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VOL. 12 「あの公園から見上げるソラと、介護士シドの日常」

#事実に基づいたフィクション   #東京の公園 #健康寿命 #公園の楽しみ方 #認知症 #介護の職場 #60代の生き方 #やま #山下ユキヒサ

「あの公園から見上げるソラと、介護士シドの日常」VOl.12
      (2827文字・7枚)

🔷このシリーズの内容は、3本立ての構成となります。僕のお気に入りの「あの公園」(名称も場所も秘密)が一つの舞台。幼児から高齢者までが集まり、それぞれの過ごし方で楽しむ、小さいけれど素敵な公園です。そこで繰り広げられる出来事をベースに綴っています。
二つ目は、僕の職場である某認知症高齢者の某グループホームの介護士として働く、介護現場での話です。その語り手はシドとなります。
三つ目は、60代の僕の生活。定年間近の僕の日常がときどき登場します。
詳細は同タイトルのVOl.1をお読みください。




やっと重い腰を上げた。
医者に行った。右腕のしびれが続きもう2ヶ月になる。

あれっ、しびれてる?
昨年12月のこと。ふと右手の違和感に気がついた。足や腕の痛みは以前にも、50代後半から経験していたが、しびれ症状は初めてだった。

今まで、痛みには整形外科にも通院した。温めたり、引っ張ったり、電気を使ったり。少し通ってはみるものの、いつまでもこんなことしててもな、と自己判断で通院をやめた。
だが、結局のところいつのまにか痛みは霧散した。
ほらね…。

だが、今回は右手にやって来たかつて経験したことのない〈しびれ君〉だ。〈痛み君〉よりも気になる相手。身体の何処をぶつけても痛みはあるが、痺れはその部位が限られている。
いつも右手に入り浸っているわけじゃない。奴は前触れもなくひょっこりやって来ては悪さをする。ぐぐーと右腕が絞られるようにしびれて何とも言えずに痛い。その症状が出ても腕には力は入る。だがペンを握ったり、文字を書いたりなど繊細な動きは出来なくなる。

自宅にいても症状が出る。顔をしかめて耐える。しびれ君が通り過ぎていくまで15秒ほど動きが止まる。
そんな姿を見かね、妻や息子から医者に行ったら、と何度も言われた。

しかし気乗りがしなかった。理由は自分勝手な判断だ。
しびれは神経。簡単に分かるわけがない。思考は鮮明。霧もかかってない。脳内に出血や梗塞など原因があるとは思えない。だからどうせ医者に行ったって。と、その度に聞き流していた。

気がつくと、いつの間にか治っている。そんなことを期待した。しかしもう2カ月が経つが、シビレの頻度も強さにも変化は見られない。
家族から心配され、受診を勧められているのに、自己判断で拒む自分。どうせ行ったところで簡単に治りゃしない。
そんなやり取りを繰り返すうち、ふと自分の内面にある「老い」に触れたような気がした。
夜中に目が覚め、暗闇で手探りする手に何かが触れる、そんな感じで心の内にある自分の老いに気がついた。
あっ、と思った。

若い頃に観た昭和のホームドラマを思い出す。頑固オヤジが登場した。親父さんは最近元気がない。食欲もなく胃の辺りをさすったりしている。心配した家族は医者に行くことを勧める。すると医者嫌いの親父さんがこう言い放つ。「自分の身体は自分が一番よく知っている。どこも悪くない、大丈夫だ。心配などいらん」。

「頑迷(がんめい)」とは、かたくなでものの道理がわからないこと。考え方に柔軟性がないこと。また、そのさま。

発言こそ頑固オヤジのそれではないにせよ、考え方は大きく外れてもいない。僕が暗闇で手にしたものは自分の頑迷さ、つまり、老いだった。
それは若い頃、少なからず嫌悪していた年配男性のそれそのものだった。
その小さな頑固さを自分の内面に見つけたとき、精神的な老いを感じた。ついに来たか。とうとう来たか。そんな年齢だ、そんなお年頃。

ああ、こんな感じで精神の老化は進んでいくんだなと思った。それを放置すると、やがて頑固菌が増殖し、本人もコントロールできない状況に追いやられるかもしれない。

行きゆく先は「老害」として、反社会的行為に発展するかもしれない。常に自己洞察力のセンサーを鋭敏にし、制御し、コントロールしたい。
昭和のど真ん中生まれの、頑固オヤジが出来上がる前に。

