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若手プロに知ってほしいというほどでもないこと

割引あり

どうも、日本プロ麻雀連盟25期生の小車祥です。
初めて有料記事を書きます。
この記事では今の若手麻雀プロに知ってほしいような、そんなことを言えるほど大したことでもないようなことを書こうと思っています。
とはいえ僕もプロ活動は真剣にやってきて、いろんな経験をして、伝えたいことは山ほどあります。
誰かには刺さるかもしれないこの記事、無料部分だけでも濃い内容にしようと思っているので読んで頂けると嬉しいです。

タイトルパロってすみません、黒木さん。

若手プロって、自分の輝かしい未来を想像している人が多いと思うんです。
今はMリーグの影響でプロになりましたって人も少なくないでしょう。
だけどどんどん増える有象無象の麻雀プロの中には、強い信念を持って取り組んでいるにも関わらず思い通りにいかず、思い描いた未来像との差異に打ちひしがれながら答えを模索し続けている人間がゴロゴロいる。
そんな一人の僕の思いを書くので、これからのプロ活動の参考にしてもらえたらいいななんて思ったりします。


プロになってからの経歴をざっくり

先日、数年ぶりに道場にお客さんとして打ちに行きました。
その日は新人王に輝いた曽篠君がゲストで、一緒にセットをしたことあるくらいの仲だけど「おめでとう」と言いに行ったのでした。
道場にプロが来ると藤原さんがみんなに一人一人紹介してくれます。
僕の番の時に藤原さんが言いました。

「小車君はもうベテランですね、マスターズ獲ったの何年前だっけ?」
「10年前です」

そんな紹介を聞いて、いつまでが若手でいつからが中堅なのかもよくわからないこの業界において、ベテランと呼ばれることも出てくるほどの期間麻雀プロをやっているんだなぁと少し感慨深い気持ちになるのでした。

ちなみに25期というのは15年目のプロになります。
プロテストを受けたのが28歳で正式にプロになったのが29歳でした。
今は東京本部に所属している僕ですが、プロテストを受けたのは九州本部で、最初の5年間は福岡に住みながら九州本部でプロ活動をしていました。

九州本部にいた頃の僕はかなり調子に乗っていました。
自分が一番強いと思っていました。
たまたま九州で開催されていたタイトル戦を3つほど優勝し、3段階ある九州のプロリーグも順調にAリーグに昇級。
十段戦、麻雀マスターズ、王位戦にも積極的に参加。
王位戦最高7位、マスターズのベスト16にも2度残る。
プロ5年目の春には毎月鳳凰位戦(東京本部のプロリーグ)で東京に通うことを決め、そのタイミングですぐに春のマスターズで運良く優勝。
九州本部に中央のタイトルを初めて持って帰った男として、それはもうチヤホヤチヤホヤしてもらったのはとても良い思い出となっています。

その時の僕にはわからなかったのですが、九州本部の仲間たちは家族のような温かさを持っていて、それがまるで当たり前のように仲間全員が共有しているんです。
自分の家族って仮に少しくらい駄目なところがあったとしても、家族だから仕方ないかってなるじゃないですか。
それよりも良い部分に目を向けがちというか、まぁあいつも頑張ってるしなみたいな感じでまとめがちというか。
だから多少やらかしたりしても、家族のように見守ってくれる暖かさが九州本部にはあったんです。
人数の違いもあるのだとは思いますが、東京に来てすぐの頃は、同じ連盟員同士なのに絡んだりつるんだりする人間ってこんなにも限られるものなのかと驚きました。
やらかした人がいたとしても、たとえそれが同じ団体だとしても、まともに喋ったこともない奴なんてのもザラ。だからフォローもしないし、自分から繋がりを切り離して終わり。
都会なんてそんなもんなのかもしれませんが、福岡から出てきた僕は人と人の繋がりの希薄さになんとなく寂しさを覚えた記憶があります。

