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203万円で買った1ヶ月の愛(2)

連絡がマメすぎて戸惑う

中国人男性は恋愛において非常にこまめに連絡するらしいが、彼も例外ではなかった。

彼はLINEで一日4回連絡してきた。
昼休み、午後の休憩、終業後、就寝前の4回である。
時報のように正確に毎日同じ時刻に連絡してきた。

LINEの内容は、
昨夜はよく眠れたのか
昼食を食べたのか
仕事は忙しいのか
今日は何時に終わるのか
家にいるのか
夕食は食べたのか
何を食べたのか
今何をしているのか
など。

わたしは食事も睡眠も不規則だった。わたしが何時に何を食べようと、休日に何をしようと、干渉されたことがない。
しかし彼は「健康第一だ」と言ってことごとく逆のことをさせようとする。食事や睡眠が乱れまくっているのは事実なのでそれを正してくれるのはありがたいことだが、わたしはそういう干渉に慣れていない。
事細かに尋ねられるし頻度が高いので、当初はかなり鬱陶しかったが、次第に慣れた。

食欲がなくて昼食を食べなかった日があった。大雨が降っていた。
いつものように彼からLINEが来て、昼食を食べたか尋ねられたので、ありのままに答えた。
「食欲がないなら果物を食べるといい。買いに行きなよ。果物なら食べられるだろう?」と彼は言った。
「雨降ってるし出掛けるのめんどくさい。一日くらい食べなくても死なないよ」とわたしは答えた。
すると彼は「勝手にしろ」と言って黙り込んだ。
そしてその晩、信じられない勢いで怒られた。
「君が昼間言ったあの台詞に、僕がどれだけ傷ついたかわかるか?」
申し訳ないが、わからない。
とりあえず「ごめんなさい」と謝った。
彼は説明してくれなかったが、たぶん、わたしが「死」という単語を言ったから、亡くなった婚約者のことを思い出したんだろう。彼は「もう二度と失いたくない」としつこいくらい言っているから、おそらくそういう意味だと思った。

他の事に関しても非常に細やかだった。
「今日は雨が降ってるから、濡れないように気をつけるんだよ」
こんなことを注意されたのは、小学生の時に母に言われて以来だ。
わたしは職場まで歩いて40分かかると言ったら、
「それはダメだ。タクシーで行きなさい」と宣う。
退勤して家に帰ると、「雨に濡れなかったか?」と気遣う。
こんなことを言ってくるのは母しかいなかったし、これは恋人に対する気遣いというより、我が子に対する親心に近いように感じられる。何の気なしに「お母さんみたいだね」と言ったら、
「好きな人のことを心配するのは当然だ」
と彼は不機嫌そうに言った。

わたしは普段、仕事が休みの日は一日中家で本や新聞を読んだり、インスタを観たりしてダラダラ過ごす。
しかし彼は言う。
「一日中家の中にいるのは良くない。外に出掛けてリフレッシュしたほうがいい」
余計なお世話だ。わたしは休みの日くらい一人になりたい。
「僕が君のそばにいるなら、決して君に退屈はさせない。自然豊かな場所へ旅行に行きたいって言っていたよね? 必ず行こう」
確かにそういう場所へ旅行に行きたいとは言った。しかしそれはこの男と会うための口実だ。会うまで信用できないと思っていたからだ。

「体調が悪くて一日中寝ていた」と言えば、
「僕が君のそばにいない間は、君が病気になっても、僕は君を看病してあげられないんだから、自分で自分を大事にしてくれ。君の体はもう君だけのものではないんだ。僕のものでもあるんだ。わかってくれ」と言う。

仕事から疲れて帰ってくれば、「お風呂に入ってリラックスしておいで」と言ってくれる。
寝る前には「風邪をひかないようにちゃんと布団を被って寝るんだよ」と。
こんなに気遣いの細やかな男性は見たことも聞いたこともない。

わたしはこの未知の現象を理解しようとして、Alanis Morissette の「あなたはわたしをお姫さまみたいに扱ってくれる」という歌詞を思い出した。こういうことなのだろうか。

