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日本人、案外優しいじゃん

2023年12月、ある土曜日の夜、わたしは階段を踏み外して足首を捻挫した。
むちゃくちゃ痛かった。手すり、壁、柱など体を支えてくれるものがなければ床を這って移動するしかなかった。応急処置でアイシングしながら、いつ病院に行くべきか考えた。もしかして軽症なのかもしれないし、日曜は休診だ。ひとまず様子を見ることにした。
月曜日の朝の時点で腫れは引き、痛みも弱まって、冷湿布を貼れば足を引きずりながらでも歩ける程度になった。
わたしの母は体が故障しても体調が悪くても休まない人である。そういう母に育てられたわたしは、痛いけど歩けるから大丈夫だと思って病院に行かなかった。

わたしの仕事の一つは大学非常勤講師である。勤めている大学にはエレベーターがない。教室は2階。階段が無限に長く見えた。しかし登るしかない。
絶望的な気持ちで階段を登り始めたら、学生たちが声を掛けてくれた。
「先生どうしたんですか」
「荷物持ちましょうか」
「ドア開けておきます」
わたしがのろのろと移動するのを、辛抱強く待っていてくれる。
なんて良い子たちなんだ!
君たちこそ日本の希望だ!!

そんなこんなで9日間が過ぎた頃、家業の飲食店で働く中国人スタッフにたまたま会った。
「その足、どうしたんだ」と彼は中国東北訛りの中国語で尋ねた。
「階段から落ちた」とわたしは答えた。
「病院には行ったのか」
「行ってない。大丈夫」
「大丈夫じゃないだろう。明日すぐに行くべきだ」
「でももう9日過ぎたよ」
彼は病院に行くべきだと主張を続けた。わたしを椅子に座らせ、靴を脱がし、足首からつま先まで指で押しながら「ここは痛むか?」と確認していった。わたしが「痛い!」と言った場所をしつこく何度も押す。「痛い!」と騒いでいるわたしを無視して中国語で解剖学的構造を解説してくれるが、わたしは専門用語がわからないし、そんなことはどうでもいい。とにかく痛いんだ! 押すのをやめてくれ!
「なんでそんなに詳しいの?」と尋ねたら、彼は調理師になる前にそういう知識の必要な仕事をしていたらしい。彼の訛りが強い&わたしの語彙力不足のため、具体的に何の仕事なのかはわからない。
彼は最終的にわたしの体を支えながら家まで送ってくれた。ちなみにこの人には30歳の息子がいる。「君は子どもみたいなもんだ」と10分余りの道中で4回くらい言われた。

この中国のお父さん的存在の言いつけを守らないと次に会った時に何をされるかわからない。わたしは翌日、病院へ行った。結果、骨に異常はなかった。典型的な捻挫だと診断された。足首を固定するサポーターを装着し、松葉杖をついて歩く生活が始まった。
すごくすごく楽になった。もう痛くなかった。「痛い時は痛いって言ってもいいんだ」と、どこかで聞いたような言葉を初めて自分の身で体験した。

その後、わたしは中国のお父さん的存在に報告に行った。骨に異常はないし、足首が動かないようにサポーターを着けていることを説明した。彼は満足そうに笑った。
この人がいなかったらわたしは恐らく病院に行かず、痛みを堪えるだけの生活を続けていた。お父さんありがとう。

さて、12月下旬、久しぶりにポスドク時代の仲間が集まることになった。わたしは2時間電車を乗り継いで参加した。ポスドクなんて研究室では何の地位もないので、わたしは迎えに来てもらうなんて思いつきもしなかった。最寄り駅で電車を降りて徒歩で古巣へ向かった。
しかし、松葉杖をついて研究室に現れたわたしを見て、一同は騒然とした。「なんで言わなかったんだ! 車で迎えに行ったのに!」
これはそんな大変なことなのか。むしろわたしがビックリだ。

様々な気遣いを受けて過ごした数時間の後、帰路についた。電車の乗り換えは2回ある。往路の電車の乗り換えも苦労したが、帰路も大変だった。上りと下りではエレベーターの場所が違うのである。
往路はどうにかなったが、帰路は、駅が広大すぎてエレベーターを見つけられなかった。「バリアフリーどころかバリアだらけじゃねえか!!」と内心ブチ切れながら階段を降りようとしたら、仕事帰りらしきコンサバな服装の、都会的で美しい女性二人組に声を掛けられた。
「大丈夫ですか?」
大丈夫じゃありません。と思ったのは覚えているが、何と返事したのかは忘れた。
「エレベーター使ったほうがいいんじゃないんですか?」
「エレベーターの場所がわからないんです」
「あっ、じゃあ、よかったら一緒に行きましょうか?」
天使かこの人たちは。降りかけた階段を登り、エレベーターに向かおうとしたら、今度はスーツ姿の若い男性に出会った。余計なお世話だが、仕事に疲れているのか人生に疲れているのか、癖っ毛の髪が少しくたびれているように見えた。その男性は女性たちに話しかけ、女性たちが状況を説明した。結果、男性がわたしをエレベーターに案内してくれることになり、天使のような女性たちはにこやかに去っていった。男性はわたしをエレベーターまで連れて行ってくれて、しかも「ホームの構造はこうだから、この方向へ歩くと近くて楽ですよ」など細かいことまで教えてくれた。髪がくたびれている彼は仕事に疲れているのかもしれないし人生に疲れているのかもしれないが、それでも凛々しく見えた。

そんなこんなでたくさんの人に支えられて、わたしは捻挫生活を送った。

日本で生まれ育った日本人として意外だったのは、日本人が親切だったことである。
わたしは東京に3年住んでいたが、わたしの知る東京人は親切の真反対の人たちであった。
北海道には13年住んでいたが、道民にも、困っている人を助けよう精神は感じなかった。
アメリカに5ヶ月滞在した時は、日本と違って車椅子の人やお年寄りを助けることが当たり前に行われていて感動した。
その経験ゆえに、わたしは日本嫌いのアメリカ贔屓であった。
地域差なのか個人差なのか時代の差なのか全くわからないが、とにかく今回の捻挫生活では多くの親切な日本人に助けられた。しかも若い人が多かった。ここに書ききれなかったエピソードもたくさんある。
捨てたもんじゃねえな。見直したぜ、日本。


優先席近くのドアの前で待機。優先席の存在にこれほど感謝したのは初めて。

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