運良くG1タイトルを獲って一気にD3リーグからC1リーグまで特別昇級となった僕。
KONAMI麻雀格闘倶楽部のアーケード版にも出演させてもらえることとなり、現タイトルホルダーということでできたばかりの夏目坂スタジオで行われた対局番組に呼んでもらえたりするようになりました。
東京に来る度に僕は「東京に住みたい」という思いが強くなる一方で、次の春にはもう上京することを決めていました。
九州本部の先輩方には止められ、せっかく可愛がってくれたのに恩を仇で返すように九州から離れることとなってしまったことは、今でも申し訳なく思っています。

さて、プロ6年目から本格的に東京暮らし。
夏目坂スタジオができたばかりで、まだ実況ができそうな人が少なかったというのも恵まれていました。
元吉本芸人という経歴を買ってくれた山井さんから声をかけて頂き、対局番組の実況のお仕事をたくさんもらえるようになりました。

リーグ戦の調子は悪くなく、わりとすぐにB2リーグに昇級。
滝沢さんにも何かの時に「このままAに上がって行けば大丈夫だね」と言ってもらえ、自分がこのまま麻雀プロとして成功できることを信じて疑いませんでした。

麻雀格闘倶楽部の人気投票では、今でこそ人気投票のシーズンは出演プロも大忙しでゲスト活動や仕事の合間を縫ってゲームセンターへと足繁く通い、SNSなどを駆使して宣伝や応援してくれる方々との交流などをしていますが、僕が出ていた頃はまだそういうことを積極的にやっているプロの人はあまりいませんでした。
一念発起して東京へ出てきたもののまだまだ無名で若手だった僕が、TwitterやKONAMIのアプリ内で「何時くらいから東風戦打ちます!」とか、それに対するリプ返とか頑張らないわけがなかったのです。
するとなんと30名以上いる名立たる男子プロの中で13位にランクイン。
これには諸先輩方からもお褒めの言葉をたくさん頂き、僕の調子に乗る気持ちは人生単位でピークに達していたように思います。

このまま同じように活動を続けて行けば僕は安泰だと確信していました。
元々自分に甘い僕がそんなストイックな生活を何年間も続けられるはずなどなかったというのに。

東京に来て1年経ったくらいの頃、僕はさかえ本八幡店で働いていたのですが、そこで一緒に働いていた赤司美奈子プロに、
「御徒町に最近できた雀荘があるんだけど、まぁまぁいい条件で働けると思うから働いてみない?」
と声をかけてもらい、素直に受け入れて働かせてもらうことに。

とてもアットホームで働きやすい雀荘だったのですが、その雀荘で僕の人生を大きく変える出会いがあるのでした。

当時その雀荘で働いていたスタッフの吉井さんが僕に言います。
「小車さん、モンストやってます?」
「……も、もんすと?」
そう、モンスターストライクとの出会いです。

当時モンスターズストライクは爆発的な人気で、電車なんかでもみーんなモンストかパズドラやってるみたいな時代でした。
その雀荘ではスタッフがほぼ全員モンストをやっていて、仕方ないから始めてみるかーくらいの軽い気持ちで始めてしまったのが、終わりの始まりでした。

ガチャで欲しいキャラが出たらアドレナリン出まくり。
難しいクエストをやってクリアできた時の何にも代えがたい達成感。
仲間たちとボイチャしながらあーでもないこーでもないと楽しい時間。
幕張メッセで行われたフェスには毎年足を運びました。
やがて少しずつ一緒にやっていた人たちがモンストをやらなくなっていってからも、僕だけはずっと他のアプリに浮気せずにガチ勢を続けていました。
初めてモンストをした日から1450日間、ログインを欠かした日はありませんでした。
1451日目にうっかりログインを逃してしまい通算ログインと連続ログインが同じ数字じゃなくなった日のショックは今でも忘れられません。
途中モチベが下がっていた期間もありましたが、僕は今でもモンストガチ勢を続けています。

