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急ぐ私をせき止めて、実家に帰った話

いつも、この類の話を書くときは。ちょうどいい曲を探すのに、少し時間がかかる。

▼今の、わたし。

特に最近、何かがものすごく忙しかったわけではない。

むしろ、仕事で緊張感を伴うものからは少し離れていて、あらゆることを少しだけ最初からリセットできそうな感覚の中にいる。

私に求められるものが変わって、私が目標とするものも変わって、二週間前、「急に登っていた梯子が外されたの」と泣いていた。

そこから切り替えて、新しいポジションで、少し前に触れていただけの世界に戻って、心のどこかで楽しみにしていたものと向き合いながら、掴みきれない雲のようなモヤモヤした世界の中で「自分の今」と向き合っていた。

外に出ることが大半になって、汗をかくようになって、前までは言えなかった画面越しのお客さんと対面して、気づきことがたくさんあって、それはとてもエキサイティングだった。

ただ、何かが私の心を圧迫してた。
自分の心に何かを変えたり、何かにトライする余白がなかった。
多分、物事を受け取る自分のフィルターが曇っていて、あらゆるものを窮屈に見せていた。

ずっと「外に出たい」と言っていたチームを置いて、私はどこか自分を上に見ていた。「抜擢されたんだ」と。

泣いていたくせに、本当は与えられたポジションの価値をわかっていながら、手にしたものを密かに喜んだ。

自分には、何もないのに。

クロージングする力も、目の前のお客さんと口説き心を変え、ずれた心と知らなかったことに胸を打たせる知識も、経験も、自信もない

私自身、「本当の私」をわかっていながら。

本当の私を隠すために、本当の私を、ちゃんと隠すために。

ありもしない虚像の私を作り出して、それがまるで仕事ができる何かであり、以前作りだした記録をもって超越し、それぞれが今持っている何かをすでに解決したかのように。

イットキの栄光にすがり、いつまでもそれが正しいものだと思い、それゆえにできない人を理解できず、寄り添うこともしようと思わない。

許せなくなる。自分を許すことができないから。

自分を許し受容してあげられるほどに、自分自身の心と向き合ってあげることができていないから。自分自身の課題と向き合うことができていないから。

いつまでも、「こうあらなきゃいけない」を、行動に移すことを億劫に思い、十分にそれ以外のことで時間を使うことに言い訳をし、自分を納得させて眠りについていた。

「このままでは、いけない」という焦りが。真実が。自分の心を押しつぶしていた。

誰かに優しくすることもできなかった。うまく回らない物事があると、イライラした。自分の課題でもないが少しでも自分がわかることなら、自分の心のままに人に当たった。

自分のことを、どこか棚の上に置いておくことで、積み重なった「逃げ」と、「重圧」から、逃げたかったから。

▼「今」が続くことへの限界

不思議と、その時間とタイミングがあったのでよかった。

実家に帰ると休みを取っていたタイミングが、自分が逃げるように東京を出たかった時だった。

朝起きて、眠くて全く当初の予定通り新幹線に乗ることができなかった初日からはじまり、降り立った地はあいも変わらず空気が綺麗で、誰かがエスカレーターで荷物を落として拾ってあげる他人との間に生まれる会話と感謝の声を聞いて、泣きそうになったりした。

2時間半新幹線に乗れば、こんなに人と人の距離が近い温かいところに戻ってこれるんだと思った。

そんな光景を見るだけで泣きそうになるなんて、心が弱っているってことだ。

心が弱りすぎていて、私の心はシクシクと泣く場所を求めていた。それが、とてもわかった。

東京が冷たい場所で、寂しい場所で、心が満たされないとか、そういうことではない気がする。東京で生きるに当たって、自分自身が自分の心を委ねて愛することができる場所を見つければいい、そんなことのような、そんなことでもない気もする。

東京は面白い。いつだって想像を超えて、出会いの幅を広げてくれる。

でも、「なんのために?」それがぽっかり抜けているのかもしれない。「なんのために?」この人混みに揉まれて、毎日のスケジュールにおわれて、自分の時間を土日に集約しなきゃいけないんだろう?

