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今を最高の状態で生きたいなら、自分と「対話」、し続ける。

時間をかけて自分に向き合っているのに、自分のこころが紐解けないときが悲しい。

自分をいつもの混沌の中から引き出して、楽にしてあげたいのに。

緩むことのない弦を緩めてあげて、何も背負わない自分に戻してあげたいのに。


心が曇ったままで、「書く」ということすら少し負担に感じてしまう状態。

心は、きっと「それを行うのは今ではない」って言っているのかも知れない。」

体は、もうその準備ができているし、そんな環境にいるにも関わらず。


心っていうのはわがままだ。

本能っていうのは、贅沢だ。


そのままに生きて行動することなんて、そもそもできないのかもれない。誰かが誰かのために生きることなんてできないのはわかるけど、

自分すら自分の本能を常に満たしてあげることができないのかも知れない


究極の人間論だと思っている。

言葉にすることが、自分の感情ですら難しいのに。一体どうやって、感情と求める行動の一致を図っていくのか。


自分に対しても、試行錯誤だというのか。

仕事やプライベートに限らず、自分に対しても模索を続けるということなのか。

そこに正解はなくて、ゴールもなくて、日常の中で移り変わっていく自分の変化と、故に受け取る方も変わっていく物事。

それらを昔のままにするのではなくて、自分の中で常にアップデートをし、「今」を生きる。


今を最高の状態で生きたいなら、自分と「対話」する。

対話、し続ける。


何を嬉しいと思った?何を苦しいと思った?

何がイヤで、何を好きだと思った?

何が欲しい?何が足りない?どうして、さびしいの?


私は、人間はナマモノだ。

グニャグニャと、普段触れるものからたくさんのことを受け取っている。たくさんのことを自分のフィルターを介して受け取り、感情は正直に零れ落ちてくる。

感情という面では、同じ日など二度とやってこなくて、

毎日違う世界の中で、いつも移り変わる他人の感情の中で生きている。


そりゃあ、フィルターは少しずつ形をかえ、もしくは厚さを、色を変え、私は常に何者かを形作っている。

そこに終わりはない。終わりも、きっと正解も、ない。

将来の何かに向かって、それこそ死に向かって、形作る様々なものに触れて、受け取って、捨てて、選んでいく。


「私」からは離れることができないからこそ、私は私と対話をする必要があるかもしれない。

今の自分の感情に、向き合って。

時にそれに名前をつけて。


非常にいたいけだと思った。

人間は、私は、大変だ。難しいものだ。生きることはシンプルでありながら、奥が深い。

シンプルに生きよう。

宙ぶらりんで、血の繋がり以上の強いつながりを感じづらい世界で。

健気に、「良く」生きようと思う、いたいけな愛おしいくらいのかわいそうな生き物。


対話は、世界を変える。

自分が変われば、世界の捉え方も世界も変わって見える。そういうことだから、ゆっくり行こう。