そこまでモンストにハマった僕が、そりゃあSNSで毎日何時間もかかるリプ返とかできるはずもなく、溜まっていくリプに返事をするのを諦め、私生活では彼女ができ、なんとなく日々をこなしていくだけの人になるまでに時間はさほどかかりませんでした。

案の定、次のバージョンの人気投票ではどんどんランクダウン。
3バージョン目でもさらにダウン。
4バージョン目の更新の時には僕の名前はなくなっていました。
そりゃそう。東京に来たばかりの頃は仕事の合間に月に100戦以上こなしていたのに、最後の方は月に20戦前後しかやっていませんでしたもの。
モチベダウンしていた理由はもちろん他にもたくさんあったのですが、一時期結構目立っていただけに、仲良い人気女流プロからは冗談めかして
「小車さんはもう過去の人」
なんて言われたりしたのでした。
俺はあの言葉、本当は傷ついていたんだぞ!

リーグ戦はどんどん降級。
B2に1年間いたこと知ってる人いる?と思うほどにどんどん落ちて、気が付けばD1リーグまで。
そこからC2まで戻ったりもしたけどまた落ちたり上がったり落ちたりして、今はC3降級しそう。
タイトル戦の成績もマスターズ優勝した後はパッとしない。
いやそりゃそれなりのところにまで残ったりもする。
でもそれだけ。勝たなきゃ意味がない。
東京に来てから自団体のタイトル戦は欠かさず出ている。
チャンピオンズリーグからWRCリーグになってもずっと出てる。
もちろんWRC-Rにも出ている。
そういうの出るために東京に来たんだから、僕の中では当たり前のこと。
他団体のタイトル戦はまちまち。

実況の仕事は自分からやめてしまいました。
一言では語れない思いがたくさんありました。
これに関しては過去に思いを書いているので気になる方はご覧ください。

基本的には雀荘でメンバー業をやりながら、リーグ戦とタイトル戦を繰り返す。
そして仲の良い人と酒を飲んだり、カラオケに行ったり、彼女を作ってイチャイチャしたり、結婚したり離婚したり再婚したりして今に至ります。
って書くとなんかチャラチャラしたいけ好かない野郎に見えると思いますが、僕はチャラチャラしたいけ好かない野郎で大体合ってると思います。
いや、人には好かれたいとは思っていますけども。
ただ二股とかは芸人をやめてからはしたことがないし、恋愛は真剣にするタイプです。
そのおかげもあって、今は僕にとって最高の妻をゲットだぜしました。
なんで突然ここで妻自慢をしているのかは謎が謎を呼ぶミステリーツアーです。
ただの愛妻家なんで許してやってください。

コロナの時期になってからしばらくポコチャっていうライブ配信アプリを全力でやっていたこともあります。
ランクが上がると時給が上がるシステムで、一番いい時は1時間配信するだけで時給2500円とかいうすごいランクまで上がったりもしたんですよ。
月に100時間前後、ほぼ毎日配信していましたね。
ただポコチャは闇が深いので多くは語りません。
楽しいことも良いこともたくさんあったけど、しんどいことも嫌な気持ちになることもたくさんあったな。
自分への甘さが生んだトラブルもありました。

ポコチャをやめて、YouTubeをやろうと思ったんですよ。
きっかけは厚谷昇汰プロと同卓したプロリーグの第1節で。
厚谷4連勝、小車4ラス。
この時の内容をノリでAdoのうっせぇわを使って替え歌にしてみたんです。
これがとっても良い出来で、世に出さないのはもったいないと。
機材とかないし動画編集もろくにできなかった僕が、ドンキホーテでカラオケマイク買ってきて部屋で歌って、YouTubeで検索しながら気合いで動画編集してアップしたのがこれ。

