夜しか

ピアスと夜しか愛せない

彼の額に、またひとつ光が増えた。キッチンで黙々と料理をする横顔に、きらりと光るピアス。その輝きに負けじと、夜闇に埋もれる前の一瞬を独壇場と言わんばかり、黄昏れの光に煌めくすすきのような髪が料理帽から覗いている。オーダーを伝えると、彼は少し顔を上げて無言で作業を切り替える。他のオーダーを取って戻ると、フードとドリンクが用意されていた。ホールの仕事であるドリンク作りまで終わらせて、一つのトレーにまとめて用意してくれる優しさから、見た目は怖いけど良い人だと知っている。無表情で読めない彼の増えていくピアスには何か意思があるのだろう。その自分を貫き通す姿に、いつも勇気づけられる。

「お先に失礼します! お疲れさまです〜」
電車で帰って、お風呂に入り少し仮眠を取ったら、一限から学校に行く。朝の時間は電車が少なく、なるべくはやい時間の電車に乗ることが、長く仮眠を取るコツだ。始発に乗れそうだと、少し足を速める。
「にぃ〜」
鳴き声の聞こえる方に目をやると、すすき頭の彼が怪我をした猫にご飯をあげていた。「あっ...」と思わず声が出て、彼と目があう。
「何しているのです? 猫にごはん?」
「猫に小判? これ明日には廃材になるやつ。怪我しているから元気になってほしくて」
聞き間違いに、ふふっと声を零してしまった。朝日に包まれた黄金色の髪が柔らかな風に揺れる中、シルバーのピアスも黄金色に染まっていた。
「あの、ピアス。増えましたよね。お好きなんですか?」
「増えた、よね。増やしちゃうんだよね、好きとかじゃなくて」
「痛くありませんか? そんなにたくさんは痛そうだなって」
「痛いんだろうね。でも、この子みたいに望まずしてできた怪我とは違うからね」
そう言って、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす猫の頭を撫でていた。言葉を探すように彼の口が少し動いて、言いかけては喉の奥に引っ込んでいることが伝わってきた。リストカットは痛い、と音になりきれていない言葉で呟く。
「自傷行為みたいなもので、開けるのをやめられない」
「自傷行為なら、望まずしてできた怪我と一緒です。自傷をするほどの悲しみや苦しみがなければ、ピアスはここまで増えなかったのですよね」
彼の耳に光るそれに触れようとしたものの、伸ばした手を引っ込めた。ピアスが自傷行為だとしたら、その傷に気安く触れられるのはどんなに苦痛だろう。彼の自己主張を汚してはいけない、十分に傷ついた跡をさらに痛めつけてはいけない、私だけは守りたいと彼の輪郭をなぞるように空を撫でた。猫を見つめていた彼の瞳が、少し潤んだのがわかる。ごはんを食べ終えた猫が、彼の足にすり寄ってきた頃、始発の時間はとうに過ぎていた。

「...自傷行為により心を落ち着かせることもある。自傷行為は何かしらの代替行為だから、その原因を解消できて自分を傷つけることをなくしていけるよう、治療を考えていきます。今回は、幼い子が自分で頭髪を抜いて、それに気づいた母親が子どもを連れてきたケースを見ていきましょう。言語化することが難しかったこの子どもが、実際に箱庭療法で置いたものがこちらです。何が見られるでしょうか」
白い砂が詰まった内側が青い箱に、カバとトラから半分ずつ噛みつかれている少女。離婚を考えている両親の間で、取り合いになっている子どもの心象だ。どちらのことも好きなのに、どちらともを選べない子どもと、争う両親がどちらもこわい状況で、彼女は苦しそうな様子が痛いほど伝わってくる。講義で使用した動物や兵隊、人のミニチュアを袋に詰めていく。破れていたところを止めてあった安全ピンが不意に外れ、意志を持ったかのように動く。針先が親指を刺し、ぷくりと赤い血が滲んだ。慌てて止血して絆創膏を貼ったものの、じんと痛みが響く。望まずしてできた怪我の痛みは 、痛覚としてのそれは一瞬でも、この痛みは忘れない。自分でつけた傷ならば、なおさら自分自身を傷つけてしまったことに、きっと傷んでいく。夏の暑さがいつのまにか退いて秋を迎えるように、その痛みが蝕んでいく。痛みは、傷みになる。

「お先に失礼します! お疲れさまです〜」
みつきちゃん、と店長に呼び止められる。
「ねえ、あのピアスどう思う?」
「ピアスって?」
「いや、ほら、あの、キッチンの。怖くないかな、髪色も」
「まあ、確かに怖くはありますが...」
店長は少し困ったような顔をする。
「髪色は自由だし、アクセサリーも自由だけれども、キッチンと言えどねえ。」
「お客様から見えないしいいんじゃないですか」と笑って答え、少しの間をおいて
「外見よりも、心の方が私は心配です。髪色もピアスも怖いと感じますが、そこまでに至った心象の方が、抱えている痛みの方がわからなくて怖いなって思います」
「そこが怖いところだよねえ」
「店長も知らないんですか? ピアスの理由とか」
「彼、あまり話さないから。」
「ここに入るときはどうだったんですか」
「人に貸したお金を返さなければいけなくなった、って。それで夜の街に溶けてしまいそうだったから、うちで働いてもらっているんだけど、今でもこの夜のどこかに溶けてしまいそうだよね」
まあ、見た目は怖いけど根は良い人だから仲良くしてよ、と