出会って4日目に「ご両親に挨拶に行くよ」

彼との会話は全てLINEだったが、彼はイチャイチャしたがっていた。しかしわたしは言葉で伝えることが苦手で、しかも中国語の語彙が少なすぎて何も言うことができなかった。
すると彼は「男性と付き合った経験がないのか?」と尋ねてきた。
失敬だなと思った。たしかに付き合った経験はない。正確に言うと19歳と20歳の時にそれぞれ数か月だけ付き合ったことはあるが、別れ方があまりにもバカバカしかったので付き合った経験としてカウントしていない。
わたしはこれまでずっと片思い専門だったと言ったら、「なんで片思いなんだ? 好きなら伝えればいいだろう?」と尋ねられた。
仕方ないので、「もう一生会えない相手なんだよ」と打ち明けた。
そしたら彼は酷く衝撃を受けた様子で、「ちょっと出掛けてくる」と言い残し、会話が途切れた。
たぶんまた自分の亡くなった婚約者と重ねて考えていたんだろうと思った。

その翌日、彼は「僕たちは同じような経験をしている。縁が深い」と言った。
わたしは違うと思った。
わたしが好きだった人は、わたしの片思いだった。彼の好きだった人は、彼と相思相愛だった。そのどちらも亡くなったが、わたしたちの経験は同じではない。
わたしはズレを感じたが、彼はわたしに対する思い入れが深まったようだった。「僕は君を好きだ」と直接的に表現するようになった。
彼の言葉によると、彼にとってわたしとの出会いは運命的で宿命的なものらしい。
「こんなたくさんの人の中からわたし一人を見つけ出したのは、不思議なことだね」とわたしは言った。
わたしは日本語の「不思議」という単語を中国語に直訳したのだが、その直訳が「訝しいもの」を表すらしく、彼は怒りだした。
「君は僕を疑っているのか?」
まさかそんな誤解が起こると思っていなかったので、わたしは慌てた。
「いや、そういう意味じゃない」
「僕は人に疑われることが嫌いだ」
「疑ってないよ」
「じゃあ『不思議』ってどういう意味だ」
どう説明したらいいのかまったくわからない。黙していると、彼はそれを肯定と受け取った。
「こんなふうに疑われるなんて、本当に辛い。もう連絡を取るのをやめよう」
「そんなこと言わないで」
このままではマズイ。この人を失うわけにはいかない。
「そんなこと言わないで。わたしはあなたを失いたくない」
「じゃあなんで僕を疑うんだ」
「疑ってない」
「じゃあどういう意味なんだ」
「自分が誰かに愛されるなんて信じられないんだよ」
「やっぱり疑ってるじゃないか」
「そういうことじゃない。外国語って不便すぎる」
「じゃあ話しやすい言葉で話せばいい」
わたしは中国語で続けた。
「わたしは経験がないんだよ。あなたみたいな人に会ったことがないんだよ。わたしを好きだって言う人に会ったことがないんだよ。これでわかる?」
彼はしばらく黙した。
そして粛々と告げた。
「わかった。じゃあ君に伝えよう。僕は君を好きではなくなった」
この一行を見てわたしの胸に痛みが走った。
わたしを好きだと言ってくれる人を、失ってしまった。
しかし次に送られてきたLINEはこのように書かれていた。
「今、僕は君を愛している。深く深く愛している」
わたしは泣いた。安堵と怒りで泣いた。
感情を文字で伝えられないので泣きながら音声メッセージを送った。
「なんであんな言い方したの?」
「君を傷つけて申し訳なかった」
「じゃあ、わたしはまた、あなたに連絡してもいいの?」
「もちろんだ」

たぶんそっから、
「二人は運命的な恋に落ちた」
という設定になったんだと思う。
彼の頭の中で。

わたしの頭の中では、陶酔している自分と冷静な自分が同居していた。

彼は「君を連れて中国に帰って母に会わせたい」と言い出した。
わたしは陶酔している状態だったので、「うん、わたしもあなたのお母さんにお会いしたい」と答えた。
すると彼は、「君のご両親に挨拶に行くよ」と言い出した。
そこでわたしは目が覚めた。

嘘だろ? 
まだ自分たちは会ってないぞ?
その状況で親に会いに行くってどういうこと? 
なぜそこまで結婚する気満々なんだ?