これが好評で、味を占めて毎月リーグ戦の内容を替え歌にしてアップするようになったのがミニカーちゃんねる。
ウヒョ助さんの助力などもあり登録者数1,000人にはなんとかできたけど、他の条件がクリアできずまだ収益化はできていないという現状。
最近は忙しさを言い訳に更新が滞っています。
すみません、編集頑張ります。
こんなnote書いてる暇あったら編集しろよってね。
ほんとすみません。

ざっくりって言ったのにめっちゃがっつり書いてしまった。
だけど、15年だもん。
そりゃざっくり書いてもこれくらいにはなりますよね。
書こうと思ってやめたこともたくさんありました。
本題に入る前にこんなに書いてしまって本当にすみません。
僕がプロになってからの15年間は大体こんな感じです。

なぜ麻雀プロを続けているのか

さて、少しずつ本題に入っていきたいと思います。
これたまに聞かれますね、なんで続けてるんですかって。
こういう質問を投げかけてくる人ってプロ活動に対してネガティブなイメージを持っている人が多い気がします。

はっきり言って、そんなものに明確な正解はないんですよ。
それぞれの中であればいいんです。

僕の中では明確ですよ。
単純明快です。

夢を追いかけている自分しか、自分を好きでいられないんです。

僕は高校卒業後、すぐに吉本興業福岡事務所に所属しました。
福岡事務所にはNSCと呼ばれる養成所はなく、4月からいきなり全員普通に所属の芸人になれたんですよね。

芸人を3年間やって、同期の中では結構人気がある方だったと思います。
自分の実力に限界を感じたとかそういう気持ちは一切なく、とっても充実した生活を送っていました。
ただただ、お金がない日々でした。
芸人の先輩がある日こう言ったんですよ。

「ミニカー(芸名)、お金ないんやったら武富士行けばよかろうもん」

当時の芸人の悪い教えみたいなのがあったんですね。
アルバイトもろくにできない拘束時間。
舞台に立てても1舞台のギャラが数百円。
チケットノルマをこなせなければ自腹。
街で若い女の子に必死で声をかけてチケットを売るんだけど、残るよりはマシと安く売ってやっぱりその差額は自腹。

お金なんかあるわけなくて困ってると、先輩が悪魔の囁きをしてきたんですよ。
先輩が言うには、俺たちは売れるために芸人をやっている。
消費者金融で借りたお金は、売れてから返せばいい。
若かった僕は、なるほど!と思いましたね。
なんていいことを教えてくれるんだと。

結果、月々の返済のためにまた新しい消費者金融へ。
審査に落ちてはガッカリ、通ればガッツポーズ。
新しく借りたお金で返済して、残りを持ってパチンコ屋へ。
何社から借りたかなんて全然覚えてません。

返すあてがない消費者金融からの電話がかかってきた時の、あの表現しがたい負の感情は二度と味わいたくないという人生経験だけが得た教訓だったかもしれません。

僕はお金を返して東京に行って1から芸人をやり直そう。
そう思って突然芸人をやめたのでした。
そこからの僕は生まれ変わりました。
これまで以上に、毎日パチンコ屋へ。
データを取って狙い台を選別し、毎朝抽選の列へ並ぶ。

いや、あかんやんって思ったでしょう?
当時はパチスロ4号機全盛期だったんですよ。
まぁ、パチスロの話は本題ではないので掘り下げないことにします。

結果だけお伝えすると、僕はそれまでの借金を約2年ほどで完済。
常連だったパチンコ屋で生涯の友となる大和田篤史君と出会うなどしました。
彼の話は前にもしましたが、また機会があれば。

と、話が脱線しまくってまるで僕の人生のようなのですが、僕はミニカーなので走る道にそもそも線路なかったです。スーパーラッキー!