私がここに生きて、ここで時間を使って、大量にあるコミュニティからこの場所を選んで過ごしているのはなんでだろう?

転職前に自分に何度も問いかけて、結局深くは気づくことの出来なかった問いに、また直面している。

何度も大義を追いかけて、それが美しいストーリー仕立てであればあるほど感動を巻き起こすことができた少し歪んだ世界から抜け出して、

でもまたこうやって、自分を見つめ直す。自分の心の悲鳴に気づいてしまった。

自分の心の悲鳴に。

▼実家で過ごすこと

久しぶりに美しい空気を吸って、晴れやかな天気の中、買い物に行って、少し遠くの祭りに行って、食べ過ぎだなと思いながら重いお腹をひきづって、

祭りで踊り狂う笑顔の集団を見て、また目が潤む。

心が弱っているからなんだって、これを書きながら気づいた。

眩しかった。汗を降り出して、身体を仲間と預けて、なりふりではなく心で向き合って、「この瞬間のためにやってきた」という刹那さと、比例することのない思いの強さが、ただひたすら眩しかった。

心が簡単に動かされた。彼らが求めているのは、こんな涙ではなく、見てくれたひとが笑顔になって、明日からも頑張ろうと思ってくれることなのかもしれない。

でも私にとってはただただ眩しくて、泣けてしまった。

なんでだろう。自分はそこまで輝くことができていない、という自負ゆえの寂しさだろうか。悲しみだろうか。見たくないという葛藤だろうか。自分の、自分に対する悔しさだろうか。

美しいものを見たときに、あまりにダイレクトに心にぶつかってきて、心が動いたからだろうか。

多分、回答は全部。みんなが集いながら拍手をして笑って感動するその最中で、私はなんだかヒロインみたいだった。

たくさんのものを食べて、普段食べないものも食べて、普段いない景色に囲まれて、普段話のできない家族と過ごして、

確実に何かが変わると思ったけど、引っかかるものがある。それが今、私をこうやってかき立てている。

墓参りに行った。小雨の中、掃除をして、黙々と茎をきっているとき、「フロー」の中にいた。

集中していた。家族のことなのか、考えていたのは何だったのか覚えていないけど。

久しぶりに、一瞬、空っぽになったみたいだった。

それがとても心地よくて、でもそれがなんでその瞬間かなったのかっていうと、その時間が、いる場所が、やっていることが、本質だったからだ。

向き合う必要があった。自分の心に。癒しを与えるべきだった。東京にいて、普段触れる人たちにもらえる活力とは全く別のものを。

先祖の空気の中で、「自分」という存在そのものに向き合うことが、私には必要だった。

心が洗われるようだった。誰かと会話をしたわけではないけど、その場では心おだやかに優しくなれる気がした。

いろんな繋がりがあって、今の私がいることを認識することだったのかもしれない。

仕事だの美容だの恋愛だの色々付随して付いてきている気がしたけど、死ぬことの側には、そのどれもが存在しないことを。私という本体が、本質が、ここに存在し、ここに必要な繋がりとして確立をされていて、どんなことがあっても、そこからなくなることはないのだと。

どんなに表面的な肩書きが変わっても、どこかで何かがあっても、自分の本質は揺らがないものなのだと。ここにあるのだと。

幸せなことに、わかったから、深く認識をしたからかもしれない。

必要なのは、「自分」という本質的なもののの存在を確立することと、それを環境で感じること。そこに立ち返ることができたのが、とても大きかったように思う。

上記の表面的に言っていた仕事での評価や、誰かの声や、誰かと比べたときの自分の立ち位置や、周りのスピードが、

本質的な「自分」にモヤをかけて、見えなくさせることがある。それが積み重なればなるほど、誰か他の人にその確立を委ねたくなる。

深い愛をくれる可能性のある人を、どこまでも手放したくなくなる。

その人に、私から離れることをせず、私を深く愛し、私を抱きしめ、私のことで頭がいっぱいになり、私以外考えられない時間を過ごしてしまえばいいと、投げやりになってしまう。

