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微睡みの恋

 加速が滑らかになった新型車両の洗練された内装デザインに見惚れながら、ふわふわとしたシートに腰掛けていた。約束の時間は十九時半で間違いないことを確認する。背景のように薄く流していた音楽に、耳を澄ませる必要もなくなったことから、エンジンが進化して静かになったことを体感する。イヤフォンからは「もっと、ちゃんと言って」と、流行りの音楽が流れ、歌詞をかみしめるようにゆっくりと目を閉じた。いつの間にかうたた寝に溺れていて、気づけば終点だった。改札を抜けて西口のショッピングセンターに入ると、そこに彼はいた。

 彼は細い割によく食べる。私の何倍も食べている気がする。二人の間に特筆すべき会話はない。会話がなくても、その空間は成立してしまうのだ。しかし、ときどき彼は思いついたように何かを話し出す。そして私も、彼の本音を知りたくて、少々意地悪な質問をしてしまう。おもむろに彼は、いつものように話し出した。

「言葉にできないからって黙っていてもどうしようもない。伝えようともがくことに意味があって、そしてどうにかこうにか言葉になる。そういう言葉を紡ぎだす行為がとても愛しいのだよ」
「愛しい、ねえ」
「そう、たまらなく愛しいよ」
「じゃあさ、恋と愛はどう違うの」
「恋は..」と言いかけて彼は口を噤む。
「鯉が跳ねたりするような。それから、心の奥底から何かが燃え上がるようなもの、かな。」
納得いかない私は食い気味できいた。
「じゃあ、愛は、愛はどうなるの」
「愛は、流れるものだね。だけど、いつもここにあるよ」
「流れる? 流動的ってこと?」
 流れてしまうのに、ここに存在しているという意味がよくわからなかった。流れることは、いまここにあったものが水のように流れてどこかへ行ってしまうことなのだ。いつかの彼のように。
「そうだね。このグラスに入っているカクテルは、グラスを満たしているね。水面に浮かぶオレンジは言葉で、カクテルは愛で、口に含んだ瞬間に広がる味は感情で、それだったらどうかな」
「つまり、誰かから誰かへの想いで心いっぱいに満たされるもの、ということですか」
「あながち間違ってないかな」
頭に浮かぶ言葉を吟味しながら、ストローでオレンジをつつく。
「手持ち無沙汰なの?」と不意に聞かれて笑った。
「いえ、オレンジをくずしているだけです」
ほぐれていく果実を私は楽しんだ。きっと彼もその空間を楽しんでいるのだと私は信じていた。

 別に彼のことは嫌いではない。頭がきれるし、とても優しい。歳上なのに、年齢の差なんて感じさせないほど価値観が似ている。知識をひけらかすことなく、こちらのテンポに合わせてくれる。だけど時々、有無を言わさない決断を迫ってくる時がある。今だってそうだ。彼の好きなチーズのたくさん乗ったピザを頬張った後、私は何かの選択を迫られている。彼に繋がれた手を振り解けないまま、気がつけば二人きりになれる空間へと来てしまった。
「ね、こっち向いて」
彼の目さえまともに見れない私に、決断を迫ってくる。
「…どうして、ですか」そのあと彼は、それ以降の許可を取らなかった。

 情事の後、小さな死が訪れる。起きているような眠っているような、身体の感覚はしっかりあるはずなのに、思い通りにいかない。海底に引っ張られるように、深海に永遠と沈み込んでいく感覚に溺れる。後ろから絡みつく腕に引き留められるように、その死を楽しんだ。

それから何週間か彼は、全くの連絡をよこさなかった。もう誰のことも信じないし、好きにならないだろうと思っていた私は、心に残るもののことを全く気にも留めなかった。しかし、ふとしたときにあたたかい腕の中を思い出して哀しくなったり、優しくかけてくれた言葉が愛しくなったりした。それを、総てを許してしまったせいなのか、与えてくれた言葉を信じていたかっただけなのかわからなくなってしまった。

「釣った魚には餌がどーの、とかいうそういうタイプだよね。それ」「やっぱ、そーだよね」
「幸せになってほしいから言うけど、少し警戒しておいてもいいかもよ」
「ありがと。警戒かあ.. でも、元はと言えば」私の言葉を遮って友人は言う。
「金銭のやりとり上でそうなったとはいえ、好きになったらどうしようもないよ。お互い。現に今は、お金の関係抜きで男女の関係でしょ? まあ、ご飯食べさせてくれたお礼って言っても、全然等価交換じゃないよ。非等価交換。むしろ損害出まくり」
「等価交換ね..」
「しかも、何週間もほったらかし。やめときなって」
「うーん」
 彼女の言っていることは妥当だ。もしかしたら、私なんかよりもっと素敵な人に出会ったのかもしれない。幾ら、好きだとか彼女にしたいとか言ってても、男は口からでまかせを思いつく限り言える生き物だと、少し大人になった私は知っている。しかし彼は、今までの誰よりも優しく丁寧に、自分だけの女の子だって扱ってくれた。これまで、そんな人はいなかった。
 
