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レポート第11回レタスマインドフルネスワークショップ2

(続きです)

変化は少しずつがよいといいましたが、しかしそうすると「努力した」という感じがあまりないんですね。
「無努力感・自然な」変化、自分にも他人にも変わった!という気がしないやり方です。
誰でも一気に、すごく変わるのが修行というイメージがあって、そういうのに憧れます。私もそうです。
山奥の洞窟にこもって三年、ある日とうとう悟って、自分の全てが変わった!もう自分にダメなところは何もない!ヤッター!!イエー!!(笑)。

あこがれるのは分かりますが、それは危険性を持っています。
そしてそういうやり方をする人は、何か変化を得られたとしても独善的になってしまって、細かな部分で社会の他の人たちとうまくやっていきづらくなってしまうのではないでしょうか。
修行の初期には激しいやり方に魅了されやすいです。
私個人としては、激しい修行に打ち込む人への尊敬、あこがれもありますし、そういう修行をしてこじらせてしまう人への共感もすごくあります。そういう人は向上心が強いということですからね。
でも、「即決で、完全に、今すぐ」わかりたい、できるようになりたいというのは自分で自分を苦しめるもとです。もちろん、出家して今までのように世間と関わらない方は別です。あくまでも在家で生活をしていく場合といえます。

さて今日言いたかった一番大切なことを。
私は因果論を信じています。
そうすると、「いいかげん」「気にしない、気にならない」を自分に許してゆける程度というのは、他人に対して「安心していいよ」「気にしなくていいよ」を与えたエネルギーの量によります。
相手を安心させたエネルギーが、自分を安心にするエネルギーになっていきます。
シンプルに言うと「与えれば与えられる」ということです。

他人を心配させ続けていて、ストレスを与えるようなことをしていて、自分が神経質、心配性から解放されるでしょうか?
他人に対する働きかけの癖が、自分の内面に対しても働くと考えると科学的な説明になるかもしれません。

他の人の行いを見て、口に出さなくても心の中で(あれはダメだ)(こうしたほうがいいのに)と批判し続けていれば、自分の行いに対しても(これは失敗だ!)(もっとよく考えないとダメだ)と非難、心配し続けるようになります。

なにか不安になっている人にたいして「心配ですね」と寄り添い、「大丈夫ですよ」と励ます。
いつもそういうことをやっていれば、自分の心の中に不安が出てきたとき「心配しているな」と気づき、「でも大丈夫」と心を落ち着けることができるでしょう。
つまりは「良い加減」を他人に対しても自分に対しても与えていく、というのがいいかと思います。

(続きます)