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「コンビニ人間」とこうの史代〜「普通」を疑うということ〜

「コンビニ人間」を読み終えて。

本日、8/17に村田沙耶香「コンビニ人間」を読み終えました。第155回芥川賞に輝いた本書をなぜ読んだかというと、単純にページ数が少なかったから。決して新しいもの好きではないぼくとしては、結構珍しい選書だったのです。

(※読書メーターに感想を上げました。文字数が限られているので、なかなかうまく書くのが難しいのですが、以下この感想に依拠して論を展開する予定ですので、お手数ですがご一読頂きたく存じます。)

結論から言うと、とても面白かったです。このセカイと自分の価値観のギャップに戸惑う主人公恵子にはとても共感しましたし、他方、周りをバカにし続けることでなんとか自尊心を保つ白羽にも、うだつの上がらないぼく自身を投影してしまう。男性も女性も共に楽しめる作品なのではないでしょうか。

ただ、おそらく本書の魅力はそれだけではない。読書メーターでも書きましたが、世俗の価値観(結婚、出産、金儲け、承認欲求など)に囚われない人間とは、どのようなことを考え、どのように生き、そしてどのようなことに幸福を感じるのか、という一つの人生哲学が提示されたような気がしたのです。

なぜこんなことを考えてしまったか。ぼくは実際に恵子のような女性を知っているということもあります。また、ぼくの大好きな漫画家の作品を想起したことも大きい。前者はあまりにプライベートな話なので、後者について書いていきたいと思います。

こうの史代「長い道」・「古い女」

ぼくはこの本を読んで思い出したのが、こうの史代という漫画家です。ぼくは彼女の大ファンで、彼女の作品はだいたい持っていると思います。最近では映画化もされた「この世界の片隅に」が有名ですね。(余談ですが、個人的には手塚治虫文化賞を受賞した「夕凪の街 桜の国」の方が完成度が高いと思います。片渕須直による「この世界の片隅に」の映画が良作だったため、世間では評価が逆転してしまったようですが。古参ファンとしては歯がゆい…。)

さて彼女の作品の最大の特徴は、日常をしっかり生きることそのものが最大のドラマなのだという強い意志が、定型的なズッコケ・ギャクのあらゆるところから読み取れることです。(この手法は、業田良家の傑作「自虐の詩」に近いですね。どこにでもいる貧乏夫婦にも、ドラマティックな人生があることを、衝撃的なストーリーテリングで描かれた4コマ漫画です。)

「この世界の片隅に」も、その手法は踏襲されています。主人公すずの日常をこれでもかと丁寧に描写することによって、戦争末期の非日常の悲劇が極大化される。しかしこの作品が並みの秀作ではないところは、その非日常のなかにも「日常」がある、ということです。そして、その日常こそがドラマティックなのです。(評論家の宇野常寛は、すずのそうした生活保守性を「小市民的」だと言いますが、むしろすずの玉音放送後の絶叫が彼女の「日常」の延長線上に「非日常」があったことを示します。日常が丁寧に描かれている「だけ」ではないのです。)

こうの史代の話になるとだいぶ饒舌になってしまいました。話を元に戻します。「コンビニ人間」で感じた、世俗の価値観に囚われない人間の人生哲学についてです。ぼくは、こうの史代作品から「長い道」という作品を召喚したいと思います。

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(※本の紹介には「女好きで、無職で、カイショなしの荘介。鈍感で、ノー天気な道。酔っ払った互いの父親に仕組まれて結婚しちゃったふたり。かなり不思議で、おかしくて。笑えちゃうのに、切なくて…。甘い言葉は全くないけど、大事な時にちゃんと優しい。――そんな、夫婦の物語。」となっています。)

紹介にもありますが、お互い好きでもないのに結婚してしまった荘介と道という夫婦が、普通に日常を暮らしていくだけの漫画です。荘介は道と離婚したくて仕方がなくて、毎夜他の女性と遊び歩いており、お金がないときだけ家に帰ってきます。道はいつもぼーっとしている女性で、結婚しろと親に言われたから荘介の元に嫁いできます。彼のことが好きかどうかも不確かですが、喫茶店でアルバイトをして生計を立てており、荘介が帰ってこようとこまいと関係なく、日々を眈々と過ごしています。

ぼくの「コンビニ人間」の整理を適用すると、荘介は恋愛結婚がしたい「普通の人」です。そして、好きでもない人と結婚し、アルバイトで生活を支える道(荘介は定職に就いていない)は、やはり価値観がズレた人なのです。荘介は「コンビニ人間」の白羽のようなネトウヨ的ダメ人間ではないですが、それでも道に対して苛立ちを隠せません。「お前の自由意志はどこにいった。」と詰め寄ったりします。

