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口が上手くなるたびに危惧していること

嬉しいことに、ここ最近は話すのが上手くなったなぁと思うことが多い。

人並み以上に前に立って話をする機会も多かったし、1年以上事業責任者として社内外問わず色んな人と話していたから、まぁ当然といえば当然のことだ。

ただ、それと同時に危惧していることもある。

それは、自分は無意識の内に相手を丸め込んでいないか、論破しようとしていないか、ということ。

口が上手くなるほど、議論は独占的になりやすい

前回の記事でお話したとおり、僕はもともと非論理的で口下手な人間だ。

誰かと議論する際、たとえこちら側が如何に正しくても、上手く言いくるめられてしまうことが多かったし、自分の主張をちゃんと伝えることはあまりできなかった。

だからこそ、相手を上手く言いくるめることには、相手が言わんとしていたこと、本来正しかったことまでも見失ってしまう危険性があるということを肌で感じとっていた。

本来、個人というのは正しくないこと(≠間違っていること)の方が多いものだ。

いろんな経験を積み、いろんな人の意見を考慮していくことで、はじめて「正しさ」というものは作られていく。

しかし、一方的に口が上手くなってしまうと、不確定な「正しさ」を作っていくための議論が、自分の「正しさ」を主張するだけの場になってしまう。

そして、片一方の意見は説得性がないものとしていとも簡単に軽視されてしまう。

つまるところ、議論というのは正しさを作っていく場であるのに、正しさを押し付ける場になってしまっているのである。

「正しさ」を押し付けることよりも

論理的に考えられるようになり、ある程度口が上手くなった僕は、無意識の内にその力をむやみに乱用していないかと気にするようになった。

歳を重ねれば重ねるほど、どうしても賢くなった気分になってしまう。実際賢くなっているのだとは思うのだが、賢いから「正しい」というわけでもない。

だからこそ、「正しさ」を押し付けることよりも、「正しさ」を一緒に見つけていく努力していきたいと、そう思うのだ。

そうすれば、もっと多様な価値観を認めていけるようになれるし、議論の際に嫌な奴の顔をしなくて済むのだ。

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