 それから何日かしてのことだった。急に連絡が来て、彼に会うことになった。しかし、定刻の何分か前に、残業を理由にキャンセルされた。その後、彼は出張に行きそのまま帰省したそうで、私も地元へ帰省をした。年が変わり、何か答えを見つけなければ、変わらなければと何かに縋るように眠った。

 眠り続けるだけの毎日に、彼からの連絡が届いた。何週間ぶりに会う彼は、少し窶れて細くなっているように感じた。お互い何を話すともなく、運ばれてきたデザートを黙々と口に放り込んだ。彼から仕掛けられるいつもの会話を待たず、何か発さなければと言葉を探す。
「何かに縋るのは逃げですか」それとも、と言い私は口を噤んだ。「いや、縋る先に何をするかだよ」
彼はそれしか言わなかった。恋とか愛とか、まして私すらを端から求めていない彼はきっとそんなものに頼らないのだと。
「あの、都合のいい関係、やめませんか」
「じゃあ、どういう関係にしたい」
「いや、その関係も総て」
「それでも今夜も一緒にいたいと思ってるよ」
「そんな人だと、思いませんでした」
 精一杯に振り絞った声は、彼に聞こえたのかどうかわからないが、気づけばお店を飛び出し駅に向かっていた。改札内にちょうど着いた電車に飛び乗って、終点まで眠った。突き詰めることに必死で、頭も心も疲れきってしまっていた。身体は無意識に小休止を求めていたようで。駅から家までの帰路を、とぼとぼと歩く私の姿をまんまるの月は照らしていた。
 
 気付いてなかった。いや、気づけなかったという方がきっと正しいのだ。心だけがどこか深いところへ沈んでいくような感覚に、手足が何かに掴まれてそこから動けなかった。舌に残る甘さは確かに私の意志であるはずなのに、振り払いたくて、その甘さを掻き消したくて、でも逃れなくて。深海の底に永遠と落ちていくような感覚にはまっていた。呼吸が苦しくて、誰かに口を塞がれたように声にすることもできない。後ろから絡みつく何かは深海の藻のようで、クッションのような柔らかさと、重力のような確かさで奥底へと引っ張っていく。風船が空に上り詰めた後、意図もせず突然弾け飛んで、その欠片だけひらひらと頼りなく落ちていくような、落ちて沈むことが世の常だと言わんばかりであった。

 夢から覚めた時、愛してくれていた誰かに抱きしめられたような香りと、身体に残る温かさに思わず涙した。昨晩のことを思い出そうとしても、帰り道に照らされた月の光と夢に見た彼との初めての夜しか思い出せない。この香りも暖かさも、ただの夢の余韻。一晩眠って小休止した脳は、考え着いた答えを言葉にした。
「ちゃんと、好きだったのかな」
 整理するように、一つずつ発音した。無意識の、必然とした流れだった。言葉にした瞬間、耐えきれず涙が頬を伝った。それから何日も、頭に浮かぶ誰かの輪郭を振り払うことができず、人と会うことを拒んだ。

 人はきっと、小さな死を求めて生きているのだろう。夫婦や恋人であることは理想ではあるが、男と女の関係はそういうもの。一時の幸福な情事を求めているわけではない。その先にある、生きているとも死んでいるとも言えない、小さな死である微睡みを永遠化したいのだ。生きていれば向き合うことになるものや、彼らの生存を脅かす他人や、どうしようもない社会から隠れて、自分たちだけの世界に閉じこもる。そこに永遠はないのだけども、”生”を感じ確かめ合い、愛がある行為としての言葉の美しさを信じ込み、その先にある一時の小さな死を欲する。時間にしてはほんの一瞬かもしれないが、確実に深海の底まで到達するような、短くて深い微睡みよりも完全な眠りに襲われ、それを拒むことはできない。抗わなくともよい、確かな眠りを、情事を共にした相手と疑うことなく味わえる。その情事に後悔して、どんなに胸を痛めてもなかったことにはどうにもできない。それでも苦しくて一晩中泣いて、すべてなくなりはしないが、泣きたいだけ泣いて晴れると心が生き返る。

 時折、心に残る甘さは、無性に心に眠っている「好き」を掻きむしってくる。好きとか、恋とか愛とかは、いつか生きる意味を与えてくれた。何かに頼って、自分らしく生きることをおぼえたのだ。「私は」不意に呟いた。

 まだ変われるのだろうか。形だけの何かに依存して縋って、自分の足でひとり立ちしていなかった私は、歩けるのだろうか。自分を、自分らしく歩き続けることができるのだろうか。彼との都合のいい依存関係を断ち切った私なら、陽の光を浴びて笑えるかもしれない。冷たい朝日の暖かそうな光をブラインド越しに感じ、ぬくぬくとしたお布団に包まれまどろみの中で思った。ブラインドから漏れる光の一欠片で覚める微睡みを、今だけは大きな幸せと感じたい。


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