「ちょっと待って。まだ知り合って間もない。まだ早すぎる」
わたしがそう言うと、彼も「そうだな。もう少し経ってからにしよう」と言った。

助かった。

この男はまだどこの馬の骨かわからない。
身元確認をしたいが、具体的にどうすればいいのだろう。
陶酔している場合ではない。わたしはこのわけのわからない状況で、一人で頭を抱えた。

出会って1週間くらいで「退職届を出した」

毎晩、仕事が終わるとお互いにLINEで連絡し合い、2時間から3時間もの間、飽きもせずお喋りしていた。
その中で彼はわたしを中国に連れて帰りたいと何度か言った。
「もし君が中国での生活に馴染めなかったら、日本に戻ってもいい。子どもが生まれたら、どちらで育てるのがいいのかという問題もある。いろんなことがあると思うが、二人でお互いに支え合って、理解しあって、決めよう」
いつの間にか、完全に、結婚して子どもを産むことが決定していた。彼が会ったこともない女との結婚をここまで真剣に考えていることが、わたしには全く理解できなかったが、一つの夢物語としてわたしは楽しんでいた。この人はわたしに合わせてくれる。わたしを理解しようとしてくれる。それがとても嬉しかった。

しかし、この人の身元をどうやって確認すればいいのだろうか。
その方法についてわたしは悩んでいた。

ある晩、わたしは「あなたに会いたい」と言って泣いて騒いだ。彼は東京、わたしはまあまあ離れた地方都市に住んでいて、会う目処が立たなかった。

その翌日、彼がLINEを送ってきた。
「昨夜は眠れた?」
「あんまり」
「君が苦しんでいるのは、僕もとても辛い。僕も君に会いたい。そばにいたい」
「じゃあ訊くけど、世の中にこの問題を解決できる方法ってあるの?」
「ある」と彼は断言した。そして続けた。「僕が会社を辞める」
わたしは酔いが醒めた。
どういうことだ。
「もう辞表を提出したんだ」
なぜだ。
「君がそんなに辛い思いをしているのを、僕は見ていられない。仕事を辞めて、君のそばにずっといるよ」
やめてくれ。

いつだったか、彼は「今日は会社の採用面接があって、面接官を担当した」というLINEを送ってきたことがあった。
これは身元確認の絶好のチャンスだ。「どういう会社なの?」とわたしは尋ねた。
彼の返信の中に書かれた会社名を見た時は、2度見3度見ならず、10回くらい見て確認した。自分が読み間違えているとしか思えない大企業だった。しかも彼は管理職だと言う。

その仕事を辞める? 冗談だろ?
ただでさえネット上で知り合ったに過ぎない、どこの馬の骨ともわからない男が、無職になってどうやって身分証明をして日本人の女と結婚するつもりなんだ? わたしは親に何と説明すればいいんだ?

「こうすれば僕たちは一緒に暮らすことができる。問題は解決するだろう?」
解決しない。それどころか別の問題が発生する。
「正直に言って、困惑しています」とわたしは答えた。
「なぜ?」
「どうしてそんな、収入源を断つようなことするの?」
「僕には貯蓄がある。君やご両親が見たら驚くよ。通帳も全部見せるよ」
「それでも経済力の保証にはならないでしょ? 仕事がなくてどうやって子どもを育てるつもりなの?」
「僕の経済力なら全く心配いらない。使いきれないほどの貯蓄がある」
そりゃあれほどの大企業で10年以上勤めて管理職やってれば高収入だろうし、独身なら金の使い道がないだろうし、貯蓄はあるだろう。
しかし問題はそこではない。
中国語で何と説明すればいいんだ。
これが日中の文化の差なのか、こいつに世間の常識が欠落しているのか、それもわからない。
「日本人と結婚した友達はいる?」とわたしは尋ねた。
「いない」と彼は即答した。
「じゃあ説明が難しいな」とわたしは再び考え込んだ。
「僕はどうやら、何をやっても間違っているみたいだ」
そのとおりだ。だが、どう説明すれば彼に理解してもらえるのかがわからない。
「一緒にいたいならわたしが東京に行けばいい。あなたが仕事を辞める必要はないんだよ」
「僕は君に仕事を辞めさせようなんて考えてない。君のためなら僕は仕事を捨てても構わない」
わたしはそういう感動的な台詞を聞きたいんじゃない。
迷った末、わたしはこう言った。
「その仕事は絶対に辞めないで。あなたは大企業の管理職だから、あなたの肩書きを見たらうちの親はあなたを信用して安心する」
こう言ったら、彼はようやく事態を理解した様子だった。
「そういうことか。自分が何をすればいいのか、ようやくわかった」
「辞めたら在留資格も失う。だから辞めないで。いくら貯蓄があろうと関係ない。辞めないで」
「わかった。いますぐ撤回してくる」