さらに「頑迷」の並びには四字熟語があった。初めて知る言葉だった。

がんめい-ころう【頑迷固陋】
頑固で視野が狭く、道理をわきまえないさま。また、自分の考えに固執して柔軟でなく、正しい判断ができないさま。頭が古くかたくななさま。▽「頑迷」はかたくなで道理に暗いこと。「固陋」はかたくなで見識が狭いこと。また、頑固で古いものに固執すること。

まさに自分の判断や認識のみが正しく、視野が狭くなり相手が見えず、想像力や柔軟性を欠いた感覚だ。

そうなると、人は独善的で排他的な世界へと落ちていく。自分の感覚や思考こそが絶対だと思い込み、他者の主張には耳を貸さなくなる。人生にはいくつもの落とし穴が存在する。恐ろしいのは、落ちても落ちたということが分からない「落とし穴」だ。

僕は重い腰を上げた。
僕を動かせたものは、もちろん辛い症状を何とかしたいという思いからだ。しかし、家族の声にやっと応じたのは、僕が僕の心の内にある「老い」に気がついたからだ。
気づきが内省を生み出し、自己洞察力が行動へと促した。

さて、人が動き出すためにはまず立ち上がらなければならない。あなたが椅子から立ち上がり重い腰を上げるには、「前屈」が必須だ。
普段は無意識の動作。
立ち上がる動作を意識して確認してみればよく分かる。立ち上がるためには両足を後ろに引き、頭を思い切り前に倒す。
その理由は、重い臀部(でんぶ)を持ち上げるためには、頭の重さを使ってバランスを取る必要があるからだ。頭を前に突き出し、重心を前方に移動させることで重いお尻を上げるのだ。
「重い腰を上げる」には頭が必要となる。
もう一つ、頭の重さを使う質量のバランスの話ではなく、僕は自分の内にある頑迷さに気がついた。
そこから行動化のために頭を使った。

近所の脳神経外科クリニックに飛び込んだ。おじいちゃん先生から丁寧な問診を受けた。脳のCTを撮り、頚椎(首の骨)のレントゲンを4枚。CTの結果。脳内に出血や梗塞など異常はなかった。レントゲン後の説明では頚椎(けいつい)の骨がすり減り、それが神経を圧迫しているんだろうとの見立てだった。自分でもレントゲン写真を観て納得した。つまり老化現象。
薬が処方された。毎食後一錠。1日3回。5日分をきちんと服用した。嬉しいことにしびれは徐々に緩和された。処方薬を飲み切ったところで再診。

しびれは随分と改善されていることをドクターに告げた。初診の際に言われていた。会社の健康診断書を持って来なさい。「あなたの身体のことを数値で知りたいから」と。

診断書を見せながら引っかかっていたコレステロール値が高いことを伝えた。
これまた丁寧な説明の中で、コレステロールを減らす薬が処方された。しびれの薬と同じ口調、それはまるで呪文のように「これはいい薬で副作用もないから、それを出してあげる」
じいちゃん先生は言った。
僕はにこやかにありがとうございます、と言いながら心の内では、いやいや先生、副作用のない薬はないでしょう。そう、つっこんでいた。

帰ってから処方薬の説明書を読む。
血液中のコレステロールを減らす薬の注意事項・副作用の欄にはこうあった。

「グレープフルーツジュースは避けて下さい。筋肉痛、手足のしびれ…」手足のし、び、れって。

え〜おいおい、手のしびれで受診してんのに(笑)

幸いしびれ君はかなり大人しくなった。悪さをする頻度は激減し、その症状もずっと緩和された。
ありがたいことです。



先日外出したとき、駅の看板広告に目が留まった。その駅の近くにある地域の幼稚園。
そこには園の方針として、こんな子供を育てることを目標にしていると書いてあった。

「つよく、あかるく、かしこいこ」

短くて、わかりやすい。
いいな、と思った。

知・徳・体の体現。
自分も、いつの時も、こうありたいと思い願った。
63才の自分も、強く、明るく、賢い子を目指して生きて行きたい。
老いの波に飲み込まれず、どのような泳ぎ方にせよ、溺れずに人生の最後までしっかりと泳ぎ切りたい。

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