灰色の旅【Lycian way13】

目覚めると、テントの外にロバがいた。

正しくは、テントから3m離れたところに。

嬉しくなって、すぐにテントから出た。

今日の予定は、テントも荷物も置いたまま、Kabakまで水を汲みに行くこと。

あわよくば、食料を確保したい。次の町までもだいぶ距離がある。

朝食を摂って、4km先の町に向かうことにした。

「ヌテラも来る?」

一応訊いてみると、一定距離を保ちつつ、ついてきた。

登り坂では助走をつけて登る。

そのため、勢いよく登りきったあと、私たちに追い付いてしまうのだ。

すると、私たちがしばらく進むまで、ヌテラは歩き出さない。

どうやら、彼女には距離が必要なようだ。

起伏の激しい道で、何度か難所に遭遇した。ヌテラは、上手に迂回して岩場や狭い道を抜けてきた。

しかし、手足を使う崖に着いた時、迂回路もなく、彼女を置いて行くしかないだろうと思った。

「どう頑張っても、ここは越えられないね。ロバは登れても下れないから。」

友人がそう言った時、ヌテラは杉林の方に戻っていった。

諦めたのかと思ったその瞬間、彼女は助走をつけて、より高い崖に登ってしまったのだ。

彼女は、そこを"迂回路"だと思い込んだのだろうが、断崖絶壁だった。

進むことも退くこともできない…

なんとか降りるよう誘導しようとするも、ヌテラは恐怖心から一歩も動けなくなってしまった。

「ヌテラ、こっちから降りよう。大丈夫!」と励ますも、耳を貸さない。

彼女はストレスから、草をむしゃむしゃと貪り始めた。

10分ほど粘ったが、ダメだった。

「大丈夫、降りられないほど高い崖じゃない。彼女は今混乱して動けないだけだから。また戻って来るんだし、暗くなる前に行かなきゃ。」

と言われ、哀しい顔の彼女を置いていくことにした。

私たちが歩き始めたその瞬間、ヌテラは哀しい声で鳴き始めた。

ロバの鳴き声は、本当に哀しい。

あれは、哀しい時に出す声だったのだと、初めて知った。

早く町に行って、ヌテラを助けよう。

自然と早足になった。

Kabakに着くと、すぐに水場を発見し、9リットル補充した。

あたりを歩いていると、路地裏で自生しているマロウを見つけた。

マロウとは、モロヘイヤやオクラと同じ、アオイ科のハーブだ。茹でると、ネバネバする。トルコに来て教えてもらった。Lycian wayでは自生するマロウをたくさん見かけた。

マロウを摘んでいると、ホテルから人の良さそうなおじさんが出てきた。

「なにか困ってる?」

「なにか、食べ物を売ってくれませんか。じゃがいもでも、トルティーヤでも、何でも良い。」

そう言うと、敷地内に招かれ、朗らかな笑顔の青年のもとに案内された。

「残念ながらパンはないんだ。でも、じゃがいもでいいなら」

と言い、キッチンに向かった。テラスで彼を待つ。人懐こい犬が5匹と、猫もたくさんいた。日当たりの良いテラスは、楽園のようだった。

「お腹空いてると思って。」

彼は、タヒニという胡麻ペーストを塗ったパンとチャイと共に戻って来た。

「良いところだね。」

「夏場はすごい人だよ。今の季節が静かで、いちばん良いんだ。」

「ずっとここに住んでるの?」

「もともと、イスタンブールで働いていたから、夏だけ働きに来てたんだ。ここが好きで、滞在期間が長くなって…今はこの近くに住んでるよ。でも一人はつまらないから、ほとんどこの家にいる…家族みたいなんだ。」

「へぇ、イスタンブール出身なの?」

「ううん、シリア出身。8年前にトルコに来て、働いて、そのまま住み着いたんだ。」

何気なく聞いたつもりだった。しかし、8年前のシリアと聞いて、胸がきゅーっとなった。

なにが正しいのか分からず、質問を続けた。

「シリア、すごく綺麗な場所だって聞いたよ。友達が10年前に訪れて、写真も見せてもらった。」

「そうだね、10年前だったらね。今はほとんど壊されちゃったけど…」

「ずっと帰ってないの?」

「兵役があるから、帰りたくないんだ。兄はもう徴兵されて9年になる。僕は兵役を逃れるために、ここに来たから…」

「家族をここに呼ぶことはできないの?」

「実は、ビザが切れてるから…」

「そっか…」

言葉に詰まった。これ以上質問してはいけない気がしたし、状況が違い過ぎて、質問すら思い付かなかった。

シリアは、学生の頃行きたい国のひとつだった。10年前までは、トルコ→シリア→ヨルダンは、定番ルートだった。

しかし、8年前から始まった内戦は泥沼化し"行けない国"となってしまった。

その"行けない国"に帰れず、"不法滞在者"になり、家族に会うことすらできない彼が、目の前で微笑んでいる。

言葉だけがぽっかりと宙に浮かんでいた。

コソボ出身の友人が「移民になった瞬間、自国でどんな功績を収めようと"移民"なんだ。」と言っていたことを思い出す。

宙に浮かんでいた言葉を、口にしてみる。

「…無力」


経済制裁下のイランを旅して以来、ずっと感じていた現実を突き付けられたような気がした。

相手の不遇を不幸と結びつけることも、自分の幸運に後ろめたさを感じることも違う気がして、心に靄だけが残った。

「コーヒー淹れるけど、飲む?」

「うれしい。しばらくインスタントコーヒーしか飲んでなかったから。」

辺りを見渡すと、手入れの行き届いた庭と小さな小屋、遠くには青い海があった。

静かで、桃源郷のような場所だった。

一瞬だけ旅した灰色の世界に、思いを馳せる。

「そういえば、ロバが待ってるんだ。」

戻って来た彼に言うと

「あぁ、Paradise beach近くのキャンプ場のロバじゃないかな」

と言う。

そうか、飼い主不在で寂しかったんだ。戻ってあげないとな。

コーヒーを飲み干し、礼を告げる。

彼はオリーブとじゃがいも、卵まで包んでくれた。

お金を渡そうとする我々に、

「受け取れない、絶対に。これは、絶対に。」と、強く言った。

ちょうどトルコ軍によるシリア北部侵攻のニュースを聞いた、2ヶ月後のことだった。




道端のオレンジを拾いつつParadise beach戻ることにした。

起伏の激しい道を、歩き続ける。

ヌテラと別れた崖に戻ると、ヌテラはもういなかった。

戻れたんだ、良かった。これで心置きなく今日を楽しめる。

そう思ったが、心の中はまだ灰色の景色を旅していた。

昨日通り過ぎた、隠れ家のようなビーチに出た。

「ここでゆっくりしたい。」

そう言って、ビーチに降りた。

透き通った水と白い粒を見ながら、オレンジを食べた。

やっぱりお腹が空いて、Paradise beachに戻ることにした。

あとで戻って来ようね、と言ったものの、起伏の激しいこの道をまた歩く気にはなれなかった。

ヌテラがテントの近くに戻っていることを期待したが、姿はなかった。

裏切ったのは、私の方だ。仕方ない。

そう思いながら火を起こした。


目の前には青い海が広がっている。

灰色の旅は、まだまだ続いていた。









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