来の夢」の回答例は、なぜか非現実的なものが多いように感じられる。それはあるいは、現実的な「将来の夢」を抱くに足るプロセスを経ていない年頃の子どもに対して「将来の夢」を問うていることが原因であろう。すなわち、質問が不適切、質問するタイミングが不適切なのである。 では現実的な将来の夢を抱きうる年頃の子どもについて考える。 彼ら彼女らはしばしば「将来の夢」と同時に自身の「特徴」「長所」「趣向」について回答を求められ
前回はいささか「発散」してしまったので、今度こそ夢について考える。 そのとき僕がどのような意味合いで「夢について考えていた」のかというと、「なぜ幼少期の教育において判を捺したように夢をみることを強要するのか」について考えていたのだった。 僕はあらゆる場面で問われてきた「将来の夢」について、常に適当な回答をしてはぐらかしてきた。 それは「将来の夢」という言葉の意味するところがうまく身に馴染まなかったこと、「将来の夢」を問うてきた相手に伝える必要性を感じなかったことが
身近に小さい子供がいるため、ときどき「夢」について考える。身近に小さい子供がいるためというのは考えている最中に生まれる後付けの理由かもしれない。 そもそもこの場合の「考える」とは何かしらの命題に対し真偽を与えるといった類のものではない。平たく述べるならば、「思考を発散させる」行為である。 「考えて」みれば個人的に考えを巡らせることを思考を発散「させる」というのはずいぶんとおかしな表現だとは思う。思考が発散「する」のだろう。何某かに集まってもらい思考の発散を強要するので
他者からの評価がなにかしらの動作の前提あるいは目標となりうるだろうか。僕にとってその問いの答えはノーである。 例えば「趣味」としている創作活動について。 僕はいまだに音楽を作り続けている。バンド活動を続けている。個人として作った楽曲をインターネットに公開することもしている。その繰り返しのなかに、一般的な基準と照らし合わせたときに「評価される」という機会は存在しない。だからといってそれが僕の創作活動のモチベーションにマイナスの影響を与えることはない。誰かを喜ばせるため
インフルエンザに罹る、一回休み。合わせてnoteは今週も小休止。 年末にも大きめの風邪を引いて、免疫が昔よりは弱ってきているんだなと感じる。 歳をとったなと思う。 職場では当然まだ若手だ。でも学部卒もいる職場なので、同期と比べるとそれほど若くない。 職業柄、目標や希望を訊かれることが多い。そんなときに気付く。僕は野心がないほうである、ということではなく、僕は昔の僕よりも野心の炎が小さくなってしまったのだ、と。 昨年の夏に身体を壊してからはとくに、あまり仕
ちょっと休憩。 僕は数学を専攻として大学院を修了したことになっている。世間一般と比較すると数学について造詣が深いということになっているし、少なくともある時点においては数学に対してそれを専攻として選ぶだけの興味を抱いていたということになっている。 だがしかし世間一般の数学徒と比較するといささか数学に対する理解は浅いと思うし、数学に対する興味は薄いと言わざるを得ない。 基本的に僕は定義に従って動く。僕の手足は定義に従って動かし、僕の感情は定義に従って動く。未知の事象に
では定番という概念についてひととおり記述し終えたところで、改めてnoteにおける定番について考えてみようと思う。 正確に言うのであれば、「noteにおける定番は何かと考える」のではなく「noteにおける定番と考えられるものに対して自身の思考を巡らせる」である。 僕は何をnoteにおける定番と考えているのだろうか。 大別するのであれば、「ノウハウ系」「アート系」「エッセイ系」だろうか。ノウハウ系の中には例えばビジネスに関するノウハウだったり、特定の趣味に対するノウ
定番というものについて考えてみる。 noteのような個人がまとまった量の文章を掲載するプラットフォームにおいて定番とされているテーマについて考える前に、定番という概念について考えてみる。 まずは定番という概念が使われる文脈を大きくふたつに分けてみる。ひとつめは「世間一般の定番」、ふたつめは「自分の定番」である。それぞれ深掘りするのであれば、時間軸や領域によってさらに細かく分けていくこともできると思う。例えば「時代を超えた定番」「ある時点の定番すなわち流行」「お正月の定
差し当たって僕は当面の課題に目を向ける、それはあるいは一年前に週次のひとりごとを始めた時から遠くにぼんやりと光っていたものである。それは僕を一年間待っていた、僕はそれを一年間持っていた。 すなわち、根本的に僕には文章を通して強いて誰かに伝えたいことがないということ。僕にはノンフィクションを通して誰かに伝えたいことがないということ。 僕に「創作を通して誰かに伝えたいこと」があるとすれば、僕はそれを文章化できていないということ。 書き言葉と話し言葉の違いについては近代
僕がnoteを始めたのはたしか学生の頃で、バンドのライナーノーツを書き留めておくために利用していた。それ以外にもちらほらと文章を書いてはみたものの、とくに目的も伝えたいこともない僕にはそれを習慣化することは難しかった。 まだ「すこしまえ」と言えるようなころ、僕は社会人になった。随分と放置していたnoteだったが、自己紹介文でも書き換えようかと思い、一言「挙げ句の果てに社会に出てしまった。」と書き添えた。 そう、挙げ句の果てに、僕は社会に出てしまった。 社会に出た
めでたく来週の投稿をもって1年間週次のnote投稿を継続できたことになるわけですが、2年目に入るにあたってなにかしらの趣向を添えてみようかなと思いあぐねています
さまざまな事情の連なりによって、ちょっとした休暇のようなものをいただけた期間があった。根本的には自由時間というわけではないが、繁忙期と対称の位置にあるような日々である。羽を伸ばすまではいかないが、凝り固まった身体を充分に伸ばしながら勤務にあたっている。 そんな生活が続くなかで、もちろん「これでいいのだろうか」という思いが首を擡げる。 その思いは刻々と波打って、「難しく考えることはないな」と霧散させるときもあったり、「主体的にならねば」と沈み込むときもあったりする。