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平成最後の華金くらい、好きな人に会わせてよ。

平成の終わりを見ることなんて、できないと思っていた。私の人生、12歳の時点で終わるはずだったのに終わらなくて、13歳の頃にまた終わらせようと思ったのに終わらせることができず、高校を卒業したらもう誰かが終わらせてくれるものだと。言葉のナイフを振りかざした母親は、結局私を生かし続けたし、私も18歳の先を少し見たくなり、都会の隅っこにある大学に出てきた。それでも、20歳になったら勝手に終わると何となく願っていたし、平成の終わりまで生きることができるなんて、少しも信じていなかった。

気づいてしまったことがある。もう平成が終わってしまう。もうずっとわかっていたことではあるけれども、平成が終わるなんて、平成の終わりを見ることができるなんて露程も思わなかった。平成最後の華金、お酒が飲める年齢で過ごすことができるなら、やることはきっとひとつで、華金って理由だけで飲みに誘うべきだし、酔った勢いで好きな人に好きって言うべきだし、好きが止まらなくなったら手を伸ばすべきなんだ。だけど、弱虫な私はいろいろ考えた挙句に何も言えず、こうしてLINEの画面を見つめながら、メイクを落とせないでいる。

不意に見慣れた名前からメッセージが届く。脱ぎ捨てたストッキングにもう一度丁寧に足を通し、少しよれたファンデーションを念入りに直す。職場に忘れてきた傘を少し悔やみながら、晴雨兼用パンプスに浮腫んだ足を押し込んだ。そして、小雨の匂いを纏って駅まで小走りし、ホームに止まっている電車に滑り込んで呼吸を整えた。彼の待つ駅に着く頃には、もうすぐ華金は終わろうとしていた。

アイスを買って家にたどり着く頃には、とうに華金は終わっていた。テレビから流れる時代をさも考えているかのようなポジショントークは、この空間にとって少しも重要でなく、それを背に彼と心を探し合った。首筋越しに届く呼吸から、少しもテレビの画面を見ていないことがわかり、BGMのように平成という時代が積み重ねたフェミニズムがするりと耳を通り過ぎる。貪り合うように触れたものの、奥深くまで触れることをお互いがもどかしく拒み、微睡みに引きずり込まれそうなるところで見つめ合うのをやめた。生放送のポジショントークは、まだ続いていた。

シャワーを浴びた彼が戻って来る前に、伸びすぎた髪をドライヤーで乾かしたものの「がんばってはいるけれど乾いてないよ」と笑われる。毛先まで丁寧に触れて乾かしてくれる彼の背中越しに伝わる心臓の音は、少し駆け足で時々飛んで、その不器用さが愛おしくて、好きとか嫌いとかそんなのはもうどうでもよくなった。大きなベッドで仕切り直すように触れ合っては、お互い大事なことには触れず、好きと言ってはみたものの、その先は何も求めずに眠りについた。

華金に縋っても素直になれない私たちは、会いに行って愛を言ったって、少しもこの関係を変えられず、令和になってもこのままずるずると温もりを貪り合うんだ。それでも、平成最後の華金、好きな人に好きって言えたから、もうそれだけで令和も生きていけるような気がした。この関係にいつか終わりが来るとしたら、平成最後の恋って名前を付けて、心の奥底にいつまでも眠らせよう。

平成最後の華金に、平成最後の恋をした。

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