【ぼやき】『放浪息子』を鳩尾に喰らった者の呻き
どうして人生はこんなにも苦しいのだろうと思うことがある。
神がいるならどうして人生はこんなにも苦しいことばかりなのかと。
実を言うと、自分が二度目に読んだ『放浪息子』に見たものはそういう痛みだった。
人生は痛みに満ちている。
思う通りの自分になれない痛み。
わかってもらえない痛み。
悪意にさらされる痛み。
好きな人に好きになってもらえない痛み。
先日書いたnoteからマイナスなことしか言っていない気がするけど、自分は『放浪息子』が好きで好きで仕方ないのでこうもダメージを受けている。
(二鳥くんやほかのキャラクターが好きで好きで仕方ないのでこんなにも苦しくて痛い。)
生きることはままならないことばかりだ。
フィクションの中くらい、好きなキャラクターたちくらい、そんな思いをしないでほしいと思う。
けれども、この漫画は苦しいくらいに「現実」を描き出す。
そんな「現実」をそれでもしっかりと生きているからこんなにも愛おしいのかもしれない。
高槻さんは二鳥くんに自分はもう男の人になりたいと思っていないと告白した。
そして、「二鳥くんが好きみたい」とも。
なんで高槻さんは最後の方で二鳥くんを好きになったんだろうかと考える。
本当にそれは恋だったんだろうか。
きっと本当は何かに抗おうとしていたんじゃないだろうか。
否が応にも変わっていってしまう何かに。
そんな高槻さんの話に千葉さんは泣いていた。
彼女は高槻さんよりもずっと二鳥くんに恋していて、高槻さんと二鳥くんの関係に嫉妬して、憧れていたから余計につらかったのかもしれない。
現実は悲しい。
生きることは悲しい。
きっと、みんなが小学生の頃、ほんの一時の楽しかった頃の思い出を持ち続けている。
そして、それが少しずつ少しずつ失われていくのに無意識に抗おうとしていたのだと思う。
けれども、それが失われていくことに誰も抗うことはできない。
それを知って、納得していく。
それが「大人」になるということなのだろう。
二鳥くんは「失われていくの時」の象徴のような存在だ。
背が伸びていく。
ひげが生えはじめる。
オナニーをするようになる。
あの頃のかわいいままでいられない。
ずっとかわいいままでいられたらよかったのに。
誰もが、二鳥くんが女の子の格好をするのを「普通」と考える世界であったらよかったのに。
『放浪息子』はひとつの袂別を描いて終わる。
それは彼らの大事な大事な「あの頃」を決定的に手放すことだった。
大人になるとは、大切な何かを手放すことだ。
誰もがそれを分かっている。
分かっているから何も言わない。
ただ悲しいだけだ。
そう思うことを誰が咎めよう。
二鳥くんは旅立っていく。
その背中は力強い。
世界は残酷で、生きることは悲しい。
ままならないし、痛みで満ちている。
みんな分かってる。
だからこんなにも愛おしいんだ。
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