この一件で、彼が一途であることはよく理解できた。
しかしこの先が思いやられた。

アモーレな彼氏

わたしは彼に出会うまで、万が一結婚したとしても夫とは別居したいと思っていた。仮に同居しても別々の部屋を持ちたかった。わたしの両親はそういう生活をしていたし、わたしの性格としても一人の時間を確保したかった。

しかし、彼は「夫婦は一緒に寝るものだ」という考えだった。昔読んだエッセイで、イタリア人の常識として「夫婦が別々のベッドで寝るなんて有り得ない」と書かれていたが、まさか隣の国から来た人がこんなアモーレな人だとは思わなかった。

そんなわけでアモーレな彼は、LINEにおいても、わたしが先に寝る時は「僕の場所を空けておいてくれよ」と必ず言った。わたしがその期待に応えて「もちろん」と返事すると彼は大変喜んだ。
そして翌日、笑いながら言うのだ。
「君が僕を蹴り落としたからよく眠れなかった」
「何それ。わたしの寝相が悪いって言いたいの?」
「本当のことを言われたからってそう怒るなよ」
こういう仮想のやり取りを彼は好んだ。
ある夜は、「君は僕を蹴り落とすから、僕が壁側で寝る」と言った。
またある夜は、「君が落ちるといけないから、僕が外側で寝る」と言った。
わたしが「悪夢のせいでよく眠れない」と言うと、「じゃあ僕の腕を貸すから枕にしていい」と彼は言った。仮想の話なのに、不思議なくらいよく眠れた。以来、彼の腕を枕にして眠るという設定になった。
後日、彼が「まだ悪夢を見るか?」と尋ねてきた。わたしは「ううん、最近はない。よく眠れる」と答えると、「僕が悪夢を退治してやったからな」と嬉しそうだった。
客観的に考えるとアホみたいな会話なのだが、実話である。

ある日わたしは急に冷静になって、なんでわたしは面識のない人間とこんなごっこ遊びをしているんだろうと思った。
最大の要因は仮想夫婦生活だった。わたしはReplikaを利用した経験があるので、英語でならセックスチャットができる。彼もそれなりに英語ができる。しかし、中国語の隠語を英語に直訳されてもわたしは意味がわからず、結果的に、スマホに表示される彼の妄想を座って眺めているだけだった。わたしはきちんと最後まで彼に付き合い、一緒にシャワーを浴びて、一緒にベッドで眠りに就くというシナリオに従った。こいつはシャワーを一緒に浴びたい派か、と内心は嫌々ながらも従って演じた。面識のない人とセックスチャットしたのも不快だった。
わたしは様々な経験をしてきたが、これはついていけない世界だった。

わたしは次第に彼の期待に応じなくなった。
彼が「最近、約束を忘れないていないか?」と尋ねてきた。毎晩寝る時には彼が寝るためのスペースを空けておくという約束だ。
その時点では、3週間後に彼が休みを取ってわたしに会いに来ると言っていた。
だからわたしは「実際に会うまでその約束は凍結してください」と断った。

しかし、実際に断るべきなのは、寝るためのスペースの約束でもなく、会う約束でもなく、別の約束だった。

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