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山下洋平『ルポ ゲーム条例』 〜つべこべ言い、ガタガタ言う〜


善悪は組み合わせ



ぼくがとても大切にしている考え方がある。
スピノザの「善悪は組み合わせ」という概念だ。

子どもの頃はファミコンしかやっていた記憶がないが、今ぼくはゲームからは距離を置くようにした。ハマりやすい性格であるのと、時間に融通が効くフリーランスなので、面白いゲームがあると1日12時間とか平気でやってしまう。

『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』なんて無茶苦茶やりたいが、手を出したら生活が崩壊するとわかっているので、手を出さない。ゲーム機があると買ってしまうので、ゲーム機自体を持たないようにしている。

ぼくの個性と、今の状況×ゲームという組み合わせは良くないと思っている。だから、自分で距離を置いた。問題はその組み合わせであってゲーム単体ではない。

ゲームは悪か、救いか


香川県で施行されたいわゆる「ゲーム条例」ではゲームは端的に「悪」だとみなされている。(第18条の2項では、ゲームの利用を平日60分、休みの日は90分を上限とさせること、スマートフォンの使用も、中学までの子どもは午後9時まで、それ以外の子どもは午後10時までに使用をやめることが目安であり、ルールとして遵守することが求められている)

ゲーム条例が妥当である理由として、こんな参考資料が用いられた。

それはスマホの使用時間と、テストの平均正答率をグラフにしたもの。テストの正答率はスマホ使用が1時間未満の生徒が最も高い。そして、スマホの利用時間が長くなるにつれ、成績も下がっている。

一見もっともらしい。スマホやそのゲームに夢中になるあまり、勉強する時間が減り、成績が下がる。誰もが身に覚えがあるような因果関係でもある。

しかし、これは逆の因果関係としても読める。学校で勉強がうまくいかない生徒が、スマホのゲームで気晴らしをしがちである。勉強が得意な生徒が自信を深め、さらに家庭での勉強に邁進することもあるだろう。

ゲームはストレス解消にもなる面もある。ゲーム機は持っていないが、ぼくは本当にストレスが多い状況になった時に「もう、ゲームしかない」と思って、Macでゲームをすることがある。そんな時に、ゲームを取り上げられたらなおさら悪い精神状態に陥ってしまうと思う。(もちろん本当にカウンセリングや特別なケアが必要なほど、ゲームに依存してしまうこともあるだろうと思う)

誰かから強制されたくない


ぼくは、子どもの頃本当に自由にさせてもらっていて、ゲームばかりしていた。大人になり、自分とゲームの組み合わせが悪いと思ってからは自分から距離を置いた。

もし誰かから「ゲームなんてやめろ!」と言われたら、ぼくは今でもゲームをやり続けているのではないかと思う。子どもの頃禁止されていたら、大人になり、自由になってからその反動も大きかったと思う。

子どもの頃は、ゲームが大切なコミュニケーションツールだった。それは今も変わらない面もある。盆や正月は甥や姪たちと『マリオカート』や『スマブラ』や『マリオパーティ』をしたりして、それも大切な時間になっている。

それでもゲームに偏見がある人は、日本初のプロゲーマー梅原大吾さんの生き様に触れてみるのもいいと思う。ゲームに真剣に打ち込むことは、スポーツに真剣に打ち込むことと変わらないことがよくわかる。

決まったことに、つべこべ言い、ガタガタ言う!!


かなり前だが、「決まったことについて、つべこべ言うな」という空気が日本の問題点だと聞いたことがある。

ゲーム条例は施行されて3年経っているが、ほとんどの家庭で顧みられていることはないのではないかと思う。それでも、著者は本当に執拗に丹念に過程だけでなく、その後も取材している。正当に食い下がっている。

その執拗さ、丹念さと、ゲーム条例が施行に至るまでの杜撰さ、卑怯さはまぶしいほどのコントラストを描いている。

ゲーム条例が、地元の香川県で施行された時は、本当に恥ずかしい気持ちになった。著者の山下くんは、高校の時同じクラスで委員長を務めていたのだが、山下くんの鬼気迫るような取材を見ると、いつも誇らしい気持ちになる。

「あの姿を見ろ、あれがオレたちの委員長だ」

ゴン=フリークスの後ろ姿を見届ける、シュート=マクマホンのようになってしまう。


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