全く本質的ではないのに、それでしか自分を救うことができないと思っていて、それしか自分には手段がないと思っている。

ふとした瞬間に思い出すのは、あの人と一緒にいる時間の中でも、特に愛し合っているとき。身体を預けあって、燃え上がって、多少の心のすれ違いなど気にすることもなく、汗の中で身体を重ねるとき。

その瞬間、私は満たされていると、思ってしまってる。

その瞬間が、この上なく欲しくなる。

その前後は、ずれていて、あなたと時間を過ごす中でミスマッチな部分の方が多いんじゃないかって懸念を持ちながらも、セックスの時間で、何かが埋まると思っている。

ちゃんと、自分の心が弱っているんだって。

自分の心が弱っているから、大きなチャレンジも、何かを一瞬捨てることもできない。

ちゃんと、それをわかってあげた方がいい。

自分で自分を、喜ばせる手段を知った方がいい。

擦りきれずに、自分の存在を確立し、それに触れる機会をもとう。それが、実家に帰ってくるということなのかもしれない。

物理的に普段の土地から切り離して、まっさらな地で、そんなことと無縁の人たちに囲まれて、生きることと、自分という本体に何かを注ぎ込むことができる環境へ。

それさえできれば、何度でもきっと立ち上がって、何度でも戻ってこれる気がする。

▼これからのこと

東京の波に呑まれることが決まっている時間が迫り、
全ての物事は、自分の心フィルター次第なのだとわかり。

心が弱っていて、泣く場所を求めていて、
それに気づいてあげれたこと。
自分の心の変化と弱さに気づくことを覚えたこと。

先の自分や、外の世界で自分を誤魔化すのではなく、
「いま」心が向き合いたいと願っているコトに全力になって、その道をまずはちゃんと見つめること。

自分を満たしてあげてから、誰かの幸せを願う余裕が生まれること。

「わたし」という本質は、いつもこの場所で確立されていること。

誰かのために生きるのではなく、私が可愛いと思う私でい続けることが最大の幸せに繋がること。

未来のことは、描くだけではなく情報収集し、アクションすることで見えてくること。

人との繋がりで、人生が変わってきたし、これからも変わっていくということ。

たくさんのことがあるが、ちゃんと心に向き合う時間をこうやって設けることができれば、
色んなことを整理して、まとめて、向き合って、大事にできる気がする。

そして、
①何が自分の大義なのか、
をふわりとでもちゃんと持つこと。
それが今に、仕事に、プライベートに繋がっていることを噛み砕いて理解すること。

②目先の役割で、結果を出すために全力を出すこと。
その疲れがいずれ大きなブーメランとして戻ってくる未来を自分のために信じること。

③心が疲れているからこそ、
その時に必要な場所と、空間を都内でもちゃんと見つけること。休日はその場所に通うこと。

④時間は有限であり、お金も有限だからこそ、
ちゃんとワクワクできるところに両方を使うこと。
新しいことへのチャレンジを怖がらず、私をどんどん新しい刺激の中に導いてあげること。

それらをはばかるものが、「他人」であり「他人の目」であり、「誰かの愛」なら、
切ってあげること。私のために。あなたのために。

とても好きな言葉がある。聖書に。

「神よ、願わくば変えることの出来ない物事を受け入れる落ち着きと、
変えることの出来る物事を変える勇気と、
それらを見分ける知恵とを授けたまえ。」

毎日を生きるってことは、
なんだかそれだけでは彩りを失うように思うことがあるけど、
毎日っていうのはただそこにあるだけで。

来続けるそれを、どう受け止めて調理して彩りをつけられるかは、きっと私の心次第。

誰かが責任をもって彩りを付けてくれるものじゃない。
私が動くことで全てが変わってく。

その楽しさと、スリルを、
心に向き合いながら大切にすること。

とても良い気付きを得た、三日間でした。