つまり何が言いたいのかというと、芸人として成功する夢を諦めてやめたわけじゃないってことなんですよ。

やめたばかりの時はまだ芸人の夢を諦めたつもりはないからいいんですけど、結果的に僕がまたどこかの事務所に所属してお笑いをやるという未来はありませんでした。

数年後とかに思うんですよ。
あの時、芸人やめずに続けてたらどうなってたかなーって。
当時は福岡吉本に華丸大吉さんとかいて、特に大吉さんは僕を可愛がってくれて飲みに連れてってくれたりしたんですよ。
そんな華丸大吉さんが数年後に東京に出て大ブレイク。
パンクブーブーさんもそうです。
福岡吉本では僕は10期生でしたが、7期のモンスターズというコンビのボケの佐藤さんと8期のバレッタというコンビのツッコミの黒瀬さんが東京に出てコンビを結成。
M-1優勝してTHE MANZAIも優勝するってとんでもない偉業です。
そういうの見たりすると、僕ももしかしたらどこかで成功できたかもしれないよなって思いが、どうやっても湧き上がってきてしまうんです。
そこまですごい売れ方じゃないにしても、そこそこ名の知れた芸人くらいにはなれたんじゃないのかなって。
大吉さんもそういえば言ってたな、継続は力なりという言葉は僕たちのためにあるような言葉だって。とか。
こういうのが一番きつかった。
20年以上経った今でも、まだそんな思いはなくなってくれないんだから。

芸人をやめた後、吉本時代の後輩がADをやっていた制作会社で作る番組の企画で、面白く話せる占い師を探してるんだけど見つからないからミニカーさんやってくれませんか?とかいうわけのわからない依頼があり、覆面をして「せんべい占い」とかいう怪しすぎる占いをやる占い師の仕事をやりました。
相手の手の平の上にせんべいを置き、上から叩いて割れ方で占うというものでした。
僕が用意したわけではなく、その占いで占い師をやってくれと。

「では先生、お願いします」と言われ、KBCテレビアナウンサー武内さんの手の上に置いたせんべいを叩く僕。
武内さんだけは僕が本物の占い師だと思っていたようです。
いつもやっているかのような素振りでやるんですが、当時の僕はまだ未熟で、人の手の平の上でせんべいを叩き割るという経験は持っていませんでした。
相手の手が痛くない加減がわからないまませんべいを叩くと、一切割れないというアクシデント。

「せ、先生、これは……」
そう言われた僕はすかさず
「……これは非常に珍しいケースですね」
と答える。

その後「占いでこういう風に出たって言ってください」と言われていた内容のことをしゃべる。

このせんべい占いがなぜか大ウケ。
武内さんに気に入ってもらえ、九州では知らない人がいないローカル情報番組「ドォーモ」のプロデューサーを紹介される。
なぜかドォーモのリポーターの仕事を1年間ほどすることに。

その時期はすごかったです。
天神を歩くと「ドォーモ出てるやつやん」とか言われるようになり、その番組内で矢沢永吉氏と20分間1対1で対談をしたり、様々な企画に出させてもらうようになりました。

だけどその時の僕は、東京に行って1から芸人をやりたかったはずで、なんで吉本辞めたのに福岡でフリーのリポーターをやっているんだろうという疑問がありました。

どうしたらいいものかわからない内に、なぜか僕に「一緒にバンドやらないか」というお誘いが来るのでした。
バンド?バンドマン!やりたかったんだそれも!
なんなら趣味で曲とか作ってるよ俺!