「やっぱり、ここにいましたね」
まかないを頬張る猫を優しく撫でる手が止まり、四つのガラス玉がこちらを見る。純度の高い瞳に見つめられ、心の奥がぎゅっと掴まれた気がした。
「今日、本屋に行ったんだ」
「本読むんですね、意外でした」
「意外かな。結構読むんだよ、小説とか物語みたいなの泣いちゃう」
「 泣くために本屋さんに行くんですか? ってことは、今日も泣いちゃったり…」
何かを言いかけた喉と、猫の喉がハーモニーを奏でるように重なる。傷痕に塩を塗られたかのような表情で、行き場のない感情を心にどうにか収めているようだった。
「懐かしいなって、料理の専門誌を見つけて開いたんだ」
「懐かしい? そういえば、前はイタリアンレストランにいらっしゃったんですっけ」
「そうそう。そのレストランとお世話になっていたシェフの名前を見つけて、どうしてこうなっちゃったんだろうなって」
『後悔して』
…いるんだよねえ、と呟く。後悔しているか聞こうとする私の言葉で、感情を奪われてしまわないように、この悔しさは自分のものだと言わんばかりだった。
夜風に揺れたすすきに、小雨がぽつぽつと乗った。街灯に照らされ輝いていた黄金は、小さな雨玉を纏い、妖精の粉を頭から被りすぎたおとぎ話の子どもみたいだった。それから、アルバイトが終わった後、まかないを食べる猫を二人で見守る日々が続いた。

「このお店どうなってんだよ」
「大変申し訳ございません。すぐに作り直してお持ちいたします」
「申し訳ないと思う前に、申し訳なくなることするなよ。こっちは客だぞ。お客様は神様なんだよ」
「はい、大変申し訳ございま...」
「大変申し訳ございません。こちら、生搾りパインサワーです。大変失礼いたしました」
「ここの教育どうなってんだよ。ピアスなんて、ナメてんのか」
「気分を害してしまい、失礼いたしました。どうぞ、ごゆっくり」
半泣き状態で頭を下げていた私の耳で、舌打ちの音が届く。オーダー通りのパインサワーは、少し氷が溶けていた。

「あの、今日はフォローしてくださってありがとうございました。それなのに、嫌な思いをさせてしまって...」
「ああ、言われ慣れているから。これは」
まかないを食べる猫を撫でながら、彼は悲しそうな目をしている。
「だって、自傷行為を非難されるって、辛すぎませんか。すべてを否定されているのに、笑顔で返すなんて痛すぎます。痛いんです、見ている私が」
「だって、ねえ」
「あの、その傷、私に分けてくれませんか」
「分ける?」
「その傷ひとつ、はんぶんこにしましょ。今日の痛みは、感じなくてよかったものですから。お詫びにひとつください」
「うーん、じゃあこれ」
彼は右耳のピアスを丁寧に外した。輝きを確かめるようにそれを街灯にかざし、指でこすっている。
「あげる。傷じゃなくて、お守り。傷が、これからを生きていくためのお守りになるんだったら、少しは幸せになれるかな」
空気が漏れるような笑いが、夜空に響いた。
「本当に今日はごめんなさい。そして、ありがとうございます。傷も、痛みも、お守りも、大事にしますね」
大事にしてよ、とすすき色の髪の毛がふわっと動く。隙間から、ピアス跡が覗く。思わず手を伸ばして触れそうになったところに、猫がすり寄ってきた。一ヶ月前より艶のある毛並みを、ごまかすように撫でた。

ピアスの跡が消えるまで、彼には言わないでおこう。あなたがいてくれて、少し呼吸がしやすくなった。前よりも、泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑えるようになった。人目を気にせずに好きな服を着て、少しだけ自分を好きになった。だから、そんなきっかけをくれたあなたが幸せになってくれないと、もらってばかりで心の奥が待ち針で刺し違えたようにちくりと痛む。何も返せていないんじゃないかって、夜の街に融けたくなる。私だって、あなたと同じだもん。

いつか、いつかのお話。その愛しいピアス跡に触れたい。現在よりも今を抱きしめられるようになったあなたの幸せを、もっと素直に願えるいつかがはやく来ますように。あなたが教えてくれた自分らしさ、ちゃんと守るから。今日も私は、私らしくいるんだ。だから、ねえ、そのまま優しい川澄さんでいてね。

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