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性交渉の矛盾

「『二人きりでご飯に行ける』=『ヤレる』ではない」

という意見は正しいと思う。二人きりでご飯に行くことを性交渉の同意だと捉えられてしまうと、友だちとご飯に行くことも、会社終わりに同僚と一杯ひっかけることもままならなくなる。そんなのはあまりに窮屈だ。

最近スウェーデンで、明白な合意のない性行為をレイプと見なす新法が施行されたこともあり、性交渉に「誠実さ」を求める声もますます大きくなっている。そのことに対して批判も多く存在するが、これだけ性理解の乏しく、ハラスメントが多い国(日本)においては、性交渉のあり方を見つめ直すことはかなり重要なことだ。

しかし、こうした風潮の高まりを見て、少し懸念することも出てきた。それは性への誠実さを通り越して、「潔癖症」ともいえる状態に陥ってしまうことだ。不誠実な(明確な合意のない)性交渉を責める風潮が強くなりすぎてしまい、結果として自分たちを苦しめることになってしまわないか、という懸念である。

たとえば、上に挙げた「『二人きりでご飯に行ける』=『ヤレる』」という思い込み。これはほとんど間違った認識だが、そういうふうに捉えている人の方がヤレてしまう実情は残念ながらある。「その場の雰囲気で……」「押しに押されて断れず……」といったことはよく耳にしないだろうか。

「性に対して誠実であらなければならない」という思いと、不誠実なやり方で性交渉に成功している人がいる事実。この矛盾に苦しむ人は案外多いのではないか。あまりに強い誠実さゆえに(不誠実になることを恐れ)性交渉自体を抑圧してしまう人もいるだろう。その抑圧されたものを吐き出すために、不誠実な性交渉を行う人へ過度な攻撃性が生まれてしまうのではないか。そしてその成れの果てが、非モテの社会的復讐になる可能性もあるのではないかと思うのだ。

もちろん、モテることと誠実であることは全く別の問題である。誠実にアプローチし、誠実な性交渉をすることは可能だ。しかし「自分は誠実に性と向き合っている」という思想は非モテにとって大きな後ろ盾になるし、モテる人たちを攻撃するための大義名分ともなる(実際、そのような構図はたびたび見られる)。

このように「誠実であらなければならない」という思い込みは、ときとして暴力的で、自分も他人も傷つけてしまうこともある。それが自分に合った考えでないのなら、思い切って捨ててしまう身軽さを持っていても良いのではないかと思う。これは別に「不誠実な性交渉をしよう」といっているわけではないが、誠実であることに対して、強迫観念のようなものは持たなくてもいいのではないかということだ。

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