では、道は「虚無」なのでしょうか。好きな人がいるわけでもなく、結婚したいわけでもなく、仕事で成功したいわけでもありません。ましてや、誰かに自分を認めて欲しいという承認欲求もありません。

彼女は世俗の価値観の外側にいるのです。自分の意志で自由に何かを選択でき、自分の能力で成功したり幸福になったりすることができる、ということに価値を置いていないのです。いや、もう少し深読みすると、「自由に何かを選択できる」「自力で何か達成できる」という世界観そのものが虚構であるということが、直観的にわかっているのだと思います。

ぼくたちは、結婚するしないも自由、子どもを作らなくても自由、自分でやりたいことをみつけるのも自由、すべてが自由になるセカイを最上だと信じています。しかし、それは本当にそう言い切ってしまってよいのでしょうか。自由を得たことで失うものもあるのではないでしょうか。

道はほとんど何にも拒絶しません。すべては成り行きに身を委ね、そのなかで得られる最大限の幸せをゆっくりゆったり味わいます。ぼくは、そんな道の姿に「悟り」に近い美しさと、日常こそがドラマティックで生きがいに満ちていることを教えられます。

こうの史代からもう一つ作品を紹介させてください。

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なんと2006年に小林よしのり責任編集「わしズム」に、こうの史代の書き下ろし作品が掲載されているのです。それが「古い女」です。

この短編は、なかなか一言では説明できない作品です。簡単に言えば、古い男尊女卑の家庭で育った主人公の女の子が、多くの人が経験するように小中高校と出て大学に入り、そこのコンパで出会った男性とその後結婚する、というストーリーです。こう書くとなんの変哲もないものです。

ですが、最後のページはなかなかびっくりするモノローグで締められています。ここからは最重要ネタバレになりますので、ネタバレ無しで読みたい人はさっと飛ばして頂ければと思います。(いまこの短編を読める方法があるかは不明ですが。)

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どうでしょうか。

もしかしてここだけ読むと「こうの史代は右翼漫画を描いていたのか!許せん!」という脊髄反射的な批判が出てくるかもしれませんが、そんな単純な作品ではありません。ただこれに関しては、読んだ人間がちゃんと考えなければいけないので、ここで自説を開陳するのはやめておこうかと思います。また、本論とも直接は関係ないですし。

ここで重要なことは、上述した「長い道」における道の、世俗の価値観からズレている根拠がこの短編にあるということです。つまり、昔の価値観(=古い女)を現代に滑り込ませると道になるのです。もちろんこれは上述したように「美しさ」や「強さ」を感じるだけでなく、両義的です。だからこそ、先ほどのオチが必要なのです。

ただ現代の、能動的にすべてに選択が迫られる自由なセカイでは取りこぼしてしまうものがある、ということなのです。そしてそれを体現させる人として道がいる。ぼくは、こういった感性はとても大切なものだと感じます。

國分功一郎「中動態の世界」

このような感覚をどう言語化しようかと悩んだ際に、絶対に紹介したい本があります。それが、國分功一郎「中動態の世界」です。

(※本論も長くなってしまったので説明は省く。一応ぼくの感想を貼っておくので、ご興味があれば読んで頂きたい。)

「コンビニ人間」における恵子がコンビニ店員を始めたのは偶然でした。また「長い道」の道も、荘介に嫁ぐことは偶然でした。恵子も道も、ともに受動的に運命に従ったかたちです。ですがその後の二人は、その運命に身を委ね、そのなかで幸せを見つけていきます。彼女たちのそうした姿勢は、まさに中動態(=受動的能動)だといえるでしょう。

そして言わずもがな、白羽や荘介といった「普通の人」の姿勢は能動態(もしくは受動態)です。このセカイを受け入れたい(もしくはセカイから受け入れられたい)という姿勢なのですから。

「コンビニ人間」のラストで、コンビニが出産のメタファーとして描かれています。(正確には、コンビニのガラスから甥っ子が産まれた時に寝かされていた病院の部屋のガラスを連想した。)人間は常に受動的に産まれてきます。その時点でぼくたちはすでに運命の手の中にいるのです。その運命に逆らわず生きていく恵子や道こそ、実は「普通」なのではないでしょうか。

白羽は、「普通」が「普通でない」ことに憤っています。それは恵子も理解できる論理でした。しかし、本当に「普通」が「普通でない」と理解できるのならば、恵子のように憤らないはずです。

ぼくたち「普通の人」は、まず「普通」が「普通ではない」ことを「本当に」理解しなくてはなりません。そうすればその先に、恵子や道が掴んでいるだろう「幸せ」の一端を垣間見ることができるのではないでしょうか。

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