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こころの問題に関心を持つ意味

私がこころに関心を向けるのは、それだけこころが生きる上で重要だと考えているからです。
そしてまた、こころの扱いがとても難しいからと感じたためでもあります(この辺りは自己紹介記事を読んでいただければと思います)。

というのも、私の家族は皆こころに問題を抱えており、とりわけ母は幼少期の虐待がトラウマとなり苦しんでいました。そしてそのような母を見て、幼い私も強い不安を覚えました。
必然とこころについて考えさせられる環境で育ったのです。

こころにモヤモヤとしたものを抱えたまま育っていき、大学に入ってからは専門分野そっちのけで心理学や精神医学、脳科学についていろいろ調べ、そのわだかまりを解消しようとしました。
しかし、調べるほどこころがとても扱いづらいものであることにも気づきました。

前置きが長くなりましたが、この記事はもっとこころの問題に関心を持ってもらいたいと思い、その意味や理由についてまとめました。
長文になりますが、最後までお付き合いいただければと思います。

1.こころが扱いづらい理由

脳科学が発展した今、こころについて様々なことが段々わかってきました。
しかし、現在でも全てのこころの問題について科学的に十分な説明はついていません。特にうつ病や統合失調症などの精神疾患は、その発症原因や確実な治療法が曖昧なままです。

近年うつ病発症者は一家に1人いるのではないかと言われるほどメジャーな疾患として台頭してきています。つまりは誰もが生涯のうちにうつ病にかかる可能性があるということです。
うつ病が重症化すると日常生活や社会復帰が困難になってしまいます。そうなるとうつ病はどんどん悪化の連鎖を辿ります。

また、統合失調症は発症率が全人口の1%とされ、様々なタイプの症状があります。その中でも破瓜型統合失調症は予後が悪く、なかなか完治しづらいと言われています。
統合失調症になると、社会生活に大きく支障が出ることもあります。被害妄想がひどくなれば本人が加害者になり得る可能性もあり、医療関係者は対応に細心の注意を払っています。

恐怖心を掻き立てるようなことを書きましたが、このような症状はいつ、どんなことで、誰に起こるか予測がつきづらいのです。
「自分は鋼のメンタルを持ってるから大丈夫!」と思っていても、思わぬストレスが原因でうつ病になる可能性は否定できないのです。
(補足:全ての精神疾患においてストレス脆性や遺伝などによって発症のしやすさが個人によって異なります。必ず発症するとも限りません。)

さらに、周囲の人がこころに問題を抱えている事に気づけなかった場合も大変なことになり得ると考えられます。
うつ病を患った同僚や友人に励ましのつもりで「頑張れよ!お前だったらできるだろ?」と言っても逆効果です。相手の苦しさやその原因をよく知らないまま接していると「助けて」というサインを見逃したり、逆に精神的に窮地に追いやることにもなりかねません。
大切な人の自殺をあと一歩のところで止められず、後悔するかもしれないのです。

それだけこころは扱いづらいものなのです。

芥川龍之介は人生についてこのように述べています。

人生は一箱のマッチに似ている。 重大に扱うのは莫迦莫迦しい。 重大に扱わなければ危険である。
芥川龍之介 箴言集『侏儒の言葉』

人が生きる上でこころはとても大切です。誰しもこころなくして生きていくことは無理です。
この文で人生=こころと置き換えても同じ意味になると私には捉えられます…

2.こころの問題に関心を向ける意味

こころの問題に関心を持つ意味は2つあると考えています。

まず、自身がこころの問題を抱えた時にどう対処すればいいのかを考えるようになります。「ここ最近不眠が続くし、なんかやる気が全く出ない…食事も食べたいと思わないし…」と感じうつ病を疑うのであれば精神科医に診てもらったり、仕事を休んだり無理な労働を避けたりすることが可能になります。
もしもうつ病の症状を知らないのであれば「最近の自分は弛んでるんだ!」と余計に無理をしたり我慢し続けることになります。
特にうつ病は「やる気の持ちよう」と考えられる傾向があるので「自分は病んでなんかいない!」と考えて治療が遅れる可能性もあります。

次に、友人など周りの人がこころの問題を抱えた時にどう接したらいいか考えられるようになります。辛そうな人をみて「何か力になることはできないかな?」と感じ、話を聞いたり、そっと見守ったり、ずっと付き添い続けたりするようになります。
相手がどう感じ、苦しんでいるかを考えるからこそ、信頼され、寄り添うことが可能になります。
何もわからず「大丈夫だよ!」と言ってしまえば、相手から「ああ、この人に言っても分かってもらえないんだ」と思われてしまいかねません。そうなればSOSサインを見逃してしまいます。

他罰的になる非定型うつ病や対応が難しいパーソナリティ障害では「私のこと何もわかってない!」「私なんてどうでもいいって思ってたんだ!」と思われることもあります(私や母はよくそう思って周りの人に当たり散らしてました。遺伝なのかな?)。

3.こころに関心を向ける本質

身体もそうですが、日頃から体の感覚に関心を向けていないと少しの変化に気づきづらくなります。
無性に喉が乾くことや急に太ったり痩せたりすることに気づかないと糖尿病が悪化しますし、動悸や左腕の痺れを「何でもない」と放っておくと心筋梗塞で倒れてしまいます。
こころも同じように日頃から気にかけていないと無理が祟って「ボキッ」と折れてしまいます…

こころの問題に気づくためには(身体疾患もそうですが)自己洞察(分析)が必要です。
自己分析もしないで些細な変化に気づくのは難しいことです。
ですから、こころの問題に関心を向けるのは、本質的には自己分析を行うためでもあります。
それができた上で他人の状態も分かるようになってきます。
分からないからこそ「性格の問題じゃないの?」などと短絡的な答えを付けてしまうのではと考えています。脳は分からない問題に対して合理的な答えを作り出す傾向があるそうです。
思慮の浅い人ほど性格の問題にしたり気合いが足りないなど精神論をかざすように感じます。

4.まとめ

科学技術や都市開発が進み、暮らしはより豊かで快適になってきています。
しかし依然としてこころについては未解明な部分が多く、正確なコントロール方法も分かっていません。

そのような謎に満ちて不安定なものを私たち一人ひとりが生まれながら持っているからこそ、私たちはこころについて考えていく必要があるのです。

どれだけ身体が健康でも、こころが病めばそれは意味を成しません。どのような状態においてもこころが充実していることが大切です。

そのためにも、まずは自己分析からでもやってみませんか?

私の願いは、たくさんの人に少しでもこころの問題に関心を持ってもらうことです。 そして、こころの問題で苦しむ多くの人が癒される時代が来ることでもあります。 もし応援していただけるのであれば、サポートもよろしくお願いします。