「禁忌(タブー)」にしなければ、気が済まない人たちへ

わずか一週間足らずで、放送中止となった日清食品のカップヌードルのCM「OBAKA’s UNIVERSITY」をご存知だろうか?

「バカになる、それは自分をさらけ出すことだ。」

「世間の声とかどうでもいい、大切なことは自分の声を聴くってことだろう。」

「お利口さんじゃ、時代なんか変えられねぇよ。」

といった、キラーフレーズが飛び交うユニークなCMなのだが、視聴者の一部から批判が殺到し、あえなく放送中止。

批判の内容は、「虚偽や不倫を擁護している!」というもので、矢口真里さんや新垣隆さんのように、かつてスキャンダルがあった人物をCMで肯定的に起用したことが責められたようだ。

ーー「たくさんのご意見」があったそうですが、具体的に何件でしたか。

具体的な数字は控えさせていただきます。ただ相当数な数でした。1件、2件ではありません。

ーー「ご不快な思いを感じさせる表現がありました」とありますが、どのあたりが不快なんですか。

CMの中の表現です。虚偽や不倫を擁護する表現がありました。

引用 -「批判は想定していたが…」攻め過ぎたカップヌードルのCMが放送中止に

禁忌(タブー)で面白くなくなる世界

このCMにおいて、具体的に誰が悪いとか、何が悪いとか言及するつもりはない。

しかし、これまで日本で起きた様々な出来事(特にテレビ)を見る限り、どうも日本は禁忌(タブー)が多すぎるように思えてならない。

ちょっとしたアダルトやグロテスクはもちろん、演出(もちろん、完全なる「やらせ」はNG)、出演者のスキャンダル、事故などは全て禁忌。

こうした禁忌が増えていくことで、ものづくりに様々な制約がかかり、結果、創り手は、誰からも批判されない無難なものを創るようになる。

少しでも禁忌を犯そうものなら、即座に集団で罰せられるのだから、そうなるのは当たり前だ。

もちろん、誰も傷つけない、不愉快にさせないような、無難なものを否定するわけではないが、全てが禁忌によって制限されると、本来面白いものまで面白くなくなってしまうのは明白だ。

(余談ではあるが、「キングダム」という春秋戦国時代をテーマとした人気漫画があり、それがNHKでアニメ化されていたのだが、その漫画の中にはSEXシーンがある。

当然、アニメではそのシーンは割愛。その割愛度合いも凄くて、SEXをしているシーンを描写しないどころか、SEXをするという行為そのもの自体が無いように描写されていたのである。

別にSEXシーンが見たいというわけではないが、あんなもので何をどう納得すればいいのか……

正直、作品としてあるものまで歪めてしまうのはどうかと思う。)

誰にだって禁忌となり得る素質がある

これは完全に僕個人の意見なので、反発する方も多いだろうが、「誰にだって禁忌となり得る素質がある」と僕は思っている。

お金がないときに買い物に行けば「万引きしたい」と、腹が立つ大嫌いな人がいれば「死ねばいい」と、一瞬でも思ったことはないだろうか?

もちろん、実際には理性がしっかり働いて、そのような犯罪をする人は少ないだろう。

「思っているだけ」と「実際に行動すること」には大きな溝があることも否めない。

でも、自分の中にも禁忌となり得る素質は眠っていることは確かなことだ。

だから、僕はテレビでスキャンダルや犯罪を見るたび、どうも他人事には思えなくて、「あぁ、自分もそっち側に行く可能性は十分にあるなぁ。」といつも思う。

そして、僕の横で「こんな奴(犯罪者)、死ねば良いねん。」と、親がつぶやくのが心苦しくなる。

禁忌を許すこと

ただ僕がここで言いたいのは、誰にだって禁忌となり得る素質はあるから、なんでもかんでも禁忌にするのは辞めよう、ということではない。

僕が何にもまして伝えたいことは、禁忌を破った際に行われる、「集団リンチ」とも言えるような非道な罰し方、その「禁忌は絶対に許さない」という姿勢は辞めたほうがいいということだ。

先のCMで言えば、虚偽や不倫をした人を擁護される対象とは認めず、これから先も「見せしめ」として、叩いていく対象と認識されていることが分かる。

そんな過去のこと擁護して何が悪いというのだろう?彼・彼女らがしたことはダメなことであるのは間違いないが、それは決して許されないものだろうか?


仮に、過去のことが決して許されないのであれば、世の中の大半が罪人だし、日本人というだけでも罪人と呼べるのではないだろうか?

何を隠そう、かつて日本人は他国を蹂躙してきたではないか。

これは論のすり替えのように思えるかもしれないが、言っていることは同じつもりだ。

ある程度の禁忌を許さない限り、絶対に平和は訪れないし、必死で立ち直ろうとする人も立ち直れない世界になる。

だから、僕らには禁忌を許す努力が必要だ。

それは、今まで自分の価値観を否定することになるかもしれない。決して許せない出来事を許容することになるかもしれない。恐らく、すべてを許すことは不可能だろう。

だけど、僕ら一人ひとりが少しずつでも禁忌を許せるようになれば、ものづくりの制約の緩和や上に挙げた世界の多少なりともの改善は見込める。

加えて、自由に生きられるようにもなる。

当たり前だが、他を許せない人は自分も許していないのだ。結果、「あれもダメ、これもダメ」という柵が増えてできることが少なくなる。不自由に生きていくことになる。

「禁忌」にしないと、気が済まない人たちへ。

もう一度しっかり考えてみて欲しい。

自分の中で許せないことはなにか、自分を不自由にしているものはなにか。

それが分かれば、他に対して1つ優しくなれるから。

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野阪 拓海

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