そんなノリで不意にバンドマンに。
練習して人前でやれそうになったのでライブも決定。
ドォーモのプロデューサーに「この日ライブするんでロケ入れないでください」と言うと、「は?お前はバンドマンになりたいのか?リポーター頑張りたいんじゃないのか?」と詰められ、「バンドやるのかリポーターやるのか今選べ」と言われる。

今思えば、そりゃそうなのだよ。
こいつを育てて使えるようにしてやろうと、すごい企画を作ってくれたり番組に出してやったりしてる奴が、いきなりバンドでライブやるからロケ入れないでくれって、なめてんのかってなる。
でも僕はやっぱり、そもそも成り行きでなれてしまったリポーターを続けられるモチベーションを持っていなかったんですよね。

ドォーモのリポーター募集って、番組内でやると応募が1500人とか来るんですって。
僕を可愛がってくれてた関ディレクターにはとても残念がられてしまった。
「お前は馬鹿だよ、みんながいいなー羨ましいなーって思ってるものを、自分から捨てるんだから」
この言葉は今でも時々思い出すくらい印象に残っていて、年齢を重ねて将来の自分がもうおそらく大した成功者にはならないだろうと思えてくるほどに、繰り返し蘇っては僕をちくちく攻撃してくるんですよね。

で、バンドマンです。
ボーカルです。
楽器はあんまりうまくならなかったので、最初はギターボーカルでしたがボーカルだけに専念しました。
歌もそんなにうまくないです。
ちょいちょい音外すし。
ただ芸人時代やリポーター時代に培ったトークスキルや、人前で何かをやることに対するメンタルの強さみたいなものはありました。
福岡で有名なライブハウスのオーナーさんが声が面白いって言ってくれて、これからお前らを売り出そうと思ってるんだよと言われたタイミングでバンド解散。
僕は今度こそはちゃんと続けるぞって意気込んでいたのに、バンドって僕だけが続けたくてもメンバーが辞めたくなったら終わりなんですよね。

とかいうと綺麗にまとめてるように見えるけど、まぁバンド解散の理由もきっと僕に非があったんだとは思ってます。
ライブ楽しい!ってのだけでもう満足しちゃってた気もするもの。
それでも僕なりに真剣にやっていたつもりだし、本気でメジャーデビューしたいって思ってたんだよなぁ。

バンド活動を約2年間続けて解散となった頃、僕はその1年前くらいから福岡の雀荘ブルードラゴンでアルバイトをしていました。
ブルドラがそうだとは知らずに入ったのですが、実は連盟九州本部の事務局も兼ねたお店だったんですね。
バンドマンとしての夢も潰えてしまい、今さら芸人をやる気にもなれない。
ずっと大きな夢を追いかけて生きてきた僕は、その夢が突然なくなり生きる気力を完全に失ってしまっていました。

「麻雀のプロテストかぁ。少しのお金出してプロって名乗れるならそれも楽しいかもしれないなぁ」

そんなかるーい不純な気持ちでプロテストを受けたんです。
ひどいもんです。
これに人生賭けるんだ!って意気込みでプロテスト受ける人たくさんいるのに、僕は自分が追いかけてきた夢を失った寂しさを埋めるためだけに連盟のプロテストといわば愛のないセックスをしたんです。

ただ言っておきたいのは、初めはそんな軽い気持ちだったけれど、僕は一気にその魅力に引き込まれていき、結果的には人生を賭けることになりましたよチャンチャンってことです。
バーでナンパしてワンナイトだけのつもりだった相手と結局付き合って結婚しましたみたいな感じです。
バーでナンパしてワンナイトしたことはないですけどね。

で、やっとここに返ってくるんです。

夢を追いかけている自分しか、自分を好きでいられないんです。

吉本をあっさりやめてしまって死ぬほど後悔した僕が、
今度こそはやめないぞと意気込んだバンド活動も自分の意思ではない部分で続けられず、
それでもまだあった、やっと見つけた必死に打ち込めるもの。
その夢を追いかける日々を送ることができるありがたさ、
それを失いたくないから麻雀プロを続けているんです。

これが僕の答え。
ファイナルアンサー。
麻雀プロやめてたまるか。

やめない限りはチャンスが続く。
僕はこんなもんじゃない。
研鑽も積み続ける。
過去の人の小車は、また絶対に麻雀で結果出して今の人になってやるんだ。

麻雀プロってなんですか?

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